ロンドンに到着して最初の行き先は、白石家の自宅だった。
鹿乃は、アパートに行きたいという意向をやんわりと伝えたものの、理咲さんに一蹴された。「アパートの方はまだ生活用品が揃ってないし、学校も始まるまでまだ先だから。しばらくはうちにいた方が便利よ。」
厚意に逆らえず、鹿乃は渋々頷いた。
道中、理咲さんは鹿乃の手を取って、昔話を次々と語ってくる。
母の友人から聞いたという、遠い昔の思い出の話。鹿乃の心には、複雑な思いが広がっていた。ひとつは、母がどれほど幸せかということ。長い年月を経ても、親友に想われていることが嬉しかった。
もうひとつは、その深い友情が、今は海を隔てた遠い場所で、ただ想い出として繋がっているということ。彼女の母――遠く海の向こうにいるあの人が、一生で最も大切にしてきたふたりの人間が今こうして同じ場所にいるのに、
肝心の本人だけが、その場にいない。それは、ある種の残酷とも言えた。
語りながら、理咲さんもふとそれを思ったのか、長く深い溜め息を吐いた。
「依織(※鹿乃の母の名)も来てくれたらよかったのにね。」
その言葉に込められた寂しさを察して、鹿乃は慌てて言った。
「大丈夫です、母が言ってました。ビザが取れたら絶対に会いに行くって。」
その一言で、理咲さんの顔にぱっと笑顔が広がった。
「鹿乃ちゃんは、本当に口が上手ね。悠真なんか、一日三回も話せば多い方よ。」
その名前を聞いた瞬間、鹿乃の目にわずかな驚きが走る。
彼がよそよそしいのは他人だけではなかったのか。思わずミラー越しに前を見上げた鹿乃は、ちょうど白石悠真と目が合ってしまう。
二人の視線が一瞬交わり、すぐにまた逸れた。少し気まずさを感じていたそのとき、これまで沈黙を保っていた悠真が口を開いた。
「依織さんは、だいたいいつ頃来る予定ですか? 部屋を整えておきます。」
その一言に、理咲さんが目をまん丸くして振り向いた。
「悠真がそんなに気が利くなんて……何か変なものでも食べた?」
悠真は母の軽口に慣れているのか、淡々と返す。
「俺が準備しないと、結局押し付けられるだろ。」
「なによ、その口の利き方。鹿乃ちゃんが見てるのよ? もっと優しい息子っぽく振る舞ってちょうだい。」
「『優しくもない』『息子でもない』ってことかい。」
理咲さんと悠真の小さな言い合いに、鹿乃は思わず口元を押さえて笑ってしまった。
後部座席の白石幸次もつられて笑い、車内の空気がふわっと明るくなる。鹿乃の笑顔を見た理咲さんは、嬉しそうに彼女の頭を優しく撫でた。
「鹿乃ちゃん、うちのことは自分の家だと思ってね。悠真は口数少ないけど、困ったことがあったらなんでも言って。もし彼が渋ったら、私が叱ってあげるから!」
この賑やかで穏やかな家庭の雰囲気に、鹿乃の緊張も次第にほどけ、笑顔が自然とこぼれた。
車が停まると、鹿乃は先に降り、荷物を取ろうと後部のトランクへ向かった。
手を伸ばしかけた瞬間、別の手が先に彼女のスーツケースを取り上げた。顔を上げると、白石悠真が目の前に立っていた。軽く頷き、顎を少し上げて言う。
「俺がやるよ。君と母さんは部屋を見に行って。」
荷物の重さを知っていた鹿乃は、思わず遠慮しようとしたが、悠真は静かに、だが少しだけ疲れた声で続けた。
「いいから行って。じゃないと俺また母さんに怒られる。」