夜明け前の空は薄い群青色を帯び、王都の景観をかすかに照らし始めていた。公爵家の屋敷はまるで静まり返った城砦のように、眠りの中に沈んでいるかのようだ。
アスカは自室の窓辺に佇み、深く息をついた。昨夜、馬車で帰ってきてからほとんど眠っていない。
舞踏会でのあの騒ぎ――アーヴィング商会の手代がレイヴンを罵り、セシリアがなだめようとして失敗したあの光景が、今も鮮明に脳裏をよぎる。おまけに、執事から密かに託されたメモには「地下の書庫を見ろ」と記されていた。
レイヴン公爵が抱える秘密がそこにあるのだとすれば、これ以上後回しにしている余裕はない。下手をすれば、あの商会やセシリアの手によって“証拠”が処分される可能性すらあるかもしれない。アスカは今こそ動くべきと、心を決めていた。
「……行くしかないわね。」
そう独り言のように呟き、アスカは部屋の扉を開けた。周囲はまだ薄暗く、人の気配も少ない時間帯だが、使用人たちは早朝の仕事に取りかかり始めている。メイドの一人が廊下を横切ったので、アスカは軽く会釈をして通り過ぎた。
夜通し悩んだ末、決行するならこの朝の時間帯が最適だと考えたのだ。レイヴンが戻ってきていない現状、セシリアもまだ表立った行動を起こせずにいるだろう。ましてや、地下の書庫へ出入りするところを大勢に見られたくはない。
書庫への道
公爵家の屋敷は広大で、地下にも複数の部屋や通路が存在する。食料庫、ワインセラー、使用人が行き来する通路――そして、公的な文書や領地の記録を収める書庫もその一角にあると言われている。
ただし、アスカはまだ書庫へ行ったことがない。夫人として過ごす中で、公務上必要な書類は基本的に執事や秘書官が執務室へ運んでくるため、わざわざ地下を訪れる機会がなかったのだ。
しかし、あのメモを書いた人物が言うには、「そこに全てが隠されている」。アスカは闇雲に探し回るのではなく、少なくとも書庫までの道のりと鍵の在処を確かめる必要がある。
「すみません……少しいいかしら?」
廊下を進んでいると、ちょうど使用人のベルナールが洗濯物を抱えて歩いてきた。ベルナールはこの屋敷で長く勤めている老齢の男性で、執事のオーランドとはまた別の立場だが、貴族の内情に詳しいと噂されている。
アスカはなるべく自然に、彼に尋ねることにした。
「ベルナール、地下の書庫へ行きたいのだけれど、鍵を管理しているのはどなたかしら? 近頃、私の手元にない古い領地の記録を確認したいと思って……。」
自分の要求を公然と告げるのは少しリスキーだが、「夫人として文書を確認したい」というのは正当な口実にもなる。実際、領地経営や財務の調査をしているアスカならば、不自然ではない理由だろう。
ベルナールは少し目を丸くしたが、すぐに深く頭を下げて答えた。
「地下書庫の鍵は執事のオーランド様が管理されておられます。ただ、今朝はまだ執事様は公爵様のお部屋の確認で手一杯かもしれませんね……。もし急がれるなら、控えの鍵が事務室にしまわれていると聞きますが……。」
それを聞いたアスカの胸が高鳴る。控えの鍵があるなら、オーランドの許可を得なくても自力で書庫へ入れるかもしれない。
一方で、そんなことをすれば後で問い詰められるリスクもある。だが、今の彼女はもう躊躇している場合ではないと思っていた。
「そう。ならば事務室を探してみるわ、ありがとうベルナール。」
「いえいえ、お役に立てば幸いです。ただ……公爵夫人様、くれぐれもお気をつけくださいましね。地下書庫には古い資料が多く、危うく崩れかかった棚もあるやもしれませんので。」
その言葉に、アスカは微かに胸の痛みを覚えた。ベルナールは“棚の崩壊”を気遣うふりをしているが、実際にはもっと別の危険を暗示しているのかもしれない。公爵家の闇に深入りすることが、どれほど危険なのか彼は知っているのだろうか。
鍵の入手
事務室と呼ばれる部屋は、執務室の並びのさらに奥まった場所にある。使用人が整理しきれなかった書類や道具を保管し、小さな金庫も置かれている部屋だ。
アスカが足早に向かうと、ドアには鍵がかかっていなかった。中に人がいるかもしれないと少し身構えたが、幸い朝早すぎるせいか無人のようだ。
そっと扉を開き、部屋に足を踏み入れる。重い木製の棚が並び、帳簿や古い紙束が雑然と置かれている。薄暗い部屋の中、窓から差し込む陽光はわずかだ。
(控えの鍵は、この辺りにあるはず……。)
そう考えながら、部屋の隅に置かれた小さな金庫へ目をやる。普段から使用人たちが管理するための「合鍵」や、「公爵様預かりの細かい現金」などがしまわれていると聞いたことがある。
もっとも、金庫には簡単な施錠があるだろう。アスカは周囲を見回し、机の上や引き出しを調べた。すると、一つの引き出しの中に小さな鍵束があり、その中に「地下書庫控え」と刻印された金属札付きの鍵を発見した。
(これね……。)
一瞬、手が震える。もしこれを勝手に持ち出したと知れれば、オーランドやレイヴンに咎められるのは間違いない。しかし、あのメモが本当なら、これを使わなければ真相に近づけない。
