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第3話 小鳥

それは、冷たい曇り空の午後だった。

雪がちらつき始めた頃、孤児院の裏庭でセレフィーナは、ひとつの小さな命と出会った。


物置の影。木箱のすき間に押し込まれるようにして、弱った小鳥がいた。

羽は泥と血で汚れ、片方の翼は折れていた。

細い脚には糸のような紐が巻きつけられ、締めつけられた跡が赤く腫れていた。


その傷が、痛々しかった。


近くには使いかけの空き缶や石ころが転がっており、誰かがそれを弄んでいたのは明らかだった。

かすかに残る靴の跡。

セレフィーナはそれが誰のものか、すぐにわかった。

リオと、その取り巻きの子どもたち。彼らは、声が届かない場所では、虫や動物を使って“遊ぶ”ことがあったのだ。


セレフィーナは小鳥をそっと両手にすくい上げた。

その体はかすかに震えていたが、命の灯はまだ、残っていた。


彼女は何も言わず、小屋の裏手にある小さな丘まで歩いた。

誰も来ない静かな場所。

雪が音を吸い込むように降りてくる中、彼女は傷ついた小鳥に向かって、そっと囁いた。


「……ごめんね。痛かったね。でも、もう行けるよ」


そう言って、解きかけた羽を空へ向けて持ち上げた。


小鳥は、一度だけセレフィーナの指先を見た。

まるでその目が、彼女に何かを伝えようとするかのように。


そして、風に乗るように羽ばたいた。

不器用ながらも、確かに、空へと昇っていった。

白い雪の中、まるで小さな祈りのような影を引いて。


セレフィーナは、その飛び立つ姿を見上げた。

空に溶けていくその背中に、自分の想いを重ねていた。



飛べたらいいのに。

この場所から、どこか遠くへ。

痛みのない世界へ。



その夜だった。


誰よりも早く就寝するセレフィーナが、静かにベッドに潜ろうとしたときだった。

布団の感触に、違和感があった。


めくったその瞬間、彼女の赤い瞳が大きく見開かれた。


そこにあったのは、血に濡れた小鳥の亡骸だった。

あのときの、小鳥だった。

羽はむしられ、脚は折れ、赤黒い血がベッドの白いシーツににじんでいた。


セレフィーナの口から、声は出なかった。

ただ、呼吸が浅くなり、胸の奥で何かが強くひび割れた。


誰かが殺したのだ。

彼女が自由にした小さな命を、嘲笑うように。

まるで彼女に「飛ぶな」と言い聞かせるかのように。


心が悲鳴を上げていた。

涙は流れなかった。けれど、彼女の中で何かが壊れた。


その夜。孤児院が深い闇に沈む中、セレフィーナはそっと布団を抜け出した。

何も身につけず、裸足のまま、扉を開いた。


雪が舞う夜の庭へ、一歩。

冷たい石畳が足の裏を焼くように冷たい。

けれど彼女は、迷わなかった。


走った。何かから逃げるように、誰かに呼ばれるように。

木々の間を、白い足が音もなく駆け抜ける。

赤い瞳が、夜の森の中で淡く光る。


月が雲間から顔をのぞかせると、セレフィーナの銀色の髪が淡く輝いた。

その姿は、まるで雪の精のようだった。


ただひとつの小さな命に、寄り添いたかっただけなのに。

それすら許されなかった。

だから、彼女はもうこの場所にいられなかった。


そしてその夜から、世界はゆっくりと軋み始める。


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