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第20話 漬物樽

 朋美は井浦和寿の後を追った。行き先はひとつしかない。奈央のワンルームマンションだ。緊張で息切れし、動悸がした。脚が震え、手摺りを握る手が汗ばんだ。ガソリンスタンドの賑やかさが遠くに聞こえた。朋美は息を殺して、奈央の部屋のドアノブに手を掛けた。鍵は開いていた。井浦和寿と奈央がどんな会話をしているのか知りたかった。中からは2人の言い争う怒鳴り声が響いた。『なんでこんなことをするんだ!』『だって和ちゃんが!』激しい話し合いの中で、それだけが朋美の耳に届いた。朋美は自分もこの話し合いに加わるべきか悩んだが、勇気が持てずドアをそっと閉じた。奈央の自信に満ちた声が響くたび、いつものように自分が小さく感じられた。


 朋美はマンションの廊下に寄りかかって井浦和寿が部屋に戻るのを待った。空はいつの間にが薄暗く、濃紺の空に一番星が輝いていた。肌に触れるコンクリートの壁は西陽の熱さを残しほんのりと温かかった。遠くでアブラゼミが鳴き、夏の終わりを告げるような音が朋美の胸を締め付けた。いつまで、こんな風に井浦和寿を追いかけて、奈央の影に怯える日々が続くのか。目頭に涙が滲んだ。朋美は唇を噛み、コンクリートの壁に額を押し付けた。奈央の存在が、こんなにも胸を締め付けるなんて、思ってもみなかった。


 奈央さんがいなければ


 奈央がいなければこんなことにはならなかったと、初めて朋美は、彼女を疎ましく感じた。奈央の部屋からドアがバタンと響いたあと、憤慨した表情の井浦和寿が階段を登って来た。奈央の部屋から飛び出してきた彼は、なにかを決意したような目をしていた。彼は無言で玄関のドアを開け、奈央が大切にしていた古びた木の漬物樽を重そうに持ち上げた。漬物石がカタンと鳴り、階段を降りるたびに埃っぽい匂いが漂った。朋美は彼が奈央の存在を部屋から連れ出してくれたような気がした。


 井浦和寿は奈央の部屋に入ると漬物樽を床に力任せに置いた。ワンルームのその部屋は夏の湿り気でムッとし、遠くでアブラゼミが鳴いていた。ベッドに座る奈央は、カーテンから漏れる薄明るい光に照らされていた。彼の目は怒りに満ちていた。古びた樽の蓋がカタンと揺れ、ベッドに座っていた奈央の視線が一瞬そこに吸い寄せられた。まるで、20年の記憶がその中に詰まっているかのようだった。我に返った奈央は彼の顔を睨みつけ怒声を浴びせた。『あんたの顔なんてもう見たくもないわ!』奈央の声は震えていた。『朋美さんを選ぶなんて、20年を何だと思ってるの!』井浦和寿は一瞬唇を動かしたが、何も言わなかった。奈央の目は涙で真っ赤に腫れていた。奈央はベッドカバーを強く握った。朋美の存在がこんなにも自分を醜くするなんて、思ってもみなかった。


 朋美さんがいなければ


 井浦和寿と奈央の積み上げてきた20年の歴史を、たった2ヶ月で壊した存在は憎しみの対象でしかなかった。初めは彼の幸せならとも思ったが、15年前のあの夜に抱きしめあった温もりがそうさせなかった。気が付けばドアがバタンと閉まり、彼の気配は消えていた。奈央はベッドに突っ伏して声を上げて泣いた。

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