「お母さん、誠司さん。留学の申請が通ったの。私、海外に行くつもり。」
静かなリビングに、
母は目を輝かせた。
「そんなに早く通ったの? いつ出発するの?」
「十日後。」
思いのほか早い日程に驚きながらも、喜びと同時に、母の目には寂しさも浮かんだ。
「じゃあ、今すぐ荷物をまとめないとね。初めての海外でしょ? しかも外国だなんて……
心配でたまらないのよ。何かあったらすぐに連絡できるように、数年前に連絡を取っていた友達に頼んでおいたの。その人の息子さんもちょうどロンドンにいるの。困ったことがあれば彼に連絡してね。迷惑だなんて思わなくていいのよ。なんたってあなたとその子、昔、幼なじみの縁談があったくらいなんだから。うまくいけばいいけど、ダメでも友達にはなれるでしょ?」
鹿乃は素直にうなずいた。「うん、ありがとう、お母さん。」
その答えに、母は驚いた様子だった。
「鹿乃……あんた、今の彼氏とは……ようやく別れたの?」
鹿乃は何も言わず、ふと沈黙した。
「あいつ、ずっと家に挨拶にも来ようとしなかっただろ。最初からお前に本気じゃなかったんだ。そんな奴、別れて正解だ!」
「彼氏? 誰の話?」
突然、その場の空気を裂くように低く響いた声が、リビングを包んだ重たい雰囲気を一気に打ち破った。
三人が一斉に振り向くと、玄関のドアが開いたところで、ちょうど
黒のシャツにスラックス。すらりとした長身、モデルのように整った顔立ち。何気ない仕草の一つひとつに、気だるげな優雅さがにじむ。
鹿乃は一瞬身を震わせ、立ち上がって呼びかけた。
「……お兄ちゃん。」
湊は何かを悟ったような表情で、低く「……ああ」とだけ応じ、車の鍵を置くとそのまま無言で階段を上っていった。
夜。母が大きなテーブルいっぱいに料理を並べ、ワインまで開けていた。
「さあさあ、今日はお祝いよ! 鹿乃がもうすぐ――」
と、母が言いかけた瞬間、鹿乃がすぐさまそれを遮る。
「お母さん、このワイン、ちょっと苦い……もしかして、古くなってない?」
「えっ? そんなはずないんだけど……」
戸惑う母の手を取り、鹿乃はキッチンへと母を連れていく。
「お母さん、私が留学すること、まだお兄ちゃんには言わないで。」
母は一瞬戸惑ったが、思い返せば、普段から湊は鹿乃のことをとても気にかけていた。そう思うと、妹を手放すのがつらいのだろうと察し、黙ってうなずいた。
夕食もそこそこに、鹿乃は早々に自室へ戻った。
身支度を終え、ベッドに横たわる。やがて、静かな眠りに落ちていった――
夜中の十二時。いつものように、彼女の隣に人の気配が加わった。
熱い吐息がうなじに落ちて、続いて柔らかな唇がそこを優しく噛む。冷たい湿気が首筋を伝い、眠気の残る鹿乃の意識を一気に引き戻す。
鹿乃は体を硬直させ、反射的に身を起こして彼を突き飛ばす。
「……湊兄!」
その声は怒りと拒絶が入り混じっていた。
「どうした? 家族に紹介された男が気に入ったか? だからもう
闇の中で、湊は薄く笑みを浮かべる。だがその笑みは目元まで届かず、声には冷ややかな毒が混じっていた。
「何年も俺と一緒にいて、今さら
鹿乃は誤解されていることに気づいていたが、何も言い返さなかった。
その沈黙の中で、湊の目は次第に冷え切っていく。
彼は彼女を腕の中に閉じ込めて、低く囁いた。
「鹿乃、俺、前にも言ったよな。他の男と付き合うのは禁止だ。お前は俺のものだって。」
背後から伝わる湊の体温に、鹿乃は争う気力を失い、嘘をついた。
「……やめて、今生理なの。調子が悪いの。」
彼女の苦しげな言い訳を聞いて、神崎湊の表情はようやく和らいだ。ただ、それでも眉間の皺は消えなかった。
「生理って……この前終わったばかりだろ。もう来たのか?