自分が“侵入”という形で行動を起こすのは初めてだ。だが、レイヴンやセシリアの陰謀を暴き、自分がただの道具で終わらないためには、ここで退く理由はない。アスカは意を決して鍵をつかみ、引き出しを元の状態に戻して部屋を出た。
地下への足音
控えの鍵を手に、アスカは廊下をさらに奥へと進んだ。普段、使用人が食料やワインを運ぶために使う階段を下りれば、そこからさらに左手奥に書庫へと通じる扉があるはずだ。
石造りの階段はひんやりと湿り気を帯びていて、足音がこだまのように響く。手にしたランプが小さな灯りを照らし出し、薄暗い空間に怪しげな影を投げかける。
誰にも見られていないかと振り返りながら、やがて地下通路の突き当たりまで来ると、重い鉄扉が目に入った。扉にはしっかりと錠が下りており、「外から鍵を開けないと入れない」構造になっているようだ。
「ここが……地下書庫。」
アスカは深呼吸して自分を落ち着かせ、先ほど手に入れた鍵を錠に差し込む。少し硬かったが、力を込めて回すとカチリと音がして、錠が外れる感触が伝わってきた。
扉を静かに押し開くと、奥には意外と広い空間が広がっている。壁際にまでびっしりと書棚が並び、ところどころに蝋燭やランプを置くための台が据えられている。しかし、奥まではまだ暗く、何があるのかはよく見えない。
(思った以上に広いわね……。ここで一体、何が見つかるのかしら。)
ランプを掲げて足を踏み入れると、空気は冷え冷えとしていて、古い紙の匂いが鼻をつく。アスカは扉を背後で軽く閉め、錠はかけずにそのままにしておく。万一、内側から鍵をかけてしまうと、緊急時に逃げられなくなる恐れがあったからだ。
古文書の山と奇妙な記録
書棚には王室の勅令に関する文書、公爵家の領地管理の報告、古い契約書などが年代別に並べられている。積み重ねられた冊子には埃が積もっており、扱うたびにくしゃみが出そうになる。
アスカはまず、最近の財務関係の資料があればと探してみる。レイヴンがここ数年でアーヴィング商会に対して不自然な契約を結んでいるなら、その痕跡が残っているはずだ。
ところが、目星をつけた棚を覗いても、近年の文書がまばらにしか見当たらない。よく使われる最新のものは、執務室にある可能性が高いが、それにしても妙に空白が多い気がする。
(契約書や決算書がごっそり抜けている……。誰かが故意に持ち出したとしか思えないわね。)
短く息を飲む。やはり、ここには何らかの“整理”が行われた形跡がある。レイヴンやセシリアが関連資料を別の場所に移したのか、それとも処分したのか。
アスカはさらに奥の棚へと足を進めてみる。そこには十数年、あるいは数十年前の記録が雑多に置かれており、書類の山が崩れかけている。ランプの明かりを頼りにタイトルを確認すると、古い領地の地図や、先代公爵の時代の貸借記録などが目に留まった。
「先代公爵……レイヴン様の父上、かしら。そういえば、早くに亡くなられたと聞いたわね。」
リディアから聞いた話だが、レイヴンの両親は彼がまだ若い頃に相次いで病死したという。公爵位を継いだレイヴンは、そのまま独学や顧問らの力を借りて家を切り盛りし、急激に領地を拡大してきたと伝えられる。
だが、この古い記録の中には、何かしら“当時の不審な出来事”が記されている可能性がある。もしかすると、今のレイヴンの行動を理解する手がかりとなるやもしれない。
アスカは心を落ち着けるように、埃をはらいながら書類の束を一つずつ確認していく。すると、その中の一冊に妙に端が焼け焦げたような痕跡があることに気づいた。表紙は半ば剥がれ落ちているが、裏面にかろうじて「○○年 公文書保管簿」と読める。
(なぜこんな状態で保管されているの? 火事にでもあったのかしら……。)
疑問を抱きつつ、アスカは慎重にその冊子を開いてみた。すると、中には複数の項目が記載されており、領地の租税や献上物、王宮とのやり取りなどが年代順に並べられている。
しかしページを繰るうちに、ある部分だけが大きく塗りつぶされ、判読不能になっていた。まるでインクをこぼして意図的に隠したかのような黒い跡が、何かの取引記録を覆い隠しているのだ。
「……何これ。誰がこんなことを……?」
残りの部分から推測すると、先代公爵が亡くなる直前に何らかの大きな借財、または契約を結んだ形跡があるようだ。それが王都の有力商会との取引だったのか、はたまた他の貴族との密約だったのか――ほとんど判読できない。
この部分を塗りつぶしたのは誰なのか。そして、その行為がレイヴンの“今”にどう繋がっているのか。アスカは不安と興奮が入り混じる中、さらにページをめくろうとする。
不意の足音
すると、そのとき――外の廊下からかすかな物音が聞こえた。硬い床を踏みしめるような足音が、ゆっくりと書庫へ近づいてきているらしい。
アスカは思わず息を呑み、ランプの火をできるだけ小さく抑える。まだ早朝だというのに、誰がここに来るのだろう。もしレイヴン本人や、セシリア、あるいは執事のオーランドなら、自分が勝手に侵入したことが即座に発覚してしまう。
鍵はかけずに入ってきた――ということは、あちらも鍵を開ける必要がない。その人物が正規の管理者か、あるいは別の合鍵を持つ者なのかは分からないが、このままでは鉢合わせになる可能性が高い。
(まずい……隠れないと……!)
