クーラーのない寝室に西陽が差し込み、朋美の額には汗が滲んだ。喉も渇き、目眩がしてきた。暑さに耐えられずドアを開けようとした時、奈央の啜り泣きと井浦和寿の優しい声が近付いて来た。玄関のドアが開き、その声はエレベーターホールへと向かった。遠のく声は優しく大丈夫だと繰り返していた。朋美が窓の隙間から覗くと彼は奈央の肩を抱いていた。エレベーターに消える奈央の手に、朋美が贈られたものと同じ出刃包丁のパッケージが握られていた。朋美の胸はざわつき、なにもかもが崩れて行くのではないかと不安に陥った。その思いをかき消すように、彼女は息苦しい寝室から足早にキッチンへと向かった。冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルを取り出した。指が震えて蓋が開けられなかった。朋美は冷蔵庫の前でしゃがみ込み、奈央の啜り泣きが耳に響く中、嗚咽を漏らした。
「どうしたの、開けられないの?」
井浦和寿は気まずそうな表情で、朋美に手を差し伸べた。朋美はその手を握ると立ち上がって彼にしがみついた。裏切られたという思いと、この手を手放したくないという思いが渦を巻いた。彼の胸は温かかった。朋美はその温もりが全てだとそう自分に言い聞かせた。彼はペットボトルの水をグラスに注ぐと、そっと彼女に手渡した。彼女はそれを飲み干し、シンクに置いた。
「朋美さん、座って下さい」
彼女は井浦和寿に言われるままソファーに座った。すると彼は、15年前に離婚したと言ったのは嘘で、15年前に一度だけ奈央と関係を持ったと目を伏せた。朋美は一瞬怖気を感じたが、奈央は実の姉ではないと自分に言い聞かせた。彼も、愛しているのは朋美さんひとりだと手を握った。そして、今日のことは聞かなかったことにして欲しいと頭を下げた。これがきっかけで朋美と奈央は距離を置き、互いに居ないものとした。けれど、夜勤の朋美と日勤の井浦和寿ではすれ違いの日が続いた。その間も、井浦和寿と奈央は連れ立って出掛け、朋美は孤独感に苛まれた。
「・・・やっぱり私が不倫相手みたい」
朋美はエレベーターに消える和寿と奈央の姿を思い出し、居場所を奪われる恐怖に我慢が限界を迎えた。深夜、タクシーを自宅マンションの前に停めて井浦和寿が眠る部屋を目指した。エレベーターの扉に映った自分の顔はとても惨めな表情をしていた。彼女は勢いよく鍵を開けると、眠っている井浦和寿に馬乗りになった。
「これじゃ、不倫と変わらないよ!」
熟睡していた彼は驚いたが、なにがなんだか分からないといった表情で目を擦った。朋美は震える声でそれだけ告げると、踵を返して部屋を後にした。タクシーに乗り込むとルームミラーに疲弊し切った目元が映った。幸せなはずの新婚生活が足元から崩れてゆくような気がした。
翌朝、勤務が終わりタクシーの運転席で運行管理表をチェックしているとナビゲーションにメッセージが表示された。井浦和寿からのナビゲーションのメッセージには、朋美を傷つけた罪悪感と、奈央を切り離せない苛立ちが滲んでいた。
申し訳ありません 昨日はすみませんでした
運転席から降り、ふり仰ぐと2階の事務所の窓に井浦和寿の姿があった。なにについての謝罪か彼は理解しているのだろうか。事務所の窓から見下ろす和寿の目は、罪悪感と決意の間で揺れていた。朋美は小さく溜め息をついた。