……まあいい、今日は触らない。早く寝ろ。」
そう言うと、彼は彼女をきつく抱きしめた。
耳元で聞こえる穏やかな呼吸。けれど、鹿乃はなかなか眠れなかった。
誰も知らない——自分の
鹿乃が十二歳の時、母が神崎家に再婚し、湊は彼女の異父兄となった。
十四歳の頃、彼女は「お兄ちゃん」と呼び、彼は「鹿乃」と呼んだ。世間の目には、仲の良い兄妹そのものだった。
十八歳。彼女がこっそり綴った、湊への恋心が詰まった日記帳が見つかった。
湊は彼女の机にもたれかかり、目を細めて何度もそれを読み返した。そして、取り返そうとする鹿乃の手を捕まえて、彼女の頬にそっとキスを落とした。
二十歳。二人は一線を越えた。それは始まりに過ぎず、やめられない関係になっていった。
昼は兄妹。夜は誰にも言えない関係に溺れる日々。
もともと真面目で優等生だった鹿乃にとって、湊との関係は、人生で唯一無二の「過ち」だった。
でも彼女は、それでも良いと思っていた。湊が好きだったから。たとえ誰にも知られなくても、いずれふたりで海外に逃げて、結婚すればいい——そう思っていた。
そんな儚い夢が壊れたのは、半月前のある日だった。
その日は土砂降りだった。鹿乃は湊に傘を届けに向かった。
個室のドアを開けようとした瞬間、中から湊の友人たちの会話が聞こえてきた。
「湊、あの継母の娘のこと、どうするんすか? 最初は遊びって言ってたのに、なんでまだ別れてないんすか?」
「そうだよ、最初あの子と付き合い始めたの、継母が神崎家に入ってきたのに腹立てて、復讐のつもりだったんでしょ? まさか本気になったとか言わないよな?」
復讐?
彼が鹿乃と一緒にいたのは、愛情からじゃなく、母への怒りの矛先だった?
鹿乃の顔から血の気が引いた。頭が真っ白になり、全身が震え始めた。
それでも、鹿乃は逃げなかった。最後まで彼の答えを聞きたかった。
そして次の瞬間、湊の冷たく無慈悲な声が、彼女の耳に突き刺さった。
「長く引き伸ばさなきゃ、あいつをもっと苦しめられないだろ。」
その場が笑い声に包まれた時、彼女は扉の外に立ち尽くしていた。
——彼は、彼女を愛してなどいなかった。
「恋人」として付き合い、夜を共にし、名前を呼んで抱きしめてくれたすべてが、母への復讐のための茶番だったのだ。
けれど、鹿乃の母は今も神崎家で暮らしている。このことを公にして、騒ぎ立てることなどできなかった。
悩んだ末に、鹿乃が選んだのは「逃げること」だった。
この家を出て、彼のそばから離れること。
そのための留学申請だった。
今や、鹿乃の密かな脱出計画のタイムリミットは、残り十日となっていた。
スマホに表示されたカウントダウンを見つめながら、鹿乃はそっと、腰に回された湊の手をどけた。
しばらくすると、彼はまた無意識に抱きついてきた。外すと、また抱きついてくる。
何度も繰り返されるその動作に、彼女の我慢は限界を迎え、ついに抱き枕を持ち出して、二人の間に置いた。
今度は、湊もようやく静かになった。
鹿乃の心にも、ようやく静寂が訪れた。
彼女は知っている。
この関係は、もうすぐ終わる。
もう、湊のものではない。
もう、湊に所有される存在でもないのだ。