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第16話 慟哭

 突然の怒声で朋美はベッドから飛び起きた。深夜明け勤務の朦朧とした世界に、女性の金切り声が朋美の耳をつんざいた。それが井浦和寿と奈央のものだと気付くまでそう時間は掛からなかった。朋美が足音を立てないように廊下からリビングを窺うと、壁掛け時計が床に落ち、プラスティックの破片が飛び散っていた。2人の足元には、ティッシュの箱やクッションが散乱している。奈央は顔を赤らめ肩で息をしていた。鋭い目付きで井浦和寿を睨み付け、強く噛んだ唇は震えていた。彼女の手は、一枚の紙を握り締めていた。爪は手のひらに食い込み、白くなっていた。


 奈央は『これはどういうことなのか』と井浦和寿ににじり寄り、握っていた紙を鼻先に突き付けた。彼はその気迫に気圧されながらも握り拳を作り、顔を真っ赤にして唾を飛ばし怒鳴り散らした。


「当たり前だろう!結婚したんだから!」


 奈央は自分の戸籍謄本から井浦和寿の名前が消えていることに気が付いた。20年間、彼への恋情を押し殺した彼女にとって、戸籍謄本に名前が並んでいることが心の支えだった。奈央は悲痛な叫び声で戸籍謄本を破り捨てた。


「朋美さんとの結婚は許さない!」

「姉さんだって許してくれたじゃないか!」


 奈央は井浦和寿の足元に崩れ落ちた。


「私とも寝たじゃない!」

「だから姉さんと結婚しろって言うのか!」


 朋美は後頭部を鈍器で殴られた気がした。全身の血が逆流し、心臓が破裂するかと思った。奈央があのベッドを『大切なものだから私に頂戴』と言った意味がやっと分かった。数分前まで朋美が寝ていたベッドで、2人は男女の深い仲になった。だから朋美とそういう雰囲気になっても奈央との情事を連想し、行為が続かなかった。彼は朋美に気が付くと、部屋に戻ってと指差した。どの部屋に戻れと言うのか。朋美の頬には涙の滴が伝い、足は床に貼りついたまま動かなかった。彼は困惑した表情で声を大にした。


「朋美さん!一回だけだから!」


 井浦和寿は奈央の涙を見ながら、200万円で結んだ過去の負い目と朋美への愛の間で引き裂かれる自分を呪った。


「和ちゃん、私と結婚して!愛してるの!」


 ヤドカリはやはりヤドカリでしかないのか、朋美は奈央の崩れ落ちた姿を一瞬見つめ、息を呑んだ。彼女は茫然としながら踵を返すと、寝室へと戻った。ただそのベッドに座る気にはなれず、部屋の隅に蹲った。窓の外から、ガソリンスタンドの賑やかな掛け声や、行き交う車のエンジン音が聞こえた。アブラゼミがマンションの廊下で、短い生を嘆いていた。リビングから、奈央の行き場のない慟哭が聞こえてきた。朋美は奈央の激しい思いを知った。和寿への愛と裏切られた痛みが胸の中でせめぎ合い、居場所を失う恐怖に震えた。

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