アスカは慌てて冊子を棚に戻し、周囲を見回す。大きな棚の裏側や、壁に挟まれた死角なら身を隠すことができそうだが、足音はすぐそこまで近づいている。
間一髪で、棚と壁の狭い隙間に身体を滑り込ませた。ランプの光が漏れないよう、胸元に抱きかかえるようにして息を殺す。
その瞬間、ギィッと扉が軋む音がして、誰かが入ってきた。
謎の来訪者
「……ああ、もう薄暗いな。蝋燭は……。」
低く少し籠もった声。アスカが聞いたことのない男性の声だが、落ち着いた口調から使用人というよりは重役クラスかもしれない。
男は入り口付近にある置きランプに火を灯し、周囲をざっと照らした。書庫の中が柔らかなオレンジ色でぼんやりと浮かび上がる。アスカは棚の隙間から、そっとその人影を見つめた。
長めの髪に淡い灰色の衣服。貴族というほど派手ではないが、小奇麗にまとまっており、いかにも“事務方”という印象を受ける。屋敷の秘書官や会計係の一人だろうか。
「最近、ここにあった資料が移動されているようだが……あれはどこへやった? まさか、あの女に渡したんじゃないだろうな……。」
男は独り言のように呟きながら、棚を一つずつ確認している。どうやら、彼も何かを捜しているらしい。その口振りからすると、“あの女”とはセシリアを指しているのだろうか。あるいは別の誰かかもしれない。
男は苛立ちを隠さないまま、乱暴に書類を引っ張り出しては放り戻している。埃が宙を舞い、静かな書庫の中に紙のこすれる音が響く。アスカはそれを固唾を呑んで見守るしかない。
(この人はいったい……? もしかして、アーヴィング商会との取引記録を探しているのかしら。)
そう思っていると、男は何やら古い冊子を見つけたのか、表紙をめくって数ページを確認していた。そして、つぶやく。
「……くそ、またこっちも破損か。誰がやったんだ……。これでは追えないじゃないか……。」
アスカは胸が高鳴る。破損、あるいは塗りつぶし――自分が先ほど見た焼け焦げのような痕と同じ現象だろう。男はそれらの記録を復元しようとしているのかもしれない。
しかし、なぜ復元したいのか。レイヴンの指示か、あるいは本人の独断か――それとも第三者の依頼か。疑問は尽きないが、今姿を見せれば確実に厄介事に巻き込まれる。
男はしばらく文書を捲っていたが、やがて苛立ちを吐き出すようにバサッと冊子を棚へ叩きつけた。
「仕方ない、また夜に来るか……。急がないと、あいつも動き出すだろうし……。」
ぼそりとつぶやく声にアスカの背筋が凍る。夜に再び来る、ということは、彼も何らかのタイミングを狙って証拠を集めようとしているのかもしれない。そして“あいつ”が誰を指すのかはわからないが、少なくともレイヴンやセシリア、あるいは別の協力者・敵対者がいると考えられる。
男は深いため息をつくと、ランプを持って入り口方向へ歩き始めた。軋む扉を開けて出て行く気配がすると、書庫の中は再び闇に沈む。かすかに聞こえていた男の足音が遠ざかり、完全に静寂が戻った。
(今の人……いったい何者なの……?)
アスカは棚の隙間からようやく身体を引き抜き、ランプをもう一度灯し直す。未知の来訪者も、アスカと同じようにこの書庫で“隠された何か”を探している。それがレイヴン公爵にとって都合が良いのか悪いのかは不明だが、確実に一筋縄ではいかない人物だろう。
新たな手掛かり、そして決意
部屋に戻ったとはいえ、今は男がどこかで待ち伏せしているかもしれない。長居は無用だと悟ったアスカは、先ほど見つけた焼け焦げた冊子を再度手に取った。 すべてを読む余裕はないが、表紙を確認すると“○○年 公文書保管簿”とあるのがわかる。
これだけあれば、後からでもじっくり調べられるかもしれない――彼女は思い切ってその冊子を手提げ袋に差し込んだ。書庫からの“持ち出し”は明らかに規則違反だが、ここまで来た以上、手ぶらで帰るつもりはない。
(どうせ後で言い逃れはできないだろう。ならば、私の方が先に秘密を掴んでみせるわ……。)
アスカは素早く足を動かし、引き返すようにして入り口へ向かった。無造作に取り出された書類の束が散乱したままなのは心苦しいが、今はそれを整頓している場合ではない。再び誰かが来る前に立ち去らなくては。
ひんやりした空気の中、扉から廊下へ出ると、後ろ手に静かに扉を閉める。鍵をもう一度回し、扉をロックした。そして、合鍵の存在を知られぬよう、錠の状態は元のままにしておく。
階段を上りながら、アスカの鼓動はなかなか収まらない。未知の男に遭遇しそうになった緊張感と、塗りつぶされた記録を掘り起こすという期待とが入り混じって、まるで身体が熱くなるような感覚が続いている。
書庫を出た先で
上階に戻り、ドアの先には屋敷の使用人が行き交う朝の光景が広がっていた。朝食の準備や掃除に精を出し、時折忙しそうに声をかけ合っている。
アスカはできるだけ平静を装い、自室のある階段へと向かう。しかし、あと少しというところで、思いもよらない人物と目が合ってしまった。
――セシリアだ。
彼女は廊下の突き当たりに立ち、まるで最初からアスカを待ち伏せしていたかのように軽く微笑んでいる。その金髪は朝の光を浴びて眩しく、ドレスこそ着ていないものの、淡いガウンを纏っていて優雅な雰囲気を醸し出していた。
「まあ、おはよう、アスカ公爵夫人。ずいぶん早いのね。どこへ行っていたのかしら?」
まるで全て見透かしているかのような口調。アスカは一瞬、言い訳を考えたが、すぐにしれっと微笑んで返した。
「おはよう、セシリア様。ちょっと領地の資料を整理したくて、執務室に立ち寄っていたの。あなたこそ朝からお出かけの準備?」
「ええ、少し散歩でもしようかと思って。でも、あなたの方は……ずいぶん埃まみれになってるわよ?」
そう言いながら、セシリアはアスカのドレスの裾や袖口に付いた埃を指摘する。鋭い観察眼にアスカの心臓がひやりとするが、表情は崩さない。
「そう? まだ掃除が行き届いていない書類庫を覗いただけよ。」
「ふうん……。」
セシリアは唇に微笑を浮かべたまま、何も言わずにその場を通り過ぎる。まるでこの邸内を自分の庭のように闊歩するその姿勢には、相変わらず不快感を覚える。
だが、セシリアがどれだけ探りを入れてきても、今は秘密を守り通すしかない。アスカは胸の奥で、自分を励ますように思う。
(気づかれたかもしれないけれど、ここで焦っても仕方ない。私は手に入れた手掛かりをもとに、必ず真相を掴んでみせる。)
忌まわしき記録を読み解く
自室へ戻ったアスカは、扉に鍵をかけてからカーテンを少し閉めた。室内の明かりを頼りに、書庫から持ち出した古い冊子――焼け焦げた「公文書保管簿」を丁寧に開いていく。
中には、先ほど書庫で確認したように、一部が黒インクや焼けた跡で読めなくなっている箇所がある。それでも、まだ読める部分を根気強く追ってみると、どうやらこれは先代公爵が亡くなる直前からレイヴンが公爵位を継いだ直後までの重要な時期をまとめたものらしい。
「……この年、領地の一部を売却……かな? ここには大きな金銭のやり取りがあったのね。なんて書いてあるのかしら……“○○家との契約”……?」
断片的な言葉を拾い上げると、どうやら当時の公爵家は相当な負債を抱えていたことが推測できる。一部の領地を切り売りするかたちで膨大な金額を手に入れ、それを借金返済に充てた可能性が高い。
さらにページを繰ると、ある項目に目が留まった。「数名の――」という部分が焼け焦げていて、詳細がわからないが、その後に「不可解な死」と記されている。どうやら複数の人間が不自然なかたちで亡くなった事件があったらしい。当時の公文書に残るほどだから、かなり大きな波紋を呼んだのだろう。
(これって……もし先代公爵の死にまつわる事件だったりしたら……?)
