昨日までの茹だる様な暑さはどこへ消えてしまったのか。
普段なら三十度を優に超えるのが当たり前の今日この頃。しかし今日に限っては三十度を切る異常気象。おかげで過ごしやすくていいが──朝から強めの雨が降り続いており、外に出るのは中々億劫だった。
それでも僕の足はいつもの時間になれば自然とバッティングセンターへ向かっている。雨のしぶきが霧のように広がり、街灯も少ない田舎では相当に不気味だ。だが暑くないだけで自然と足は軽くなる。
そうしてバッティングセンターの自動ドアをくぐる。
「待ってたよ」
入り口を入ってすぐの通りの先。
バッティングコーナーへ向くベンチ群の中で今日も先輩は先に待っていた。濃紺色の長い髪を棚引かせて振り向くと、夏バテ進行中で具合の悪そうな微笑みと目線が重なる。
今日は横になってないだけ体調もマシなのかもしれない。
「お待たせしました」
「うん」
隣へ座ると、先輩が長い溜息を一つ。
不思議なもので体調が悪い佇まいなのに、その目は生気に満ちている。なにか強い意志が込められているように思えて、自然と背筋が伸びる。
相変わらず降り続ける雨、少し小さめの店内BGM、効きすぎた冷房。僕らしか客がいない店内で時折漂う呼吸音。言葉が行き交う事のない静寂をどれだけ過ごしたか。
明らかにいつもと違う。
しかし何が違うのかわからない。そんな凍り付いた時間を溶かすように、隣へ座る先輩の手が僕の手へ触れる。
顔を上げる。
雪のように白い肌、意志のこもった瞳、薄い唇。
笑っているように見えてフラットな──感情を置いてけぼりにしたような透明な顔が僕を見つめている。
そして一言。
「聞いてほしいことがあるんだよね、覚悟はできたからさ」
僕へ当たるエアコンの風がやけに冷たく感じられた。
ぎこちない微笑みを僅かに作りはしたものの──ようやく待ち侘びたその瞬間。先輩が隠していた秘密へ触れられる、明らかになるのだと理解したころにはどんな顔をしていいのかわからなくなっていた。
どんな言葉を返すのが正解なのか。
果たして今、自分はこの状況を嬉しいと思っているのか──はたまた、逆の感情。もしくは別なにかを思っているのか。自分自身の事なのに何一つわからないのがもどかしい。
ただ一つ言えること。
それは僕と先輩の時間が真の意味で動き出す瞬間が訪れたという事だ。
背筋を伸ばし、僅かな息遣い一つ逃さぬよう先輩へ全神経を傾けて頷く。
「今までどんな言葉が適してるか考えて考えて……でもやっぱり思ったんだよね。キミには素直に……そのままを伝えようって。それが待ってくれたキミに対する礼儀だと思ってさ」
「は、はい……」
口の中がカラカラに乾いて仕方ない。
無理やり喉へ唾液を押し込む。
フラットな──透明な表情で僕を見つめる。僅かな深呼吸、少し長い瞬き。
まるで永遠のような一瞬を過ごして再び口が開く。
「わたし、もう死ぬんだって」
そうして告げられた言葉に何かが崩れる音を聞く。
今、先輩はなにを言ったのか──確かに聞いたはずなのに。頭の中で何度も反響しているはずなのにその言葉の意味を理解できない。
いや、理解するのを拒んでいるのだろう。
「死ぬ」と先輩は口にした。死ぬってどういうことだ?
