睡眠導入剤を服用することで朋美の精神状態は安定した。仕事も好調で、タクシー営業の売り上げも好調だった。井浦和寿が最近、朋美に優しく笑いかけることが増え、彼女は束の間の安心を感じていた。
ガラス風鈴の
井浦奈央だった。
奈央は買い物に出掛けていた。そして、もといた自分の部屋を懐かしく見た。奈央はマンションの窓を見上げ、かつて井浦和寿と笑い合ったリビングの記憶を思い出した。だが、その窓に朋美がいると思うと、胸が焼けるように熱くなった。奈央はベランダに隠れた朋美の動きに呆気に取られ、次の瞬間、怒りと憎しみが込み上げた。この時、朋美が手を振れば事態は悪化しなかったもしれない。朋美は奈央をから目を逸らした。奈央は白い日傘を強く握り、駐車場を後にした。その背中に、朋美は何か不気味な予感を感じた。
それは給与支給日のことだった。朋美は心療内科を受診し、1ヶ月分の睡眠導入剤が処方された。浮き足だった彼女は財布を握り、LIMEで井浦和寿に今夜の献立はステーキが良いか、青椒肉絲が良いかと尋ねてみた。既読にはなったが返信はなかった。仕事が忙しいのだろうと思い、牛ステーキと豚バラ肉を吟味した。朋美は意気揚々とスーパーマーケットの袋を抱え、マンションのドアノブに手を掛けた。言いようのない違和感にその手が止まった。鍵を回し、ドアを開けると西陽に照らされた朋美の黒い影が廊下に長く伸びた。空気が澱んでいた。出掛ける時、開けてあったオレンジの花柄のカーテンが閉まっていた。オレンジに染まったリビングに不気味な影が揺れていた。
ヒッ
その気味悪さに朋美は小さく叫び、スーパーマーケットの袋を床に落とした。玉ねぎが転がり出た。目を凝らしながらゆっくり近付いて見ると白い椅子が置かれていた。その上には漬物の樽と漬物石が積み上がっていた。ずっしりと重い漬物石が、まるで奈央の怒りを押し潰すように置かれていた。鳥肌が立ち、足が竦んだ。石の上には、チラシの裏面に朋美へのメッセージが綴られていた。恐る恐る手を伸ばすと見覚えのある字が並んでいた。
この樽と食器棚 カーテンは捨てないで下さい
ボールペンで書かれた字は怒りで震えていた。そのオブジェは奈央の鬱積した思いを伝えていた。まるで奈央が『この部屋はまだ私のものだ』と言っているようだった。朋美はこの部屋のどこかに奈央が潜んでいるのではないかと恐怖に怯えた。奈央の姿はなかった。リビングに近づくと、いつもと違う静けさが漂っていた。テーブルの上に、冷たく光る出刃包丁が置かれていた。朋美はその場から弾かれるように窓に走ると、カーテンを勢いよく開けた。丁度そこへ、いつもより随分早く、暗い表情の井浦和寿が帰ってきた。
「ただいま帰りました、どうしたの」
「和寿さん、これ・・」
朋美がそのオブジェを指差すと、メモを見た彼は眉を吊り上げ厳しい表情になった。もういい加減にしろ!そう吐き捨てると井浦和寿はメモを握り潰し、奈央の顔を思い浮かべた。『なんでこうなったんだ!』と呟き、廊下を蹴り上げる足音は階段を駆け降りた。