そんな思いが脳裏を駆け巡る。もし先代公爵の死が“単なる病死”ではなかったのだとしたら、レイヴンが強引に公爵位を継承したのでは……という噂すら成り立つかもしれない。実際、早世した両親に関しては、王都の貴族の間でも微妙な憶測があったと聞いたことがある。
とはいえ、確証には程遠い。これだけ破損が多いと、当時の取引や死亡の経緯を正確に知ることは難しい。だが、アスカは改めて思う。レイヴンの冷たい態度や、セシリアとの関係、アーヴィング商会との不可解な取引――その根底には、この“公爵家の負債”や“過去の事件”が密接に絡んでいる可能性が高いのだ。
(レイヴン様……あなたは何かを隠している。だけど、それはあなた自身もまた、何らかの犠牲者になっていることを示しているのかもしれない。)
ふと、舞踏会のフロアでの彼の表情を思い出す。アーヴィング商会の男が怒鳴り込んだとき、レイヴンは冷静ながらも、どこか苦渋を噛み締めているようにも見えた。
公爵家を再建するために、彼が父の代から引き継いだ借金や問題を、強引かつ危険な形で処理してきたとしたら……その手段が今、破綻しつつあるのではないだろうか。あるいは、セシリアはそこにつけこんで、レイヴンを意のままに操ろうとしているのかもしれない。
訪れる決断のとき
冊子を閉じたアスカは、しばし沈黙したまま考え込んだ。
自分の幸せだけを願うなら、こんな面倒な問題には関わらず、ただ“愛されない夫”の庇護のもとで形式的に暮らすという選択肢もある。しかし、それでは結局リュミエール家の思惑通りの“政略結婚の駒”で一生を終えるだけだ。ましてや、アーヴィング商会が公爵家を追い詰め、セシリアがその利権を奪い取るようなことになれば、自分にも影響が及ぶのは必至。
ならば、ここで退く理由はない。むしろ自ら立ち上がり、レイヴンが抱え込んだ秘密を暴き、手札を握ることで対等に交渉する道を探るしかないだろう。それが“白い結婚”から抜け出すための唯一の手段に思える。
「……やるしかないわ。」
アスカはそう呟くと、ぎゅっと拳を握りしめた。頭の中には、あの謎の男の姿がチラつく。彼も夜に書庫を再訪すると言っていた。もしかすると、彼から追加の情報を掴むことができるかもしれない。
ただ、もちろん危険は大きい。屋敷内にはレイヴンの目やセシリアの工作員がいるかもしれないし、誤ってトラブルに巻き込まれれば一方的に罪を着せられるリスクもある。
それでも、アスカは一歩も引かないと決めた。ここで怖気づいていては何も変わらない。自分が動かなければ、この“白い結婚”と呼ばれる不幸な縁は永遠に形骸化し、やがてリュミエール家すら破滅の道を辿るかもしれないのだ。
反撃の意志
朝食の時間になり、アスカは少し落ち着いた表情を作って食堂へ向かった。そこには使用人たちが準備した食事が整えられているが、レイヴンの姿はやはり見当たらない。彼が舞踏会の後、どこへ行ったのか詳しく知る者はいないようだ。
だが、もう彼に振り回されるだけの時間は終わりだ。今のアスカには、自分で掴んだ手掛かりがある。焦る必要はないが、日を追うごとにアーヴィング商会とセシリアが何らかの手を打ってくるのは明白だ。
一口スープを飲みながら、アスカは決意を新たにする。書庫で掴んだ糸口を頼りに、夜のうちにさらに探索する計画を立てよう。先ほどの“謎の男”が何者なのか――もし再び現れるなら、その動向を探るのも一つの手だ。
自分がこの結婚を利用して、自由を勝ち取るために――そして周囲を見返すために。アスカの胸には“ざまあ”と笑い返す未来がはっきりと浮かび始めている。
(もう私一人の力でも、できるところまでやってみせる。絶対に、何も知らずにただ従うだけの操り人形にはならない。)
こうして、アスカは己の意志で“反撃”の第一歩を踏み出す。陰謀が渦巻く公爵家での真実を暴き、あわよくばすべてをひっくり返す――それが彼女の新たな目標となる。
この先、レイヴンやセシリア、そしてアーヴィング商会の思惑がさらに複雑に絡み合い、アスカを待ち受ける試練は一層過酷なものになるだろう。だが、彼女の瞳にはもはや曇りはない。
“白い結婚”の冷たく硬い殻を打ち破り、“ざまあ”と笑える結末を手にするための旅路が、今まさに始まろうとしていた――。
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(文字数:約5,500字前後)
夜の帳が降りる頃、公爵家の敷地は一見静寂に包まれていた。だが、アスカの胸には激しい鼓動が鳴り響いている。
朝に地下書庫から古文書を持ち出して以降、彼女は一日を通して屋敷の様子を伺い、使用人たちの動向に目を光らせてきた。レイヴン公爵は依然として戻ってこず、セシリアの姿も昼間はあまり見かけなかった。
しかし、屋敷全体が平穏なわけではない。どこか張り詰めた空気が漂い、使用人たちが落ち着かない動きを見せている。特に、夕刻から夜にかけては、妙に門の警備が厳しくなっているようだ。まるで、何らかの“訪問者”を警戒しているかのごとく。
(あの謎の男は、夜に再び書庫へ来ると言っていたわ。私も今夜こそ、もう少し深く探る必要がある。何としても真実に近づきたい。)
早めに夕食をとり、侍女のリディアに「今夜は疲れを癒したいから早めに休むわ」と告げて自室へ引きこもった。だが、実際に眠るつもりはない。
窓の外を覗き見ると、庭の街灯がぽつりぽつりと灯っており、使用人の人影が時折行き来するのがわかる。セシリアの部屋らしき方向にはうっすら明かりが見え、時おり窓辺に人影が映る。あれが彼女本人なのか、部下なのかは判別できない。