「えっ……」
果たしてそうして声を絞り出すことができたのはどれほど間を置いてからだっただろうか。
現実感のない言葉、ドラマのような言葉、僕とは縁のない言葉。
意味はわかるのにわからない。
「急に言われるとビックリするよね」
「あ、あの……。え、えっと……!」
言いたいこと、聞きたいことはたくさんあるはずなのに一つとして上手く出てきてくれない。
今日のお店は冷房を効かせすぎだ。全身の感覚が曖昧になるほど寒くて、息の仕方を忘れてしまいそうなほど冷たい。
「う、嘘ですよね……そんな。今までみたいに冗談ですよね」
「だといいんだけどさ……」
そうして先輩の口からよくわからない単語を綴る。
きっと病名の話だったり、どんな症状だったり──今自分が置かれている現実を唱えているのだろう。無理に笑って僕を安心させようとするその顔が痛くて、理解から遠ざかっていく。
鼓膜に届くその声を拒むように、音はわかるのに言語として認識してくれない。
すぐ隣にいるのに、一音、また一音と紡がれる度にその距離が遠ざかっていくようだ。
「いきなり全部わかってなんて言わないよ」
情報の濁流に頭がクラクラしてきた。
これは現実じゃない──夢なんだと必死に思い込もうとするが、その度触れる手の温もりが生々しい現実だと僕を突き刺す。
一番辛いのは先輩なはずなのに……。
「あ、あの……ほ、本当なんですか」
藁にもすがる気持ちで呟く。
だが結果が変わることはない。ただ先輩は眉を寄せて頷くばかりだ。
「若いから進行が早いんだって」
「ち、治療は……」
「……ごめんね」
「あ、謝らないでくださいよ……」
声が上ずる。
旅に出たいと言っていた先輩。
自分を探したいと夢を語っていた先輩。
将来のことを話していた先輩。
この夏、僕は色んな先輩へ触れてきた──しかしどの先輩を思い返しても、明確に先のビジョンを語ってくれたことは何一つなかった。
急に過去を懐かしみ、触れていない誰かの過去を知ろうとし、今この瞬間だけを見ていた。
全てが自分の中で繋がってしまい、悔しさなのか悲しさなのか。不甲斐なさなのか、やるせなさなのか。
よくわからない感情が渦巻く。
目頭がただただ熱く、歪みだした先輩をきちんと見たくて腕で目元を拭う。
しかしその度に歪みは酷くなるだけだ。
「今年の夏が本当に最後の夏になるらしいんだよね」
「なんでそんなに急なんですか……」
「ごめんね」
「謝らないでくださいよ……。先輩はなにも悪くないですよ」
「……そうかな。時間がないって気づいていながら、近くのキミに伝えるのがこんなにギリギリになってさ……」
それまで真摯に僕を見つめ続けていた先輩の頬が濡れていた。我慢していたであろうものが一気に溢れ、次から次へ白い肌を雫が這い堕ちていく。
「怖いなぁ……」
泣き顔を隠したかったのだろうか。
瞬間、先輩が僕の胸へ顔を埋めていた。背中を抱こうと腕が回り、触れる瞬間にその顔が上目遣い気味に僕を見つめる。
「ちゃんと顔見せて」
「は、はい」
「キミの顔、あと何回見れるんだろうね」
「何回でも見てくださいよ、飽きるまで……忘れられないくらい」
「怖いなぁ……キミに会えなくなる日が来るのが怖いよ」
「僕もです……」
現実味が全く湧いてこない中で先輩の背中へ腕を回す。これまで細いと思っていたシルエットももしかしたら病気のせいなのだろうか。胸元を涙で濡らす頭を見て、もしかしたら急に髪色を変えたり、短くしたり、ウィッグにしたり──突拍子もない行動の裏には全て病気があったからなのかもしれない。
思い返せば思い返すほど──考えれば考えるほど、先輩は常に病気と闘ってきたのではないかと思える行動で溢れていた。
先輩はどうして一人で戦えたのだろうか。
そしてなぜこのタイミングで僕へ伝えてくれたのだろうか。背中へ腕を回したまま、胸の内に生まれたことをそのまま耳元で伝えてみる。
濡れた顔が僅かに持ち上がる。
「本当はキミに最後まで言いたくなかったんだよ。でもね……キミと会えなくなるのが怖くて、寂しくてさ。どうにかなりそうだったの」
「だから話してくれたんですか。ありがとうございます」
「ううん……」
首をわずかに横へ振ったのも束の間──涙が収まりつつある瞳が僕を真っ直ぐ見つめる。
「わがまま言ってもいい?」
「何でも言ってくださいよ。僕にできる事なら何でもしますから」
「……ありがとう。あのさ」
「はい」
「この夏だけでいいから……キミの時間、わたしに全部頂戴」
「幾らでもあげますよ。僕の時間くらいいくらでも……この先の人生なにもかも」
引きこもりの僕の人生と言うのはこのためにあったのかもしれない──今この瞬間だけは心からそう思いたかった。
今もまだ現実感がない。
それでも生まれて初めてやりたいことができた瞬間だったかもしれない。
「なんかプロポーズみたいだね……」
「そうですよ」
「そっか……彼氏から婚約者になっちゃったね」
まだまだ涙の雨が上がることはない。
時計の針は気付いたら日付が変わる瞬間を示そうとしていた──それでも先輩の傍を離れたくなくて抱き締め続ける。
一人になった時、まだ現実感がなかった今日が現実になる気がして怖かった。