すぐ隣で穏やかな寝息が聞こえる。
外の熱気を払う心地いいエアコンの風、意識に残らない店内BGM。なにより誰もいない店内は睡眠を妨げる要因は一つとしてない。
ここに来て間もなく三十分少々。
僕がしていたことと言えば、起きる気配のない青白い顔を見つめては付き合ってから今日に至るまでのなんでもない日々を思うことくらいだ。
毎日会っているせいか、僅か三か月少々の時間だったとしてもずっと昔から付き合っている気にすらなってしまう。そして思い返して改めて思うのだ。
あの日、気まぐれに出た夜から僕の人生は変わり──モノクロのような日々が次第に鮮やかな色を持っていたことに。
地に足がついていないようなふわふわした時間の中にいたことに。
だから願ってしまう。
「ずっとこの時間が続けばいいのに……」
先輩を蝕む病気が全て今見ている夢で──目を覚ましたら、何でもない当たり前の日々だったらいいのに。そんなあり得ないことすら夢想してしまう。
もし病気が嘘なら、隣にいるのが僕でなくてもいいかもしれない。
未だ名前すら知らない先輩の事をここまで思ってしまうのは恋ゆえの盲目だからか。はたまた長い時間過ごした末の情なのか。僕の心のうちにある本当の想いと向き合うには、その冷たい現実に息が詰まってしまう。
「先輩は今どんな夢を見てるんですか」
あどけなさが残る寝顔、その頬へ触れる。微かな温もりを感じはするが人の肌へ触れているとは思えない冷たさがそこにある。目元を隠す髪を耳へ流すようにすると、閉じていた瞼が僅かに震えた。
「んっ……」
細く吐息を零した次の瞬間──ゆっくり時間をかけて瞼が持ち上がる。
「終わっちゃったね……この時間」
「起きてたんですか?」
「半分くらい?」
「なら起きてくれればよかったのに……」
「キミが隣にいるって思ったら安心しちゃってさ」
にへへ……。
微睡みの中でふわりと笑う。
腕を伸ばして背筋を伸ばして座り直す。
「いつからいたの?」
「三十分くらい前ですかね。起こすのも悪いと思ったので」
「そっか。それで彼女のほっぺを触ってたと……」
「よだれたらしてる顔で言われても何かなぁって感じです」
「えっ!? うそ!?」
慌てて口元を冬用セーラーの袖で拭う。
照れくさそうに赤くなる顔が羞恥を誤魔化そうと不器用に緩む。
「恥ずかしとこ見られちゃったなぁ……」
「まぁ嘘なんですけどね」
「うわぁ……。起きちゃった仕返し?」
「まぁそんなところです」
「性格悪いなぁ」
「先輩も大概ですよ」
「じゃあいっか」
いいんだ……。
ペットボトルのお茶を傾ける先輩が「ん?」と小首を傾げる。
「なに?」
「いやぁ……不思議だなぁと思っただけです」
「不思議?」
「先輩って寝てるときは子どもみたいなのに……目を覚ますと一気に顔の年齢が年相応と言うか、大人びてるというか。ギャップあるなぁって」
「そう?」
「今はもうお姉さんと言うか……」
「お姉さん、か……少年、とか呼んじゃう?」
「男の子が大好きなシチュエーション!」
セーラー服じゃなかったら完璧だったかもしれない。
思った以上にドキッとしている自分に驚かされてしまうのだが、そんな僕を見つめる先輩の顔は眠気と安堵へ包まれていることに気付く。
「どうかしました?」
「んー、起きててキミが居てよかったなって改めて思ってただけ」
「そうですか」
「キミの夢を見てたからさ。起きて一人だと寂しいじゃん?」
「そうですね……」
「だから居てよかったなって」
お茶をもう一口飲み、僕へ身を寄せる。
「どんな夢か気にならない?」
「いやぁ……夢って支離滅裂と言うか途中でわけわからなくなりません?」
「わかる! ママだなぁ~って近づいたら虎だったみたいなことあるし」
「でも虎を前にしても母親って認識してるんですよね」
「そうそう。でも大丈夫、今回はちゃんとした内容だから」
「ま、まぁ聞きますけど……」
ただ僕が夢の中に登場している気恥ずかしさをどうしたものか。
何でもない夢ならまだちゃんと聞けるのだが──先輩の夢の中で、はたしてどんな奇行をしていたのか。
嫌な緊張を胸に先輩へ耳を傾ける。
「えっと……なんだったけなぁ」
「忘れちゃいますよね」
「キミと一緒に学校に行っててさ。放課後ファミレスでダラダラしてたのは覚えてるんだけど……あれ、あれぇ……」
うーん。
唸る様に頭を抱える。
そして程なくして諦めたように天井を仰ぐ。
「なんだったかなぁ……。なんかキミと楽しいことをしたんだよ」
「今のところ普通と言うか……理想の学生カップルみたいな夢ですね」
「そうだねぇ。それだけでも十分楽しいんだけど、もっとすごいことが起きていた気がするんだよ! ほんとさっきまで覚えてたんだけどなぁ……」
「まぁ夢なんてそんなもんですよ」
「悔しいなぁ。絶対面白いのに!」
はぁ。
そうして溜息を落とす。
夢で溜息ができるなんて、よほど楽しかったのだろう。僕には経験がない事だけに、なんにでも全力な先輩が羨ましくなってしまう。
「でも夢って深層心理が現れるって言いますよね」
「ね。つまり……今わたしはキミとファミレスに行きたいのかな……」
「お腹空いてるんですか?」
「デートに誘ってるんだけどなぁ。キミは乙女心をちゃんと学んだほうがいいよ」
「すみません、アタシ男なんで」
「混ざってるよ!」
「多様性の時代ってやつです」
「なにそれー」
クスクス肩を弾ませた先輩がひと息置く。
「同じ学校なんだもん。そういうのもあったと思うよ、前もしたけどさ」
「そうですね……不登校になる前に出会ってたらって思いますけど。だとしたらこうはなってないですよ」
これも前言ったことだ。
しかし確信が持ててしまう──もし普通に僕が学校に通ってたら友達もいないまま、机に座ったまま三年間を終えていただろう。
先輩が同じ学校にいることに気付かず。
先輩も僕に気付くことなく青い春はその鮮やかさを失っていたことだろう。
果たして今この時間が鮮やかな色を持っているかはわからない。
しかしモノクロでないことだけは間違いない。
「出会い方って大事だもんね」
「だから引きこもりになって悪くないなって思います」
「考えようだね」
「そうですね……」
「だからかな……」
先輩の肩が僕の頭へ寄る。
「キミと出会ったから死ぬのがこんなに怖いんだよ」
ぽつりと漏れたその声に僕はなにも返すことができない。
色んな想いを果たしてどう伝えるのが正解なのか、その術を知らない僕はただ先輩を手を握る。
まだ自分がここにいると伝えるように。