「よし……今なら誰にも見られずに地下へ行けるかもしれない。」
そう判断したアスカは、昼間にこっそり用意しておいた黒いケープを羽織る。煌びやかなドレスではなく、動きやすいシンプルな服装で身を固め、その上からケープをかぶれば、暗がりでも目立ちにくい。
脇には万が一のために古い懐中短剣を忍ばせた。これは屋敷の物置から見つけたもので、今の時代では儀礼用に近いが、護身には多少役立つだろう。
部屋の扉をそっと開け、廊下をうかがう。夜の闇が広がる中、やわらかなランプだけが灯されているが、人の気配は感じない。足音を殺しながら、アスカは地下へと続く階段を目指した。
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ふたたび地下書庫へ
石造りの階段を下りるにつれ、冷たい空気がじわりと肌を包み込む。昼間感じた冷気と同じはずだが、夜というだけで何倍も不気味に思えるから不思議だ。
暗い通路をランプ片手に進み、あの重厚な鉄扉の前で足を止める。昼に持ち出した控えの鍵はすでに机に戻してあるが、一度開錠した扉は「通常の鍵」で施錠し直されているはず。もっとも、屋敷の人間が鍵をかけ直しているなら、合鍵を持つかぎり再度の侵入は難しくない。
アスカは懐から取り出した小さな“道具”を、扉の鍵穴に差し込んだ。実は、昼のうちに鍵の刻みをこっそり紙に写し取り、その型を基に簡易的な合鍵を作っていたのだ。もちろん完璧な精度ではないが、幼少期に暇を持て余して細工物を作っていた経験が、こんな形で役立つとは思わなかった。
(うまくいくかしら……。)
息をのんでひねると、少し引っかかる感触があったが、やがてカチッという音がして錠が外れた。安堵と同時に、心臓が激しく鼓動する。
ゆっくりと扉を開けると、内部は真っ暗だ。昼間と違って人影も気配も感じられない。もっとも、謎の男が言っていた「また夜に来る」という話が本当なら、彼が既に中に潜んでいる可能性もある。慎重にランプを掲げながら、足元を確認しつつ奥へと進んだ。
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暗がりでの探索
昼に来たときと同様、書棚が無数に並び、古い書類が雑然と積まれている。ただ、不思議なことに、一部の棚は昼にはなかった乱れが見受けられる。誰かが先ほどまで探し回っていたのか、本が抜き去られた形跡が生々しい。
アスカは低く息を吐き、急いで奥の方へ進んだ。昼間発見した焼け焦げた保管簿の周辺には、まだほかにも関連資料があるかもしれない。あの不気味な男が探していたのも、もしかすると同じあたりかもしれない。
ランプの光が狭い通路を照らし、埃っぽい空気が鼻をつく。ぎし、と床板がきしむ音に、神経が一気に高ぶる。棚の向こうから誰かが飛び出してきてもおかしくない――そう思うと、自然と手が短剣に伸びていた。
(落ち着いて。ここで怯んでは何も始まらない。)
自分を奮い立たせながら、アスカは先日の棚の隙間――あの謎の男が冊子を投げ出した場所へ足を運ぶ。周囲を注意深く見回すと、床には何枚かの書類の切れ端が散らばっていた。暗闇の中でもわかるほど、新しい裂け目が残っている。誰かが力任せに書類を破ったのだろうか。
その破片を拾い上げ、ランプの光を当てる。文字が一部しか読めないが、「アーヴィング」「融資」などの単語が目に入る。どうやらアーヴィング商会が公爵家へ融資した際の覚書の一部らしい。ということは、やはりここには“危険な契約書類”が存在したということだ。誰かが証拠を隠滅しようとしているのか、それとも自分で握り、脅しの材料にしようとしているのか――いずれにせよ、これが重大な手がかりになるのは間違いない。
「……やっぱり、アーヴィング商会はこの屋敷と何らかの形で深く繋がっている。レイヴン様が抱える巨額の負債か、あるいは先代の問題か……。」
小声で呟きながら、破片を慎重に手提げ袋へしまう。わずかながらインクの文字が読み取れるので、後でつなぎ合わせれば契約内容の一端がわかるかもしれない。
さらに棚を調べようと手を伸ばした、そのとき――突如として背後から気配を感じた。
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闇に潜む第三者
「――そっちを探しても無駄じゃないかい?」
低く響く声が、書庫内に静かに広がる。アスカは慌てて振り返るが、ランプの光が届く範囲には人影がない。だが、確かに誰かが話しかけている。
息をのむと、暗がりの棚と棚の間から、すっと一人の男が姿を現した。朝方にちらりと見かけた“謎の男”だ。灰色がかった髪を肩にかかるほど伸ばし、貴族らしくはないが上質な衣装を纏っている。どこか余裕を感じさせる姿勢で、アスカを見つめていた。
「……あなたは、だれ?」
「その台詞、こちらが聞きたいね。まさか公爵夫人が夜中にこんな場所に忍び込むとは思っていなかった。」
男はくつくつと笑い声を漏らし、ランプの明かりを避けるように棚の影へと移動する。アスカは警戒を解かず、短剣の柄に軽く手を添えたまま、じりじりと距離を取った。
彼は続ける。
「昼間もここで探し物をしていたらしいね。少しは足音を殺す練習をしたほうがいい。すぐに気づいてしまったよ。……もっとも、君がここに来た理由は、だいたい検討がつくけれど。」
「検討……?」
