泣き疲れた幼女たちが居間で寝息を立てているうちに、俺には幾つかやっておかなければならないことがある。その中でも最優先は、着替えの用意、それと夕飯の食材の確保だ。
着替えは、後ほど三人を風呂にいれる予定なので絶対に欲しい。せっかく体をきれいにしたのに、またあのボロのワンピースを着ては意味がない。
食材もちゃんとした夕飯を作るために必須。自分一人だから適当でいいや、と考えていたせいで冷蔵庫にはろくな物が入っていないのだ。
つまるところ、買い出しに行く必要がある。
だが、我が家は東京とは名ばかりの西部の片田舎に位置するため、近所にスーパーなんて影も形もない。
住所上は、東京都内で唯一『村』を冠する地域(島嶼部を除く)だ。前の自宅からは、車で二時間ほどの距離にある。
近辺を山林に囲まれ、敷地前の道路を挟んだ向こう側には風光明媚で知られる渓谷が横たわる。キャンプ場やレジャー施設も点在しており、夏場は渓流遊びの観光客で大層賑わう。
そもそもこの一軒家は、敬愛する祖母の遺してくれたものだ。数年前に他界してからも暇を見つけては足を運び、少し掃除をすれば住める状態に保ってきた。
家屋は木の風合いを生かした二階建ての和風住宅で、自然豊かな環境に馴染むような外観を持つ。すこし古びた印象を受けるが、相続前にリフォーム済みとあって、内装や設備は新築同然。
敷地も広く、裏庭には畑があり、前庭には車を三台はとめられる駐車場が付随している。税金まわりで悩まされはしたが、手放さなかったのは正解だった。
そんなわけで、買い出しに出る場合、車で隣市のショッピングモールへ向かう必要がある。食材だけでなく、幼女たちの衣服を不足なく揃えたいならば他に選択肢はない。
しかし、その案は残念ながら却下。
理由は、幼女たちを連れて行くことができないから。
獣耳などの個性的な特徴のみならず、異世界や謎の地下通路などに関する不明点が多い現状、三人の扱いには慎重を期して然るべきだ。長いあいだ目を離すことも不可なので、外出せずに揃えることが望ましい。
では、どうするか?
答えは簡単、人に依頼すればいい。
俺はスマホを取りだし、画面をタップしてトークアプリを起動する。
『今日ひま? わけあって女児三人をしばらくあずかることになったんだけど、着替えと食料がなくて困ってる。でも俺はお世話で手が離せないから、まとめて買って家に届けてくれない?』
メッセージの送信相手は六歳年上の我が実姉。早くに結婚して家をでた姉は、この家から車で一時間ちょっと離れた立川市内に在住している。
前に連絡を取ったときには、『娘が中学へ進級して時間を持て余しているけど、旦那の稼ぎが少なくて友達とのランチ代にも苦労する』などとナメたことを抜かしていた。
だからここは、多額の現金報酬で釣るとしよう。銀行が近場にないからと、ある程度の現金を財布にいれておいて正解だった。
『タダとは言わん。購入費とは別に報酬五万円でどうだ』
『マジ?』
秒で返信がきた。最初は既読スルーしていやがったくせに、金をちらつかせた途端にこの反応である。弟相手とはいえ流石に酷すぎる……いや、引き受けてくれるなら別にいいけどさ。
『夏実の子供服が残ってるから持ってくわ。食材は何が欲しいの? 量は?』
夏実(なつみ)とは姪っ子の名前である。つまり姉は、この機に乗じて不用品を押し付ける腹積もりらしい。けれど、そう悪い話でもない。エマたちも色々と選べた方が嬉しいだろうし。
他にも多数、俺が必要と思う品を買ってくるよう頼んだ。あとはエマたちの年齢だけ伝え、衣服は姉のセンスにお任せした。
食材を含めるとかなりの量になってしまったが、五万円という報酬に見合う働きを求めてもバチは当たるまい。
メッセージを送信してから、廃聖堂の様子と寝ている幼女三人に異変がないか確認しつつ、ネットで暇を潰すこと数時間。時計の短針がおやつ時を少しすぎた頃、姉の運転するミニバンが家の前に到着した。
「久しぶり。あんた、本当にこんな田舎へ引っ込んだのね。仕事は辞めたっていうし、独身は気楽よねぇ」
「まあね。しばらくはのんびりして、気の向いたときにでも次の仕事を探すつもり」
