夏休みも残すところ僅か。
今年の夏休みはいつもと違う──色んな意味で心に残る毎日だ。それこそ夢の中にいるような気さえしてしまうのだが、そろそろ現実と向き合うときなのだろう。
普段より早めに家を出て、いつものバッティングセンターへ。
まだ先輩が来る時間ではないが、今日はこれでいい。
「さて……やるか」
幾ら引きこもり、不登校と言っても学生であることには変わりない。
ともすれば、やらなきゃいけないのが夏休みの課題だ。家にいるのだから怒られることもないだろうが、罪悪感は消しておきたいが故の悪あがき。日中は家で課題をやっていることが多いのもあって、今日がラストスパートと言うわけだ。
背負っていたリュックから課題のテキストとシャーペンを取り出して早速開始。
膝の上に置いている分、不安定で文字を書くのにどうしても手間取ってしまう。しかし環境が変わったのがいい気分転換になっているのか、問題は順調に消化できている。
いいぞ。
ダレてしまわぬように内心、自画自賛の言葉を唱えながら問題を解いていると、
「おっ、課題中? えらいじゃん」
すぐ後ろからその声がやってくる。
首元へ艶かしい吐息まで掠め、思わず背筋が震え上がった。勢いそのままに振り返ると、青白い顔で笑顔を作る女性が一人。
先輩だ。
「びっくりしましたよ……」
「ごめん、ごめん。集中してたよね」
「まぁ一応……先輩が来るまでの暇つぶしですけど」
「邪魔してごめんね」
隣へ腰を下ろしたかと思えば、僕の膝上で広げられたテキストをぼんやり見つめる。
「こことここ。間違ってるよ」
「えっ」
「こことここ。公式間違えてる」
「そ、そうですか……? えっと」
とは言えどこが間違っているのか、パッと見ても全くわからない。
シャーペンをカチカチノックして悩んでいると、ツンツンと肩をつつかれる。
「ペン貸してみ」
「えっ、あぁ……わかりました?」
「ふふ、なんで疑問形? まぁそこ間違いやすいポイントだからさ」
そうして僕からペンを受け取ったかと思えば、一呼吸置いて間違っているところに正解の公式をサラサラ綴る。
「途中まで合ってるけど、ここが間違ってるよ。惜しいね」
「え、えぇ……あぁ。なるほど」
「わかってる?」
「も、もちろん」
「怪しいなぁ……」
ふふ。
困った風に眉を寄せながら僕を見つめる。
「なんだろう……こういうの、なんか先輩後輩って感じするね」
「なんかむず痒いですね……」
「わかる。でもキミと学校で出会って付き合ってたらさ……図書室とかでこういうことしてたかもしれないよ。テスト期間とかに」
「あぁ……それは燃えますね」
「学校行ってみる?」
その誘いには即答できなかった。
途端に嫌な緊張がこみ上げてきて、ゴクリと息を飲む。
「毎朝途中で合流してさ。休み時間はキミの教室に行こうかな」
「みんなに見られますよ」
「嫌? わたしの彼氏ってアピールしとかないと」
「……引きこもりの僕のことは腫物扱いだと思いますから。逆に先輩が来ると目立つかもです……」
「じゃあわたしの教室おいで」
「先輩たちの目線が……」
「気にしすぎだって~」
カラカラ笑いながら僕へペンを返す。
「とりあえず間違ってたのはそこだけだから」
「あ、ありがとうございます。先輩って頭いいんですね」
「普通じゃない?」
「課題とかってもう終わりました?」
「うん。最初の三日とかで。さっさと終わらせて夏休み楽しみたいし」
「も、模範的優等生……」
実は一切手を付けていない。
そう言われても信じてしまいそうなのに……。
「でも授業聴いてれば内容はどうにかなるよね」
「だったら苦労しないと思いますけど……ちなみに試験とかどんなです?」
「毎回二十位以内にはいるかなぁ……」
「て、天才……」
「大袈裟だって」
そう謙遜しつつも、照れを含んだ得意げな笑顔を結ぶ。
「マジで先輩に勉強とか教えてほしいです……」
「えぇー。勉強好きじゃないからなぁ」
「まぁ時間のある時にでも」
「気が向いたらね。でもちゃんと課題やってえらいよね」
「不登校でも最低限と言うか……学校に行く日が来た時に遅れたくないというか……」
罪悪感を薄れさせるため……。
後ろ向きな想いではあるが、そのおかげで課題も躓かずに進めることができているんだ。
「真面目だなぁ。夏休み……もう終わるもんね」
はぁ。
残念さを存分に感じさせる溜息を落とした。
「キミは今年の夏休みどうだった?」
「初めて彼女ができて過ごす夏休みですからね……楽しかったですよ」
そこにどんな事情があれど関係ない。
毎日予定がある、それは僕が夢見ていた日々なのだから。
「先輩はどうです?」
「最後の夏がキミと一緒でよかったなって……心から思ってる」
「……ありがとうございます」
その言葉が胸に深く刺さる。
最後の夏を僕と一緒で本当に良かったのか──表に出さないようにしていたが、常にその影はチラついていた。しかし立ったその言葉一つで影は綺麗に跡形もなく消えたのだ。
救われた。
その言葉が見事に当てはまるほどに。
正直泣いてしまいそうなほど嬉しいが、奥歯を噛みしめて我慢する。
「キミといっぱい話したねぇ、ここで。なんか不思議だね……始まる前はいっぱい休みがあると思ってたのに。もう終わろうとしているんだから」
「そうですね……」
「最後にあと一個、なにか夏らしい事ないかなぁ……」
「夏らしい事……。そうですね」
スイカ割り、プール、アイスを食べる。
夏らしい事は色々やったつもりだ──あと一つ先輩が望む夏。
それを考えていると、遠くで何かが炸裂する重低音が響いた。窓の外を覗いてみるが、夜空には変わらず星空がちらついているばかり。
「花火……?」
「だと思いますけど……こんな時間にですか?」
「近くでやってるのかもね。大きな打ち上げじゃなくて普通に買えるやつ」
「先輩と同じことを考えてる人がいたのかもしれませんね」
「だねぇ~。花火、やりたいなぁ……」
「い、今からです!?」
「この夏のうちにさ。キミと一緒に」
ねっ。
その横顔にドキッと胸が弾む。
また一ページ、新しい夏が刻まれるのが嬉しい。
「今度買ってきますよ」
「楽しみにしてる。それで夏は終わりかな……」
来年の夏は──。
その話が出かかってしまい、咄嗟に口をつぐむ。
先輩に来年なんてきっと訪れないのだろう。残されたわずかな日々、一秒も退屈して欲しくない。
その一心で、もう一度強く言葉にする。
「花火、楽しみですね」