「先代公爵の時代から続く、“闇の契約”を暴こうとしているんだろう。あるいは、それをネタにレイヴン公爵を揺さぶろうとしているのかもしれない。今のままじゃ、公爵家もそう長くはもたない。あのアーヴィング商会が黙っているはずもないからな。」
その言葉にアスカの胸は大きく揺さぶられる。やはりレイヴンは、先代の遺した借金や闇取引を抱え、それをアーヴィング商会の融資で無理やり回しているのか。しかも、今やその商会から搾取されている状況なのかもしれない。
アスカはあえて強気に口を開いた。
「そういうあなたこそ、何者なの? ここで同じように記録を探している理由を聞かせてほしいわ。私をどうするつもり?」
「脅す気はない。俺はただ、レイヴン公爵に関する“ある事実”を探っているだけだ。……とはいえ、公爵夫人にこれ以上深入りされると、少々やりにくくなる。君がこれを何に使うのかわからないからね。」
男の瞳は鋭く、だが敵意というよりは計算高さがにじみ出ている。彼はゆったりと一歩踏み出し、アスカに目線を合わせる。
「俺としては、君がどんな行動を取るか見極めたい。セシリアの走狗ではないだろうし……かといって公爵の忠実な妻とも思えない。となれば、“第三の勢力”ということになるのか?」
「勢力、だなんて大げさな……。私はただ、公爵夫人として、自分が利用されるだけの人形で終わりたくないだけ。」
そう答えたアスカの表情は険しい。が、男は少し興味深そうに笑みを浮かべる。
「ほう、それはまた面白い。ならば教えてやろう。この奥の棚の裏には、先代公爵がある人物と交わした“秘密契約”の写しが保管されているはずだ。もっとも、大半は破棄されたか破損しているかもしれないが……そこに手がかりが残っていれば、君が探している真相に近づけるかもしれない。俺はそれを確認しに来たんだ。」
「先代公爵の、秘密契約……?」
思わず問い返すアスカに、男は軽く頷く。
「“アーヴィング”の名前がその当時から登場しているかどうかはわからん。ただ、当時の公爵家が大きな負債を抱えた原因の一端がそこにある。君と利害が一致するなら、情報を共有してもいいが……俺もすべてを話すつもりはない。今はまだ、互いの目的が完全に一致しているとは限らないからな。」
言っていることは都合が良すぎるようにも思える。しかし、ここまで来て指をくわえて見ているわけにもいかない。アスカは迷いながらも、男から示唆された棚の裏側へと足を進めた。
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封じられた契約書
男の示すとおり、書庫のさらに奥まった一角へ回り込むと、埃をかぶった大きな木箱が置かれている。その裏には、小さな棚が隠れるように立てかけられていた。まるで意図的にカムフラージュされたかのような配置だ。
アスカがランプで照らすと、その棚には何冊かの古い書類が並んでいる。しかし大半は表紙が破れ、中身がバラバラになっているものばかり。焼け焦げた跡や、インクをぶちまけたような黒い染みがひどく、かろうじて読めるものは数ページほどだ。
その中で、比較的まとまった形の一冊が目に留まる。背表紙には薄い金文字で「――契約書」のような文字列が見えるが、前半が剥がれてしまっており判読できない。
アスカは慎重にその一冊を取り出し、ランプをかざしてページをめくった。ところどころ破損しているが、読める部分を拾うと、先代公爵の名と、それに続く相手方の名が……。
「これ……“リディクト”……? 違う、“リシュト”…? 文字が消えていて正確にはわからないけど……。」
何やら異国風の名前にも見えるが、はっきりしない。しかし、「領地の半分を担保にする」「莫大な金銭の貸付を受ける」「返済が滞る場合、債権者が直接的な権利を行使できる」という物騒な条項が並んでいるのは確かだ。
その上、この契約書には「黒印状(こくいんじょう)」と呼ばれる、闇取引によく用いられる型の封印が押されているのがわかる。正式な王室の承認を得た書類ではなく、裏で取り交わされた危険な契約文書だ。
「先代公爵は、これほど危ない契約を交わしていたの……?」
「噂によれば、先代は病に倒れる前に多額の資金を必要としていたらしい。跡継ぎに残したのは莫大な借金だけ……。そうして今のレイヴン公爵は、当時の負債を一気に解消するために、アーヴィング商会やセシリアを利用してきた。だが、結局は逆に利用されているだけというわけだ。」
背後から男の声が響く。その内容はまさに、アスカが思い描いていた“公爵家の闇”そのものだった。
アスカは不意に胸が苦しくなる。レイヴンが冷たい態度を取り続ける理由は、愛情云々以前に、こうした重圧や陰謀の中で生きてきたからなのかもしれない。幼い頃から広大な負債を抱え、誰にも頼れず、己だけで家を守ろうとしてきた結果なのだろうか。
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割り込む第三の足音
アスカが思考を巡らせていると、再び書庫の扉を開けるかすかな音が聞こえた。先ほどまでの静寂を切り裂くように、金属のきしむ音が響く。
ランプで照らされていない奥まった場所にいる彼女と男の姿は、入り口からは見えないはず。とはいえ、すぐに近づいてこられればあっさり発見されるかもしれない。アスカは緊張して身をこわばらせる。
一方、謎の男は少しも慌てる様子を見せず、アスカに目配せをして背後の影へすっと姿を隠した。まるで、こうした場面に慣れているかのような身のこなしだ。
