1
窓から外を眺めるとまず最初に映るのは道路を挟んで水平線まで拝める海だ。
しかしもう何年も僕はその海へ足を運んだことは──近づいたことはない。海はおろか、玄関から一歩外へ出たのはどれくらい前の事だったか。
高校進学を機にこの街に引っ越してきて一年と少しが過ぎようとしていた。
気付けば桜は散り、夏の足音が迫っている。
花粉が落ち着いたからか、ドラマかアニメ、ゲーム。何かに触発されたからか。はたまたこのままじゃダメと言う危機感からか。
久しぶりに部屋着から私服へ着替えた僕の足は久しく遠のいていた外の世界へ踏み出していた。
時刻は間もなく二十二時を指そうとしており、都心部よりも早く田舎の一日が終わろうとしている。街灯で照らされた夜道。海沿いの住宅街に往来する人や車はない。 僕の足音だけがスピーカーへ繋いだようにやけにうるさい。心臓の音と合わさって響く雑音が鬱陶しい。
父親と暮らすマンションを背に、自室から見えていた横断歩道を渡る。
右手に広がる海は深い暗闇そのものだ。
しかし不思議と怖くはない──万が一このまま何か不思議な力に導かれてその闇に吸い込まれたとしても大して後悔はしないだろう。しかしこの物語はノンフィクションであり、不思議な力に導かれるなんてことはない。
急にトラックに引かれて剣と魔法の異世界へ導かれることもない。
曲がり角で美少女とぶつかることもない。
いきなり異形の怪物に襲われることもない。
何も起こらない──それが現実であり、どこまでも残酷に。そして楽観的に何もない僕へその事実を突きつける。
故に普通に歩き続ける限り海に落ちるなんてこともないのだ。
「行き先くらい決めておけばよかったな……」
唐突に家を飛び出して十分少々。
差し掛かった横断歩道で足を止めながら一人溜息する。
振り返ればまだマンションが見える。このまま引き返して部屋に帰ろうか。もうすぐ今期追ってるアニメの最新話が放送されるし、まだ途中だったゲームもやりたい。
だがそんな思考は青に変わった信号がものの見事に掻き消した。
自然と足が前へ向かっていき──妙な明かりが飛び込んできたのだ。
「眩しっ……」
思わずそう漏らしてしまうほど目に毒な輝きを放つのは小さな立て看板だ。チカチカ点灯する看板の文字に目を凝らす。
「バッティングセンター……うみべ……? そのまんまだな」
海辺にあるバッティングセンターだから『うみべ』って。
他に名前はなかったのか……。
どうやら朝方まで営業しているとのことだが──年季の入ったプレハブ小屋みたいな横長の建物の前へ用意された駐車場、駐輪場には何もない。こんな田舎じゃこの時間にわざわざ来ようなんて人もいない。
それにこの様子じゃ他の客もいないのだろう。
引きこもり脱出の記念すべき一日。
今日はここで休憩して帰ろう。
初日から無理をするもんじゃない、無理は続かない。
まずは外の空気に慣れる事──そんな僕の気まぐれがそうさせたのか。扉を開けた途端、
「あっ! キミ、わたしと付き合ってよ。彼氏になってほしいの」
文字通り出会って三秒──いや、視界に入って一秒と言うべきか。
意識するよりも早くベンチへ座る少女は唐突に、そして前のめり気味に僕へそう言うのだった。
2
今のは聞き間違いだろうか?
バッティングゲージを正面にベンチへ腰かけていた長い銀髪の女の子。ぱっちりした瞳が好奇心の旺盛さを物語り、ちらりと覗く八重歯が小悪魔的な印象を思わせながらも、楽し気に結ばれた口元。
年上なのか年下なのかわからない、そしてなぜか目が離せないその顔立ち。
所謂美少女にカテゴライズされるであろう彼女がこんな引きこもりに告白なんてするわけないのだから──それも初めて会ったこの状況ともすればまずありえない。
いくらモテない陰キャの僕でも期待なんてしない。
いや、陰キャだからこそ期待なんてしない──これは罠だ。何か良くないことが起こる、それこそ今にも入口か。はたまた壁でよく見えない脇から金属バッドを手にした不良が現れるのか。
気まぐれでこんなところに寄るんじゃなかった。
「聞いてた? 付き合ってって言ったんだけど」
「え、えっと……」
ベンチから腰を上げた銀髪の少女が一歩、また一歩と僕へ歩み寄る。
背は決して高くないが、無い胸で組んだ腕。伸びた背筋から自信ありげに踏み出されるその足。冬用セーラー服姿での堂々とした佇まい。なにより真っ直ぐ僕を見据えるその瞳から目が離せない。
ただただ僕をその場へ釘付けにする。
「と、突然そんな事言われても……」
「どうして? もしかして彼女いる?」
「い、いないけど……」
「じゃあなんでダメなのかな? だってわたしとキミはお互いの事を何も知らないんだよ?」
「それ! それですよ! 何も知らない相手と付き合うなんて……あなたが誰でどういう人間なのかもわからないんですから! ほら……
緊張で声が裏返ったり萎んだりしてダメだ。
これが引きこもりの弊害、数日分の会話をした気分だが──眼前へ立つ彼女は僕を逃がす気はないらしい。活発な瞳が笑みを滲ませ、小首を傾げる。
「どうして相手の事を知らないと付き合えないの? だって付き合っていく最中に相手を知って、自分を知ってもらうんじゃない」
「た、確かにそうだけど……」
「あと美人局? よくわからないけど、わたしを疑ってるなら見当違いかなぁ」
「どうしてそう言い切れるんですか?」
「それはもちろん……友達がほぼいないから!」
ドヤッ……!
どうして腕を組んで勝気な顔をすることができるのか。
まるでステータスと言わんばかりの表情に困惑してしまう。
「えっと……それが理由になるんですか?」
「これを見て」
スマホを掲げられ、そこには老若男女、年齢問わず使用しているであろうチャットツールが表示されていた。フレンド欄にはおそらく家族と思われる同じ苗字の人間が三人、他は女友達か。苗字が違う友達が二人、後は企業公式アカウントだけが並んでいる。
「こんなわたしがどうやって美人局するの?」
続いてチャット画面に行くのだが、一つ一つ見せてもらっても家族や友達の同士の雑談だけが続く。
「クラスチャットにすら入ってないんだから!」
ダメだ、胸が痛い……。
僕も人の事を言えない有様だけど──どうしてこの人はここまで自信に満ちているのか。
「それでどう? わたしの彼氏になってくれない?」
「どうして僕なんです?」
「一目ぼれ。目が合った途端、キミだなって思ったから」
「いきなり言われても……」
「キミが知りたいの。もし違うなって少しでも思ったら別れていいし」
「でも僕引きこもりですよ?」
「じゃあデートはここだけ。この時間にここで会うだけの関係は? もし他の場所行きたくなったら言ってくれればいいし」
「え、えっと……」
別れたくなったら別れていい。
ここでしか会わない。
僕を知りたい……。
あまりにも僕に都合がよすぎるのだが──どうしてだろうか。恋愛経験が皆無だからか、はたまた彼女の堂々とした佇まい、自信に満ちた表情がそう思わせているのか。
断る理由、断る意思が薄れていく。
僕も恋愛に興味があったという事か……。
「え、えっと……じゃあ。それでいいなら……はい」
「決まりね、わたしの彼氏くん。今日からよろしく」
「は、はぁ……よろしくお願いします」
どういうわけか出会って三秒で告白され、人生に初めての彼女ができたのだった。
そしてきっと僕は6月1日、この日をきっと一生忘れることはないのだろう。