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第18話 呪いの言葉

 朋美がタクシー乗務員として夜勤を終え、マンションに帰宅するのはAM4:00頃だった。真夏の朝は早く、太陽の眩しさに目を細めながら部屋の鍵を開ける。そこには朝日を背負い、制服の臙脂色のネクタイを締める井浦和寿が立っていた。もう既に出掛ける準備をしている。足元には、空になった弁当箱が入った大きな紙袋が置かれていた。ただいま、お帰りなさい。そう言って抱き締めあい、深く口付けるがその間には目に見えぬ奈央がいた。


「もう行くの?」

「・・・・うん」

「行ってらっしゃい」


 朋美は井浦和寿がどこに行くか知っている。ワンルームマンションで暮らしている奈央のところだ。彼は妻である朋美と、義姉である奈央との板挟みになり、衝動的に別居を決断した。朋美と奈央を物理的に離せば問題は解決すると短絡的に行動に移した。それが裏目に出た。朋美は奈央をマンションの部屋から追い出した負い目から彼女を恐れ、奈央は朋美をこれまでの20年間を壊した女として激しく憎んだ。相手の姿が見えない分、恐れや憎しみはより一層強くなり膨れ上がった。こんな筈じゃなかった、井浦和寿は頭を掻きむしり混乱状態に陥った。


 井浦和寿は、毎朝、毎晩、奈央のワンルームマンションに顔を出した。奈央は喜んだがそれはいっときのことで、彼が玄関のドアノブに手を掛けると恨み辛みを口にして表情を強張らせた。そうだ忘れてたわ、彼女はそう言うと冷蔵庫からきんぴらごぼうの手作り弁当を手渡した。それは長さも太さも均一な美しいものだった。ありがとう、彼は弁当を紙袋に入れると出勤して行った。奈央はベランダから駐車場を見下ろし、唇を噛んだ。


 井浦和寿が奈央のワンルームマンションに立ち寄るのは、朋美との朝の挨拶のすぐ後だった。彼が駐車場に現れるまで、朋美はベランダで1時間待った。朋美はベランダの手すりを握りしめ、時計の針が5分、10分と進むのをただ見つめた。やがて1時間。やっと彼が現れた。


「今日は1時間か・・・」


 井浦和寿が紙袋を手に駐車場へ向かうと朋美は複雑な思いで見送った。視線に気が付いたのか、振り向いた彼は隠すように朋美に小さく手を振った。朋美は、井浦和寿が小さく手を振る姿に、彼が何かを隠しているような気がした。井浦和寿は車に乗り込む前に一瞬立ち止まり、朋美のベランダを見上げて目を伏せた。

駐車場は、奈央の薄暗いベランダからも良く見えた。


 朋美は奈央から投げつけられた『朋美さんには和ちゃんの20年は分からない』という言葉が、頭から離れなかった。奈央の存在に怯えるようになった朋美は精神的に不安定になり、眠れない日が続いた。心療内科で睡眠導入剤を処方してもらうようになった。このマンションは、井浦和寿と奈央の名義で購入したという理由で、奈央は部屋の合鍵を持っていた。夜勤明けのベッドで微睡んでいると、ドアのノブがカチャリと鳴った気がして、朋美は飛び起きた。奈央の合鍵が頭をよぎり、心臓がバクバクした。ドアの向こうに誰かが立っている気がして、息を殺した。


 今日も朋美は白い粒を口にした。


 奈央は井浦和寿から投げつけられた『もう俺たちは結婚しているんだ!』という言葉が、頭から離れなかった。彼の妻として戸籍謄本に名を連ねる朋美への憎しみを、鉛筆の先が折れ指にタコが出来るまでノートに綴った。朋美への憎しみを綴りながら、かつて井浦和寿と笑い合った20年間の記憶がよぎり、彼女は手を止めた。その手は筋張り、皮膚は乾燥していた。眠れない夜が続き食欲もなかった。ベランダで咲いていた藍色の朝顔は萎れ、鬱々とした日が続いた。


 今日も奈央は薄暗い部屋で呪いの言葉を吐いた。

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