足音はゆっくりと書棚の間を進んでいる。どうやら複数名いるようで、低い声でひそひそと何かを話しているのが聞こえた。
「セシリア様が言うには、この辺りに“決定的な資料”があるとか……。でも、もしかしたら既に誰かが持ち出しているかもな。」
「公爵様の指示で捨てさせられたって話もあるし。下手に探し回っても出てこないかもしれないぞ。」
どうやらセシリアの部下なのか、あるいはアーヴィング商会の手の者なのか、ある程度の指示を受けてここを物色しに来たのだろう。それにしても、これだけ人々が密かに動き回る書庫とは、なんとも危険な場所だ。
アスカは契約書を慌てて抱え込み、懐に隠した。先ほどの男はどこへ消えたのか、視線を送ると、彼は隣の書棚の裏に完全に身を潜めている。目だけがわずかにこちらを見ていて、示し合わせたように“黙れ”という合図を送っている。
2、3人ほどいるらしい足音は、アスカたちの位置から少し離れた棚を探す気配がした。ガサゴソと紙をかき分ける音が続き、時折ぶつぶつと文句を言う声が混じる。きっとセシリアから「何としても証拠を探し出せ」とでも命じられたのだろう。
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偶発的な衝突
しかし、数分ほど経ったとき、不意に一人が奥の方へ足を向け始めた。視界にはまだ入ってこないが、このまま動けばアスカの隠れている棚に気づかれるかもしれない。
アスカの胸は高鳴る。このままでは見つかる――そう思った瞬間、隣に潜んでいた男が意外な行動に出た。
彼は書棚に手をかけ、わざと大きな音を立てるように倒しそうな素振りを見せたのだ。重心が崩れた書棚が派手に軋み、その音に驚いた男たちが一斉にそちらへ振り向く。
「何だ……!? そっちか……?」
「棚が崩れるぞ、気をつけろ……!」
その混乱に乗じるようにして、謎の男は猛スピードで通路へ飛び出し、逆方向へ駆け抜けていく。見ると、手には数枚の書類らしきものを抱えている。恐らく先ほどアスカが見つけた契約書とは別の“収穫”を得たのだろう。
一方、セシリアの部下らしき男たちは棚を抑えながら、突然の衝撃に戸惑い、逃げる男を追うべきか迷っているようだった。
アスカは絶好の好機と判断し、棚の影を抜けて一気に入り口方向へと走った。ケープを翻しながら闇の中を疾走し、少し距離を置いて扉を目指す。
「待て……! 何者だ……!?」
「くっ、逃がすな……!」
背後で怒鳴り声が上がるが、書庫の通路は狭い。しかも棚が倒れかけているせいで行く手を阻まれ、彼らも自由に動けないようだ。アスカはとにかく前へ、前へ。
やがて書庫の扉が見え、懸命に鍵を回して引き開ける。漆黒の空気が流れ込んできたが、すぐに階段へ出て扉をバタンと閉めた。外から鍵をかける余裕はない。
振り返ると、ちょうど謎の男が別の通路から合流してきた。こちらに気づき、アスカの横をすり抜けるように階段を駆け上がる。
「急げ、見つかるぞ……!」
あまりにも自然に声をかけてきたので、アスカは一瞬戸惑った。しかし、この状況で彼に従わず一人で逃げようとすれば、背後から迫る男たちに追いつかれる可能性が高い。
意を決して、アスカも彼の背中を追う。夜の階段を駆け上がり、曲がり角をいくつも曲がった先で、彼は立ち止まった。そこには小さな木製の扉があり、その向こうは屋敷の裏庭へ通じる秘密めいた通路らしい。
「こっちだ。外へ出れば奴らも追ってこられないだろう。屋敷の裏は夜間でも警備が手薄なはずだ。」
「あなた……どうしてこんな抜け道を……?」
答えを聞く暇もなく、彼は扉を押し開け、夜の冷たい風を受けながら裏庭の茂みへと身を隠す。アスカも急いで続き、恐る恐る屋敷のほうを見やると、裏口のあたりには人影がないのが確認できた。
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夜風の中のやり取り
ほっと息をつく暇もなく、アスカは振り返って男を見据える。彼も息を切らせながら書類を抱えており、その瞳にはしたたかな光が宿っている。
「助かったわ。ありがとう。でも、どうして私を……一緒に逃げるなんて。」
「勘違いするな。俺はそもそも、自分だけで書庫から抜け出すつもりだった。だが、君が捕まれば厄介なことになりかねない。君がここで退場するのは惜しいと思っただけだ。なかなか度胸があるじゃないか、公爵夫人。」
言葉尻は軽薄にも感じられるが、どこか誠実さを感じさせる不思議な話し方だ。アスカは一瞬だけ言葉に詰まったが、抱えていた契約書をそっと抑えながら言う。
「……私には、この資料が必要。先代公爵が結んだ闇契約が、公爵家の行く末を左右しているなら、どんな形でも知っておきたいの。私自身がこの“白い結婚”で犠牲になるのはまっぴらだもの。」
「なるほど。その意気やよし。……まあ、今は君と対立する理由もない。ただ、次に会うときは味方かどうかもわからない。俺の目的は、レイヴン公爵を陥れることになるかもしれないし、逆に助けることになるかもしれない。結局、この件に関わる者は皆、腹に何かしら抱えているんだ。」
男はそう言い放ち、抱えていた書類の一部をアスカに差し出した。彼が書庫からかき集めてきたものの中に、同じく先代公爵に関する記録があり、その一部が重複しているらしい。
「これでも持っていけ。君の持ってる契約書と照らし合わせれば、もう少しは解読が進むかもしれん。……ただし、俺の顔は忘れろ。それが君のためでもある。」
