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第15話 六条御息所

 朋美と井浦和寿との新婚生活が始まった。けれどそこには、奈央の気配を感じた。朋美は部屋に残されていた、期限切れの調味料や使えなさそうな鍋をゴミステーションに持って行った。もう使わない奈央の好んだ和柄の皿は、井浦和寿に頼んで奈央のワンルームに運んでもらった。その時、井浦和寿はなにか言いたげにしたが口を噤んだ。朋美はこの部屋から、奈央を徹底的に排除しようと躍起になった。それでも部屋の片隅に奈央の妬ましい表情を感じた。奈央は、部屋に皿が届くたび、あの部屋から自分の痕跡を跡形もなく消そうとする朋美の仕打ちに屈辱を感じたことだろう。


ピシ

パシ


 朋美はひとりの部屋で家具が音を立てるたび、身を竦めた。それは源氏物語の六条御息所を連想させた。彼女は光源氏の年上の恋人だったが、彼の新しい恋人を強い嫉妬のあまり生き霊となって呪い殺したという、朋美はふと奈央の顔を思い浮かべた。彼女が和柄の皿を手に持つときに見せた、どこか冷たく鋭い視線。あの瞳には、井浦和寿を失った怒りと屈辱が宿っているように見えた。15歳も年下の彼にすべてを捧げたにもかかわらず、突然現れた若い女と2ヶ月足らずで結婚したという現実を突きつけられた奈央のことを考えると、朋美の胸に冷たい不安が広がった。彼女は今、ワンルームの狭い部屋でどんな思いを抱いているのだろうか。


 また、井浦和寿は朋美に毎日の弁当はいらないと言った。彼は毎朝、出勤時間より随分早く玄関のドアを開けるようになった。行ってらっしゃいと見送る朋美と口付けをするが、視線は彼女を見ていなかった。帰りもPM18:30と遅かった。朋美の作った夕飯は冷えていた。手には読み終えた新聞紙と、空の弁当箱を持ち帰った。彼は、毎朝、毎晩、奈央の部屋に立ち寄った。井浦和寿は奈央のワンルームのドアを閉めるたび、朋美の笑顔と奈央の沈黙が胸の中でぶつかり合うのを感じた。また、彼が朋美に空の弁当箱を渡すとき、どこか遠い目をした。朋美は彼のその視線に、言い知れぬ不安を感じた。朋美はその空になった弁当箱を洗いながら、なぜか悔し涙が溢れて来た。


 夜の夫婦の営みにも変化が出始めた。井浦和寿と朋美は同じベッドで眠ったが、身体を求めて来ることが減った。たまにそんな雰囲気になっても、最後まで行為が続くことはなかった。井浦和寿は、なにかに囚われているように無口になっていった。


 婚姻届が受理されてから1ヶ月の日曜日。


 どこまでも高い青空を飛行機雲が切り裂いていた。その日はちょうど朋美と井浦和寿の休日が重なり、奈央と3人で出掛けることになった。朋美は彼が似合うねと褒めてくれたワンピースを着て、ピアスを付けた。奈央が2人のためにダブルベッドを買いましょうと言い出した。それを聞いた井浦和寿と朋美は、ようやく奈央が、2人の結婚を認めてくれたのだと安堵した。けれど車の助手席には奈央が乗り、朋美は後部座席の冷たいシートに座らされた。奈央は朋美が知らない人物や、井浦和寿との旅行先での出来事を楽しげに話した。会話に加わることが出来ない朋美は、言いようのない疎外感を感じた。


 井浦和寿の希望で、黒い革のヘッドレストがついたダブルベッドを選んだ。残念ながら配達は8月のお盆過ぎだと言った。ファニチャーショップで井浦和寿は目を細め、朋美と手を繋いだ。彼の穏やかな笑顔を見たのは久しぶりだった。


「和ちゃんのそんなに嬉しそうな顔、初めて見たわ」


 そう言った奈央は唇を噛み、ショルダーバッグを持つ手に力がこもった。彼女は朋美の顔を凝視した。


「あなた方が使っているベッドは大切なものだから私に頂戴」


 薄ら笑いを浮かべた。朋美は井浦和寿の顔を見上げたが、視線を逸らされてしまった。なんとなく気不味いまま、車はマンションの近くのショッピングセンターに向かっていた。奈央の声は明るく、機嫌が良かった。やはり朋美は会話に入ることが出来ず、孤独感に苛まれつつ、車窓から流れる景色を見ていた。


 ショッピングモールに入ると賑やかな人混みが朋美に押し寄せた。居心地の悪い空間から解放されたことに安堵し、彼女は大きく息を吸った。奈央は買いたいものがあるからと、エスカレーターの手摺りに掴まった。すると自然な動きで井浦和寿がその背中に手を添えた。他人の目からすれば、歳の離れた恋人同士に見えるかもしれない。奈央が和寿の肩に触れる瞬間、朋美は二人の間にただならぬ親密さを感じ、胸がざわついた。


 奈央はキッチン用品売り場へと向かった。皿や鍋を眺めながら、これが買いたかったの、と包丁が並ぶコーナーで足を止めた。パッケージを裏返して吟味している。ようやく決まったらしい。

奈央は朋美に振り向くと目を細め、肩を竦めて微笑んだ。奈央が包丁を手に持つ瞬間、彼女の指先が一瞬震え、朋美に気づかれないように目を伏せた。


「この包丁、結婚祝いにあなた方にプレゼントするわ」


 奈央は、井浦和寿と朋美の結婚祝いにと出刃包丁を贈った。その微笑みは、まるで朋美の心臓を切り裂くように鋭かった。朋美は奈央の微笑みに背筋が凍り、出刃包丁を手に持つ指が震えたが、井浦和寿の手を強く握り返した。

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