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第8話 断罪

老婦人との暮らしは、夢のようだった。


言葉を覚え、火を扱い、衣を縫い、食べ物を選び、名前のない日々に「朝」や「夜」という名をつけるようになった。

セレフィーナは、静かに「生きる」ということを学び始めていた。


老婦人は時折、森の外の村まで薬草を届けに出かけていた。

セレフィーナもたまに同行したが、彼女の白髪と赤い瞳を見た村人たちは、不安げに目を逸らした。

だが老婦人がにっこり笑って「この子は私の孫でね」と言うと、不思議と誰も反論しなかった。


それでも――


“噂”というものは、火より早く、毒より静かに広がる。


「呪いの子が森に棲んでいる」

「老婆に化けて人を喰っている」

「星を堕としたのはあの娘だ」


そんな言葉が、風に乗って村から村へと伝わっていった。


ある日、老婦人が村から戻らなかった。


日が暮れ、夜が明けても、その姿は見えなかった。


探しに行こうとしたセレフィーナの前に、数人の騎士たちが現れた。

彼女は何もしていなかった。剣も持たず、逃げようともしなかった。


ただひとつ、老婦人の手編みのマフラーを胸に抱えながら、囁いた。


「おばあちゃん……」


騎士たちは言った。


「国王の勅命により、“呪いの子”を拘束する」

「不吉なる者に、正義の裁きを下す」

「罪の有無ではない。“存在”こそが、断罪の理由だ」


セレフィーナは、抵抗しなかった。

縄をかけられ、連行されるその途中で見上げた空には、星がひとつもなかった。


それでも彼女は、泣かなかった。


――むしろ、笑った。


小さく、誰にも気づかれないように。

その微笑みは、呪いでも復讐でもなかった。


それは、ただひとつの“理解”だった。


「……やはり、そうなのね。私が変わっても、世界は変わらない」


そして、彼女は歩き出した。

裁かれるために。

生まれたことの“代償”を支払うために。


いや――


世界に、最期の問いを投げかけるために。


広場には、群衆が集まっていた。


王の旗がはためき、鉄の兜を被った衛兵たちが列をなしている。

空はどこまでも晴れ渡り、まるでその日が「祝福された儀式」であるかのように、太陽は高く、雲ひとつなかった。


処刑台の中央には、二本の太い柱が立てられていた。

縄で縛られたセレフィーナは、ひとつの柱に括り付けられた。

冷たい木材が背中に食い込み、足元の薪が重く積まれていた。


彼女は黙っていた。

どこか、もうすべてを超えてしまったような、空虚な眼差しだった。


けれど、その隣に目を向けた瞬間、世界が砕けた。


「……おばあ、ちゃん……?」


もう一本の柱に括られていたのは――

老婦人だった。


頭巾は剥ぎ取られ、白髪は乱れ、顔には殴打の痕。

唇は裂け、腕には縄の焼け跡が残っていた。

その体には、酷い仕打ちの痕跡が、赤黒く刻まれていた。


それでも、老婦人は、顔を上げていた。

その目は、かすんでいても、真っ直ぐにセレフィーナを見ていた。


そして、裁判官の衣を纏った男が、問いを放つ。


「この娘は、呪いを振るう魔女か?」


老婦人は、かすれた声で、しかしはっきりと答えた。


「……違う。

あの子は……ただ、普通の女の子だよ……」


沈黙が落ちた。


次の瞬間、火が灯された。

パチパチという音とともに、薪に火が移る。


まず、老婦人の足元から、煙が上がった。

老婦人は静かに目を閉じて、それを受け入れた。

続いて、火が布を這い、彼女の衣を焼いた。


セレフィーナは――

その瞬間、初めて、声を発した。


「やめて……!!」


悲鳴だった。


乾いた喉からしぼり出すような、裂けるような叫び。

彼女の口から放たれたそれは、獣の咆哮のようであり、幼子の泣き声のようでもあった。


「お願い!! やめて!! おばあちゃんは、私を……私を守ってくれたの!!何も悪くない!!何も悪くないのよ!!」


縄がきしみ、血がにじむほど手首を振り回して叫んだ。

初めて、自分の命ではなく、他者の命に縋った声だった。


「お願いだから、やめて!! 誰か……誰かっ!!」


けれど、群衆は黙っていた。


一部は目を背け、一部は祈りを唱え、誰も――誰ひとりとして、彼女の叫びに応える者はいなかった。


老婦人は、煙の向こうで、何かを呟いた。

それはもう、言葉にはならなかった。


けれど、セレフィーナにはわかった。


「守ってあげられなくて、ごめんなさいね」


そう言って、老婦人は崩れ落ちるように、火に呑まれていった。


セレフィーナは、何度も、何度も叫んだ。

声がかれるまで、血が滲むまで、目が乾くまで。


だがその声が届いたのは――

空の彼方にいた、かつて堕ちた星だけだった。


そして、次に火が灯されたのは、彼女の足元だった。


セレフィーナはそれを恐れもせず、焼けて爛れ落ちる老婦人の方を見て絶望する。


老婦人の体が火に呑まれ、灰になろうとしたその瞬間――


「皆、誰も、許さない!!!!」


セレフィーナの叫びが、空を裂いた。


その声は、ただの少女の叫びではなかった。

魂の底から吹き上がった怒り、絶望、悲しみ、そして――「世界への呪い」。


轟音が鳴った。

それは雷でも風でもなかった。

大地が呻く音だった。


次の瞬間、処刑台の足元に、ひびが走った。

乾いた音が何度も響き、石畳に蜘蛛の巣のような裂け目が広がっていく。


「なっ……」


誰かが声を上げる間もなく、地面が、裂けた。


それはまるで、神が「断罪」を下すような一閃だった。

裁判官が立っていた壇が、裂けた瞬間に崩れ落ちた。

叫ぶ暇もなく、彼は深淵へと呑み込まれた。


群衆が逃げようとする――が、遅い。

地面は蠢くように波打ち、中央広場が音を立てて崩れ始める。


石も土も、すべてを呑み込んで、地の底が人々を招き入れていく。


見物していた兵士が、司祭が、娯楽として集まった民たちが、次々と黒い裂け目に飲まれていく。


「助けて!」「いやだ!」「落ちる、落ちる……!」


何百という声が響き、それが一つに溶けて、沈黙になった。


――そして。


すべてが終わったあと、

焼け落ちた処刑台の上に、ただひとり、気絶したセレフィーナだけが残されていた。


足元には、もう誰もいなかった。


彼女の周囲には、巨大なクレーターが開き、まるで地獄の門のように口を開けていた。

その底から、何千もの手が伸びていた気がした。

それは、かつて彼女を傷つけ、笑い、背を向けた「人間たち」の魂のようでもあった。


そこにあったのは――


「世界を拒絶した者」だけだった。


空を見上げたその瞳に、再び星がひとつ、落ちてゆくのが映った。


それは、世界が彼女にひれ伏した瞬間でもあった。


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