「あなたは……一体……」
「名乗るつもりはない。君も名前なんか聞きたくないだろう?」
そう言って小さく笑い、男は闇の中へ溶け込むように裏庭の塀を乗り越え、消えていった。その姿は一瞬の幻のようで、アスカの脳裏には何者ともつかない謎だけが残る。
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緊迫の帰還
残されたアスカは、しばし裏庭の薄暗がりに佇んだまま、追っ手が来ないかを用心深く確認した。どうやら屋敷の中では書庫の騒ぎを警戒しているのか、正面側に集中しているようで、裏庭側は見回りすら来ない。
心臓がまだ痛いほどに鼓動しているが、今が戻る好機だろう。あくまで「自室で寝ていた」はずなのだから、誰にも見つからずに部屋へ戻る必要がある。
ケープをなびかせながら茂みを迂回し、屋敷の外壁に添うようにして勝手口へ向かう。ここには簡易な鍵がかかっているが、昼間にリディアが買い物に出かける際に使用するドアで、それほど厳重な造りではない。
扉を押し開けて廊下へ足を踏み入れると、そこに人影はない。誰もいないうちに素早く二階へ駆け上がり、目立たぬよう息を潜めて自室へ飛び込んだ。扉を閉め、鍵をかける。
まるで長い冒険を終えたかのような脱力感が押し寄せる。だが、手に抱えた資料の手応えは確かなものだ。これで少なくとも、先代公爵が結んだ危険な契約や、アーヴィング商会との繋がりをさらに深く追求できる。
(私は、やっぱり動くしかない。レイヴン様は何も話してくれないし、セシリアは間違いなく公爵家を手中に収めようとしている。私が主導権を握らなければ、ただの“人形”で終わる……!)
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帰らぬ夫と揺れる決意
夜も更け、使用人たちのざわめきが廊下を満たすようになった。おそらく書庫で起きた騒ぎを受けて、捜索が続いているのだろう。だが、今のところアスカの部屋へ押しかけてくる様子はない。
ベッドに腰を下ろし、息を整えながらアスカは契約書と複数の紙片を確認する。読める箇所を丹念に繋ぎ合わせると、見えてきたのはやはり「莫大な融資」と「担保としての領地譲渡」を巡る文章。しかも、返済が滞った場合、債権者は公爵の地位そのものをも脅かせるほどの強大な権利を得られるという、驚くべき内容だ。
「こんなものを父から受け継いだレイヴン様は……どれだけ苦しんできたのかしら。」
政略結婚として嫁がされた自分とは、また違った意味で“無理やり”背負わされた人生なのかもしれない。いつしか、アスカの胸に単なる敵意や不信感だけでなく、奇妙な共感や憐憫の念が芽生え始めていた。
とはいえ、このまま手をこまねいていては、自分も共倒れになる可能性が高い。レイヴンがアーヴィング商会に対して抱える負債は、まさに“時限爆弾”のようにいつ破裂してもおかしくない。セシリアはその爆発を利用し、公爵家を乗っ取る計画を進めているのだろう。
一方で、謎の男が何を企んでいるのかも依然不明だ。あの態度からすると、単なる盗賊や情報屋ではなく、もっと深い因縁を持っている可能性がある。下手をすれば、レイヴィンを潰そうと画策するライバル貴族の手先かもしれない。
(でも、もう戻れない。私はこれらの情報を武器にして、どうにか打開策を探し出さないと。リディアやリュミエール家のためだけでなく、私自身の未来のために……!)
枯れ葉が風に舞うように、外からかすかな物音が聞こえた。夜半の風か、それとも戻ってきた誰かの足音か。
思わず窓に近づき、外を見下ろす。月明かりに照らされた庭には、警備の男性がひとり歩いているのみ。レイヴンの馬車は影も形もない。
まだ帰らないのか、それともこの騒ぎを知っていて敢えて帰らないのか……。どちらにせよ、アスカの中で一つの決意が固まっている。
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“白い結婚”の空を見上げて
わずかに開けた窓から、夜の冷気が部屋に入り込む。アスカはその冷たい風を感じながら、白い月を見上げた。
華やかに見えた結婚生活の実態は、まるで光のない氷の城。その中心にはレイヴン公爵という得体の知れない存在が立ち、セシリアやアーヴィング商会、さらには謎の第三者までが取り巻いている。だが、もはやアスカは昔のように震えているだけの娘ではない。
自分が踏み込んだこの世界で、周囲に流されるのではなく、むしろ自分の手で主導権を握るために動く――それが今の彼女を突き動かすすべてだ。
“白い結婚”という名の虚飾に閉じ込められた状態から抜け出すため、そしていつか“ざまあ”と笑ってみせるために、アスカの反撃はここからさらに加速していくのだろう。
夜はまだ長い。扉の外では、書庫の騒ぎを受けて何人もの使用人たちが行き来する足音が絶えない。しかし、アスカは静かに目を閉じ、契約書を抱きしめた。
未来を切り開くための糸口は、この胸の中にある。いつか真実を暴き、レイヴンにも世界にも、はっきりと認めさせてみせる。自分がただの“公爵家の飾り嫁”ではなく、誇りと意志を持った人間なのだということを――。
こうして、第三章は幕を閉じる。しかし、夜の闇はまだ深く、次なる朝日はすべての暗部を照らすには遠い。レイヴンとセシリア、アーヴィング商会、そして謎の男……それぞれの思惑がさらに蠢く中、アスカの反撃は新たな局面を迎えることになる。