秋色に染まり始めた山林をバックに、姉の『紗季子(さきこ)』が運転席から姿を現す。本日は長めの黒髪を後ろでひとつにまとめ、デニムにニットソーというカジュアルな装いだ。
顔立ちは、俺と似ているらしい……が、それを言うと機嫌を損ねるのでこれ以上は触れないでおこう。
「それで、どこの子を預かっているの?」
「どこっていうか……ちょっとワケありでさ」
「あっそ。お人好しが過ぎるあんたのことだから、どうせ安請け合いでもしたんでしょ。そんな調子だからいつも貧乏くじを引くのよ。もっと要領よく生きないと」
相変わらず口は悪いが、姉なりに心配してくれているのだ。
それというのも、俺は今年の梅雨の終わりに会社を辞めていた……いや、正確にはクビになったというべきか。
原因は、クソ上司の執拗なパワハラ。三年にもわたって追い詰められ、いよいよ我慢の限界を超えたとき、憎たらしいあのツラを全力でぶん殴ってしまったのだ。
結局、会社側のとり成しで大きな問題には発展しなかったものの、俺は示談代わりの依願退職を余儀なくされた。
もちろん暴力を振るうなんて社会人失格だと重々承知だ。けれど、個人的にはまったく納得のいかぬ処置である。なぜなら、俺一人だけが辞めさせられたのだ。
三年分の言葉の暴力や嫌がらせよりも、たった一発の右フックの方が罪深いなど認められるはずがない。
こうして、俺には無職という暗澹たる現実だけが残った。
しかし、逆に気分は晴れ晴れとしていた。
幸い……と言うと語弊はあるが、勤めていた会社はブラック気味だったせいで給料を使う暇がなく、それなりの貯蓄があった。加えてこの家もあったので、特段生活に困ることもない。
そこで俺は、齢二十八にして片田舎でのスローライフへ突入した。
いい機会なので、のんびり心のメンテナンスをしようと思ったのだ。とてもではないが、急いで次の仕事を探す気にはなれなかった。
そして、夏の盛りの頃。諸々の手続きを終わらせた俺は、さっそくこの家へ移住してきたのである――そこからまた少し時は流れ、秋口の現在へと至る。
「まあ、会社に関してはそこまで後悔はしてないから大丈夫。今度はうまくやるよ、心配ありがとね。ていうか、すごい荷物じゃん」
「あんたが頼んだんでしょうが。ほら、さっさと運んじゃって。子供服は年齢にあわせたサイズを適当に買ってきたわよ。デザインは今どきの子が好きそうな物を選んだから大丈夫だと思うけど、気に食わなくても我慢しなさい。それと、下着やパジャマも入ってるから。それぞれ四日分くらいかな」
これだけあれば当面は困るまい。注文通りで大変助かります。
俺は荷物で満載になったミニバンの後部席から買い物袋をとりだし、次々と我が家の玄関へ運び込む。姉はいっさい手伝ってくれなかったが、何往復かするときれいに片付く。
「そうそう、足元のダンボールも運んじゃって。中に夏実の子供服が入ってるから」
「わかった、ありがとう姉ちゃん。本当に助かった」
「感謝しているならお駄賃を倍にしてくれてもいいわよ。はい、これレシートね」
報酬の五万円は、渡しそびれていた夏実ちゃんの進学祝い込みの金額なので、初めからかなり奮発したつもりだったのに……さらにふっかけてくるなんて、とんでもなく強欲な姉である。
「ボリすぎでしょ。ほれ、倍は無理だけどお釣りはなしでいいよ」
俺はすべての荷物を運び入れた後、しょうもない冗談を聞き流しつつ精算を行った。予め用意していた封筒に報酬込みの金額を入れ、玄関先で姉に手渡す。
「お茶のひとつも出せなくて悪いね。引っ越しの荷物がぜんぜん片付かなくてさ、人を呼べるような状態じゃないんだ」
「別にいいわよ。今日はこのまま帰って、旦那と夏実を連れてお寿司たべにいくから。回らないやつね。じゃ、落ち着いたらまた改めて遊びにくるわ」
エマたちが居間で寝ているため、家の中へ招くことは難しい。だから前もって言い訳を考えておいた。しかし姉は、元より長居するつもりはなかったようだ。
「またなんかあったら連絡しなさい。返答は報酬次第だけど」
お金を受け取るや、捨て台詞を残してすぐに帰っていった。
昔からそうだけど、ここまで現金な対応だといっそ清々しく感じるから不思議だ……さて、荷物の整理でもするとしよう。
姉の乗ったミニバンが最初のカーブを曲って見えなくなるまで見送り、俺は家の中へ戻った。