朋美と井浦和寿の婚姻届の証人は、タクシー会社の本部長と部長にお願いした。朋美はこれで公私共に井浦朋美になるのかと思ったが、会社では他の乗務員の手前、結婚したことは内密にということになった。結果、あってはならないことだが旧姓の乗務員証でタクシーを運転し、アルコール検知機も旧姓の免許証で行うことになった。朋美は2枚の免許証を持たなければならなかった。管理者や乗務員から『結城さん』と旧姓で呼ばれるたびに、まだ過去を引き摺っているようで胸が痛んだ。
婚姻届を提出に行くと、案の定、戸籍課の職員はざわめいた。子宮全摘出証明書が添付された婚姻届を受理できるのかどうか、インターネットで検索していた。受付窓口には複数人の職員が集まっていた。しばらくお待ち下さいと言われ、朋美と井浦和寿はロビーの長椅子に座った。彼は眉を下げ、少し悲しそうな表情で軽く笑った。
「これで俺にも家族が出来るんだな」
朋美はその言葉の意味が理解出来なかった。朋美は彼が手にしていた封筒を受け取った。震える指で戸籍謄本を取り出す。ヒュッと息が止まり目を見開いた。井浦和寿は奈央の養子だった。2人に血の繋がりはなかった。朋美の中でパズルのピースがはまった。なぜ、弟にあれほどまでに執着するのか、朋美と井浦和寿の肉体関係に興味を持ったのか、全てに合点がいった。
(やっぱり、女だったんだ)
朋美が初めてマンションに行った日、奈央の第一印象は姉ではなく、女だった。敵意剥き出しのあの表情は、義弟が連れて来た女への嫉妬だった。
「なんでお姉さんと血が繋がっていないって教えてくれなかったの?」
「言う必要がないと思ったからだよ」
井浦奈央は今年で55歳、和寿と出会ったのは35歳の時だった。35歳の奈央は北海道
彼は暴力団から借金をしていて利息すら払えず困窮していた。話せば親戚の借金の保証人だと和寿は小さく笑った。借金以外は、真面目で黙々と作業に勤しむ好青年だった。そこで和寿に惚れ込んだ奈央が200万円を手渡した。ただ、膨れ上がった利息分は踏み倒すしかなく、和寿は奈央から借りた金でひとり金沢市へ移住した。
「でも、なんで養子縁組なんて」
「名前を変えなきゃいけなかったんだ」
旧姓のままでは暴力団に見つかってしまう。奈央と養子縁組をした井浦和寿は、金沢市で長距離トラックの仕事をしながら息を顰めるように暮らしていた。
苫小牧市と金沢市で離れて2年、奈央が和寿を追うように金沢市に移住して来た。そして、2人の名義でマンションを買い20年近く一緒に暮らして来た。奈央は義弟への恋情を押し殺し、このまま穏やかに歳を重ねて行く筈だった。そこへ朋美が現れた。
「俺は200万の男なんだ」
和寿は朋美の手を握りながら、奈央に200万円を借りたあの日の自分を呪った。朋美は戸籍謄本を手に、奈央の嫉妬の理由に胸を締め付けられながらも、居場所を守る決意を固めた。長い沈黙の後、職員が『婚姻届、受理できました。おめでとうございます』と告げ、朋美は安堵の息をついた。