老婦人との暮らしは、夢のようだった。
言葉を覚え、火を扱い、衣を縫い、食べ物を選び、名前のない日々に「朝」や「夜」という名をつけるようになった。
セレフィーナは、静かに「生きる」ということを学び始めていた。
老婦人は時折、森の外の村まで薬草を届けに出かけていた。
セレフィーナもたまに同行したが、彼女の白髪と赤い瞳を見た村人たちは、不安げに目を逸らした。
だが老婦人がにっこり笑って「この子は私の孫でね」と言うと、不思議と誰も反論しなかった。
それでも――
“噂”というものは、火より早く、毒より静かに広がる。
「呪いの子が森に棲んでいる」
「老婆に化けて人を喰っている」
「星を堕としたのはあの娘だ」
そんな言葉が、風に乗って村から村へと伝わっていった。
ある日、老婦人が村から戻らなかった。
日が暮れ、夜が明けても、その姿は見えなかった。
探しに行こうとしたセレフィーナの前に、数人の騎士たちが現れた。
彼女は何もしていなかった。剣も持たず、逃げようともしなかった。
ただひとつ、老婦人の手編みのマフラーを胸に抱えながら、囁いた。
「おばあちゃん……」
騎士たちは言った。
「国王の勅命により、“呪いの子”を拘束する」
「不吉なる者に、正義の裁きを下す」
「罪の有無ではない。“存在”こそが、断罪の理由だ」
セレフィーナは、抵抗しなかった。
縄をかけられ、連行されるその途中で見上げた空には、星がひとつもなかった。
それでも彼女は、泣かなかった。
――むしろ、笑った。
小さく、誰にも気づかれないように。
その微笑みは、呪いでも復讐でもなかった。
それは、ただひとつの“理解”だった。
「……やはり、そうなのね。私が変わっても、世界は変わらない」
そして、彼女は歩き出した。
裁かれるために。
生まれたことの“代償”を支払うために。
いや――
世界に、最期の問いを投げかけるために。
広場には、群衆が集まっていた。
王の旗がはためき、鉄の兜を被った衛兵たちが列をなしている。
空はどこまでも晴れ渡り、まるでその日が「祝福された儀式」であるかのように、太陽は高く、雲ひとつなかった。
処刑台の中央には、二本の太い柱が立てられていた。
縄で縛られたセレフィーナは、ひとつの柱に括り付けられた。
冷たい木材が背中に食い込み、足元の薪が重く積まれていた。
彼女は黙っていた。
どこか、もうすべてを超えてしまったような、空虚な眼差しだった。
けれど、その隣に目を向けた瞬間、世界が砕けた。
「……おばあ、ちゃん……?」
もう一本の柱に括られていたのは――
老婦人だった。
頭巾は剥ぎ取られ、白髪は乱れ、顔には殴打の痕。
唇は裂け、腕には縄の焼け跡が残っていた。
その体には、酷い仕打ちの痕跡が、赤黒く刻まれていた。
それでも、老婦人は、顔を上げていた。
その目は、かすんでいても、真っ直ぐにセレフィーナを見ていた。
そして、裁判官の衣を纏った男が、問いを放つ。
「この娘は、呪いを振るう魔女か?」
老婦人は、かすれた声で、しかしはっきりと答えた。
「……違う。
あの子は……ただ、普通の女の子だよ……」
沈黙が落ちた。
次の瞬間、火が灯された。
パチパチという音とともに、薪に火が移る。
まず、老婦人の足元から、煙が上がった。
老婦人は静かに目を閉じて、それを受け入れた。
続いて、火が布を這い、彼女の衣を焼いた。
セレフィーナは――
その瞬間、初めて、声を発した。
「やめて……!!」
悲鳴だった。
乾いた喉からしぼり出すような、裂けるような叫び。
彼女の口から放たれたそれは、獣の咆哮のようであり、幼子の泣き声のようでもあった。
「お願い!! やめて!! おばあちゃんは、私を……私を守ってくれたの!!何も悪くない!!何も悪くないのよ!!」
縄がきしみ、血がにじむほど手首を振り回して叫んだ。
初めて、自分の命ではなく、他者の命に縋った声だった。
「お願いだから、やめて!! 誰か……誰かっ!!」
けれど、群衆は黙っていた。
一部は目を背け、一部は祈りを唱え、誰も――誰ひとりとして、彼女の叫びに応える者はいなかった。
老婦人は、煙の向こうで、何かを呟いた。
それはもう、言葉にはならなかった。
けれど、セレフィーナにはわかった。
「守ってあげられなくて、ごめんなさいね」
そう言って、老婦人は崩れ落ちるように、火に呑まれていった。
セレフィーナは、何度も、何度も叫んだ。
声がかれるまで、血が滲むまで、目が乾くまで。
だがその声が届いたのは――
空の彼方にいた、かつて堕ちた星だけだった。
そして、次に火が灯されたのは、彼女の足元だった。
セレフィーナはそれを恐れもせず、焼けて爛れ落ちる老婦人の方を見て絶望する。
老婦人の体が火に呑まれ、灰になろうとしたその瞬間――
「皆、誰も、許さない!!!!」
セレフィーナの叫びが、空を裂いた。
その声は、ただの少女の叫びではなかった。
魂の底から吹き上がった怒り、絶望、悲しみ、そして――「世界への呪い」。
轟音が鳴った。
それは雷でも風でもなかった。
大地が呻く音だった。
次の瞬間、処刑台の足元に、ひびが走った。
乾いた音が何度も響き、石畳に蜘蛛の巣のような裂け目が広がっていく。
「なっ……」
誰かが声を上げる間もなく、地面が、裂けた。
それはまるで、神が「断罪」を下すような一閃だった。
裁判官が立っていた壇が、裂けた瞬間に崩れ落ちた。
叫ぶ暇もなく、彼は深淵へと呑み込まれた。
群衆が逃げようとする――が、遅い。
地面は蠢くように波打ち、中央広場が音を立てて崩れ始める。
石も土も、すべてを呑み込んで、地の底が人々を招き入れていく。
見物していた兵士が、司祭が、娯楽として集まった民たちが、次々と黒い裂け目に飲まれていく。
「助けて!」「いやだ!」「落ちる、落ちる……!」
何百という声が響き、それが一つに溶けて、沈黙になった。
――そして。
すべてが終わったあと、
焼け落ちた処刑台の上に、ただひとり、気絶したセレフィーナだけが残されていた。
足元には、もう誰もいなかった。
彼女の周囲には、巨大なクレーターが開き、まるで地獄の門のように口を開けていた。
その底から、何千もの手が伸びていた気がした。
それは、かつて彼女を傷つけ、笑い、背を向けた「人間たち」の魂のようでもあった。
そこにあったのは――
「世界を拒絶した者」だけだった。
空を見上げたその瞳に、再び星がひとつ、落ちてゆくのが映った。
それは、世界が彼女にひれ伏した瞬間でもあった。