井浦和寿は、離婚後100日間は結婚できないことを知っていた。このまま3人で微妙で曖昧な関係を続け、上手く暮らせると思っていた。ところが朋美は子宮全摘手術を受けていたため、その証明書があれば明日にでも結婚することが出来た。その話を聞いた彼は怯んだが、朋美がどうしても籍を入れたいと言い張った。朋美は離婚した結城の姓を捨てたかった。朋美は手術を受けた病院で証明書を受け取った。真夏の熱いシートに身を預けた彼女は、ようやく自分の居場所を手に入れたと安堵し、証明書を胸に抱えマンションに戻った。
部屋の中の様子が変わっていた。和室の襖が開けっぱなしだった。衣装ケースの蓋が開き、中の衣類や着物が剥き出しになっていた。裁縫道具や雑誌などが山積みになっている。綺麗好きの奈央らしくない光景だった。すると出勤している筈の井浦和寿がTシャツの袖を捲り、首からタオルを垂らして入って来た。どうしたのかと尋ねると引越しだと言った。そして視線を朋美から逸らした。
「引越し!?誰が!?」
「姉さんに決まっているだろう」
井浦和寿は思い付きで行動する気質であることが分かった。和寿は朋美の結婚の申し出に心揺れたが、奈央との過去を捨てきれず、衝動的に決断した。今すぐにでも婚姻届を出すのであれば、奈央との3人での生活は無理だろうと考えた。それで同じマンションのワンルームを借りたのだと言う。なぜ事前に相談してくれなかったのかと詰め寄ったが、返事はなかった。
「じゃあ、私も手伝うね」
「手伝わなくていいよ」
奈央にすれば今まで住んでいた部屋を朋美に追い出されたも同然だ。気分の良いものではない。その部屋に朋美が荷物を運んで行くなど嫌味でしかない。ならば井浦和寿が運びやすいようにと、奈央の私物を和室に集めた。そこに寂しげな表情の奈央が戻って来た。彼女の目は朋美が触れる衣装ケースに釘付けだった。唇が震えていた。彼女はそれをひきむしった。朋美が手を離した途端、奈央は衣装ケースごと畳に尻餅をついた。
「大丈夫ですか!?」
「触らないで!」
奈央は和室に力無く座り込むと、肩を落として思い出を拾い集め始めた。その表情は茫然と宙を彷徨った。自分の置かれている状況を受け入れることが出来なかった。
奈央は日差しが降り注ぐ住み慣れた部屋から、日の当たらない北向きのワンルームに押し込められた。玄関を開ければ見渡せる狭い部屋。ベッドと嫁入り道具の桐の箪笥を置いただけで足の踏み場もない。風呂もユニットバスで息苦しかった。料理好きな奈央にとって、電気コンロと小さな洗い場しかないキッチンには屈辱を感じただろう。隣のマンションの窓が見えるベランダには、藍色の朝顔が悲しげに揺れていた。奈央は風の吹かない窓に、心が冷えてゆくのを感じた。