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第88話『8月25日 もしも』

 夏休みも残すところ僅か。

 今年の夏休みはいつもと違う──色んな意味で心に残る毎日だ。それこそ夢の中にいるような気さえしてしまうのだが、そろそろ現実と向き合うときなのだろう。

 普段より早めに家を出て、いつものバッティングセンターへ。

 まだ先輩が来る時間ではないが、今日はこれでいい。

「さて……やるか」

 幾ら引きこもり、不登校と言っても学生であることには変わりない。

 ともすれば、やらなきゃいけないのが夏休みの課題だ。家にいるのだから怒られることもないだろうが、罪悪感は消しておきたいが故の悪あがき。日中は家で課題をやっていることが多いのもあって、今日がラストスパートと言うわけだ。 

 背負っていたリュックから課題のテキストとシャーペンを取り出して早速開始。

 膝の上に置いている分、不安定で文字を書くのにどうしても手間取ってしまう。しかし環境が変わったのがいい気分転換になっているのか、問題は順調に消化できている。

 いいぞ。

 ダレてしまわぬように内心、自画自賛の言葉を唱えながら問題を解いていると、

「おっ、課題中? えらいじゃん」

 すぐ後ろからその声がやってくる。

 首元へ艶かしい吐息まで掠め、思わず背筋が震え上がった。勢いそのままに振り返ると、青白い顔で笑顔を作る女性が一人。

 先輩だ。

「びっくりしましたよ……」

「ごめん、ごめん。集中してたよね」

「まぁ一応……先輩が来るまでの暇つぶしですけど」

「邪魔してごめんね」

 隣へ腰を下ろしたかと思えば、僕の膝上で広げられたテキストをぼんやり見つめる。

「こことここ。間違ってるよ」

「えっ」

「こことここ。公式間違えてる」

「そ、そうですか……? えっと」

 とは言えどこが間違っているのか、パッと見ても全くわからない。

 シャーペンをカチカチノックして悩んでいると、ツンツンと肩をつつかれる。

「ペン貸してみ」

「えっ、あぁ……わかりました?」

「ふふ、なんで疑問形? まぁそこ間違いやすいポイントだからさ」

 そうして僕からペンを受け取ったかと思えば、一呼吸置いて間違っているところに正解の公式をサラサラ綴る。

「途中まで合ってるけど、ここが間違ってるよ。惜しいね」

「え、えぇ……あぁ。なるほど」

「わかってる?」

「も、もちろん」

「怪しいなぁ……」

 ふふ。

 困った風に眉を寄せながら僕を見つめる。

「なんだろう……こういうの、なんか先輩後輩って感じするね」

「なんかむず痒いですね……」

「わかる。でもキミと学校で出会って付き合ってたらさ……図書室とかでこういうことしてたかもしれないよ。テスト期間とかに」

「あぁ……それは燃えますね」

「学校行ってみる?」

 その誘いには即答できなかった。

 途端に嫌な緊張がこみ上げてきて、ゴクリと息を飲む。

「毎朝途中で合流してさ。休み時間はキミの教室に行こうかな」

「みんなに見られますよ」

「嫌? わたしの彼氏ってアピールしとかないと」

「……引きこもりの僕のことは腫物扱いだと思いますから。逆に先輩が来ると目立つかもです……」

「じゃあわたしの教室おいで」

「先輩たちの目線が……」

「気にしすぎだって~」

 カラカラ笑いながら僕へペンを返す。

「とりあえず間違ってたのはそこだけだから」

「あ、ありがとうございます。先輩って頭いいんですね」

「普通じゃない?」

「課題とかってもう終わりました?」

「うん。最初の三日とかで。さっさと終わらせて夏休み楽しみたいし」

「も、模範的優等生……」

 実は一切手を付けていない。

 そう言われても信じてしまいそうなのに……。

「でも授業聴いてれば内容はどうにかなるよね」

「だったら苦労しないと思いますけど……ちなみに試験とかどんなです?」

「毎回二十位以内にはいるかなぁ……」

「て、天才……」

「大袈裟だって」

 そう謙遜しつつも、照れを含んだ得意げな笑顔を結ぶ。

「マジで先輩に勉強とか教えてほしいです……」

「えぇー。勉強好きじゃないからなぁ」

「まぁ時間のある時にでも」

「気が向いたらね。でもちゃんと課題やってえらいよね」

「不登校でも最低限と言うか……学校に行く日が来た時に遅れたくないというか……」

 罪悪感を薄れさせるため……。

 後ろ向きな想いではあるが、そのおかげで課題も躓かずに進めることができているんだ。

「真面目だなぁ。夏休み……もう終わるもんね」

 はぁ。

 残念さを存分に感じさせる溜息を落とした。

「キミは今年の夏休みどうだった?」

「初めて彼女ができて過ごす夏休みですからね……楽しかったですよ」

 そこにどんな事情があれど関係ない。

 毎日予定がある、それは僕が夢見ていた日々なのだから。

「先輩はどうです?」

「最後の夏がキミと一緒でよかったなって……心から思ってる」

「……ありがとうございます」

 その言葉が胸に深く刺さる。

 最後の夏を僕と一緒で本当に良かったのか──表に出さないようにしていたが、常にその影はチラついていた。しかし立ったその言葉一つで影は綺麗に跡形もなく消えたのだ。

 救われた。

 その言葉が見事に当てはまるほどに。

 正直泣いてしまいそうなほど嬉しいが、奥歯を噛みしめて我慢する。

「キミといっぱい話したねぇ、ここで。なんか不思議だね……始まる前はいっぱい休みがあると思ってたのに。もう終わろうとしているんだから」

「そうですね……」

「最後にあと一個、なにか夏らしい事ないかなぁ……」

「夏らしい事……。そうですね」

 スイカ割り、プール、アイスを食べる。

 夏らしい事は色々やったつもりだ──あと一つ先輩が望む夏。

 それを考えていると、遠くで何かが炸裂する重低音が響いた。窓の外を覗いてみるが、夜空には変わらず星空がちらついているばかり。

「花火……?」

「だと思いますけど……こんな時間にですか?」

「近くでやってるのかもね。大きな打ち上げじゃなくて普通に買えるやつ」

「先輩と同じことを考えてる人がいたのかもしれませんね」

「だねぇ~。花火、やりたいなぁ……」

「い、今からです!?」

「この夏のうちにさ。キミと一緒に」

 ねっ。

 その横顔にドキッと胸が弾む。

 また一ページ、新しい夏が刻まれるのが嬉しい。

「今度買ってきますよ」

「楽しみにしてる。それで夏は終わりかな……」

 来年の夏は──。

 その話が出かかってしまい、咄嗟に口をつぐむ。

 先輩に来年なんてきっと訪れないのだろう。残されたわずかな日々、一秒も退屈して欲しくない。

 その一心で、もう一度強く言葉にする。

「花火、楽しみですね」

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