ルルを抱っこしながら見上げれば、異世界の空は変わらず高く、どこまでも青い。降り注ぐまばゆい陽光が、足元の石造りのレトロな街並みを照らし出していた。
肺に落ちる空気の感触からしても、日本と比べて気候や時間の差はほとんどないように思う。
何気なく敷地に隣接する通りに目をやれば、まだ朝の早い時間だというのに結構な数の人影がみえた。
一般的な人間と外見がほぼ変わらない者のほかにも、獣耳や尻尾を持つ種族が混在し、髪の色も実に多彩。身につけている衣服はどこか古めかしく、石造りの街並みと相まって得も言われぬファンタジー感を醸し出している。
「このへんにはいっぱいお家があって、たまにゴハンをわけてくれるやさしい人もいます」
「あっちには川があるのよ! いつも草をとりにいくの。ぜんぜんおいしくないけど」
右手を繋いで歩くエマと、右手でジャケットの裾をしっかり掴んでついてくるリリが、涙を誘うエピソードを挟みつつ街の情報を教えてくれる。
もちろん左腕に抱えられたルルも、指差しであれこれ伝えてくれている。すぴすぴ鼻を鳴らして得意げだ。キミ眠かったんじゃなかったの?
それにしても、スニーカーを履いてきて正解だったな。地面は舗装などされておらず、土を踏み固めただけなので、お世辞にも歩きやすいとは言えない。
それでも歩を進めていくと、やがて大通りに差しかかった。こちらは石畳で舗装してある。
「この大きな道をまっすぐいって、とちゅうでまがると市場があります」
手をつなぐエマがそう教えてくれた。
大通りは幹線道路ほどの幅を持ち、馬車がひっきりなしに行き交っている。おそらく、都市の流通を支える大動脈的な役割を担っているのだろう。
なにより気になるのが、荷車を引く馬の体格。いつかテレビで見た『重種』を凌ぐ巨体だ……そんな光景を横目に、路肩を通行する人々の流れに乗って通りをいく。
「あ、見えてきた。ここが市場です!」
幼女たちの先導に従っていくつ目かの四つ辻を左折すると、今度は人でごった返す騒々しい路地にたどり着く。エマが言うにはここがお目当ての市場のようだ。
幅の広い通りの両脇には路面店が軒を寄せあい、そうでないところを敷物に座った露天商が陣取り、さらに奥の方では屋台までもが立ち並ぶ。
まるでお祭りのような有様だ……いや、品揃えの雑多さから『東南アジアあたりのマーケット』の方が印象としては近いかもしれない。
「エマがお使いに来たときは何を買ったの?」
「パンとお塩です」
「サクタローのバターロールの方が、ぜんっぜんオイシイのよ!」
「そっか、二人とも教えてくれてありがとう。じゃあちょっと見て回ろうか。人が多いから絶対に離れないようにね」
抱っこしているルルは問題ないとして、引き続き自分の足で歩くエマとリリにはぐれないよう声をかけ、売り買いの言葉が飛びかう市場の見学を開始する。
店の軒先には野菜や果物をはじめ、穀物、パン、岩塩、ハーブ、謎の生物の死骸と食用らしき肉、といった様々な食料品が陳列されていた。とくに肉類が豊富なようだ。
露天では、作りが粗く見慣れぬデザインの衣服のほか、用途不明な道具や物品がずらりと並び、果ては金属製の剣や盾といったアナログな武具までもが売られている。奥の屋台では、謎肉の鉄板焼きや串焼きの香ばしい煙が立ちのぼっている。
月並みな表現だが、まるでファンタジー映画の中へ迷い込んだみたいな光景の連続だった。
通りをざっと一巡りして元の場所へ戻ってきたとき、俺は改めて『ここは異世界なのだ』という実感を深めた――同時に、とある疑念が確信へ変わる。
「なるほど……やっぱり、かなり遅れているみたいだな」
「おくれてる?」
呟きを拾ったエマが首をかしげる。
言葉通り俺は、異世界の風景を初めて目にしたときから『日本と比べて文明の発展が世紀単位で遅れている』という印象を抱いていた。
そして市場の見学を終えた今、それは間違いではないと明確に理解できた。
ここに至るまでの景観、人々の顔立ちや衣服、所持品、市場に並ぶ商品の数々――諸々の情報から判断するに、異世界の文明はおよそ『近世初頭前後のヨーロッパレベル』と推察される。
もちろん既存の情報と己の知識を照らしあわせて導いた結論なので、実際には色々な違いがあるはず……というか獣耳を生やした人々の存在など、すでに幾つかの差異が見られる。それでも、方針を定める際の拠り所くらいにはなりそうだ。
「そう思えばわりとしっくりくるな」
ふと意識のピントがあったような気がして、視界の解像度がぐんとあがる。この分なら、当初の目的を達成することはそう難しくなさそうだ。
近世初頭のヨーロッパといえば、まっさきに思い浮かぶのは『大航海時代』。何より当時の主役といったら、やはり海上貿易――すなわち『香辛料』の類い。
冷蔵技術のなかった時代、食肉の保存などに香辛料が珍重され、中でも胡椒は金と同程度の価値を有していたという。諸説ありだが。
いずれにせよ、こちらの市場ではスパイス類を見かけなかったので、持ち込めばそれなりの値が付くのではないだろうか。
今後の展望が明るく感じられ、思わず頬が緩む。
と、そのときである。
「もし、そこの子供を抱いた御方」
不意に声をかけられ、俺は振り返る。
背後にいたのは、焦げ茶色の髪と髭、それに同色の瞳を持つ中年男性だ。三十代半ばと思われる実直そうな顔立ちのナイスミドル。
とりわけ目を引くのはその衣服――生成りのシャツとベスト、加えて長ズボンに革靴という、こちらでは一般的な組み合わせだ。が、ひと目で上質な素材を使用していることがわかる。
どうやら、ただの町人というわけではなさそうだ。警戒感を持って対応に当たるべきだろう。
「何かご用ですか? 生憎、お力になれることはないと思いますけど」
俺は速やかにルルを地面へ降ろし、自身の腰に右手をやる。
尻のポケットには、護身用の『催涙スプレー』が入っている。くらえば激痛で三十分は行動不能になること間違いなしの品だ。浮気した元カノが前住居に忘れていった曰く付きの品でもある。
「驚かせてしまって申し訳ありません。あなた方のお召し物がとても珍しく見えましたので、つい声をかけてしまっただけなのです」
こちらの心情を読み取ってか、相手は両腕を広げてみせる。害意がないことを示しているようだ。対して俺は、続くセリフが気になったので、幼女たちをかばうような位置に立ちつつ会話を試みる。
「私の着ている服がそんなに珍しいのですか?」
「ええ。意匠はもちろんのこと素材から縫製に至るまで、初めて拝見するものばかりでして……おっと失礼、申し遅れました。私の名は『ケネト・テリール』、しがない商人でございます。運命の三女神が紡ぎしこの出会いに感謝を」
言って、男は胸に片手を当てて慇懃にお辞儀した。