東京発ロンドン行きの直行便は、午前八時ちょうどに羽田空港を飛び立った。
鹿乃は一人、ファーストクラスの窓側の席に座り、遠ざかっていく都市の景色を静かに見送っていた。
やがて、波のように押し寄せる眠気に抗えず、彼女はゆっくりと、まぶたを閉じた。
そのまま、七時間以上も眠ってしまった。
目を覚ましたとき、窓の外に広がっていたのは、綿のようにふわりと浮かぶ雲と、果てしなく連なる山々だった。
このときになってようやく、鹿乃は実感する。
自分は本当に、故郷を離れたのだと。
たった一人で、見知らぬ異国へ――。
それは、以前の自分には到底考えられなかった未来であり、決して持ち得なかった勇気でもあった。
けれど、自分が変わったからこそ分かった。
別れは思っていたほど痛くない。孤独も、そこまで悲しくない。
彼女は静かに、一歩を踏み出したのだ。
涙も、後悔もない。
あるのは、果てしない安堵と――燃えるような強さではないが、じわじわと広がっていく希望。
そんな心境のせいか、鹿乃の表情にも自然と余裕が生まれていた。
スマホを取り出して、出発前にまとめておいた「ロンドン生活の注意事項リスト」を開き、丁寧に目を通す。
現地のアパートや生活必需品の手配は、すでにすべて整っている。彼女が気遣うことはほとんどない。
ただひとつ、どうにも引っかかっているのが――
その手配をしてくれた「ある人物」のことだった。
同じ年の同じ月、誕生日も前後しているという、幼い頃に交わされた「許嫁」の相手。
……名前、なんだっけ?
どうしても思い出せず、母から渡された紙切れを取り出して、そこに書かれていた電話番号でLINEの友だち追加を試みた。
あっという間に承認された。
表示されたのは、白黒のアイコンと「白石悠真」という名前。
それを見つめながら、鹿乃は小さく首を振り、飛行機に乗る前に母から言われたあれこれを頭の中から追い出そうとした。
「しばらくはお世話になるかもしれないから、連絡を取り合って仲良くしてね」
「何かあったら、彼に頼るのよ」
……いや、どう見ても人付き合いの苦手そうな、そっけないタイプにしか見えない。
迷惑をかけるより、距離を取ってそっとしておいた方がよさそうだ。
そんな取り留めのない思考を繰り返しているうちに、あっという間に数時間が過ぎ、飛行機は無事ロンドン・ヒースロー空港に着陸した。
心臓の鼓動がどんどん速くなる。
重いスーツケースを三つも引いて、到着ゲートを出た瞬間、鹿乃は自分の名前が書かれたボードを見つけた。
そのボードを掲げていたのは、三人の家族。
母の幼なじみである白石理咲と、その夫、そして息子だった。
白石家は二十年前にイギリスへ移住していたため、鹿乃の記憶の中にはほとんど存在がなかった。ただ、古い写真に残る理咲さんの顔が、なんとなく思い出される程度だ。
どう声をかけるべきか迷っていると、向こうの方から理咲さんが鹿乃を見つけ、手を大きく振ってきた。
「鹿乃ちゃん、こっちよ!」
顔が一気に熱くなるのを感じながら、鹿乃はぎこちない笑顔を浮かべて歩き出す。
だが人の波は多く、荷物も重い。ちょっとした拍子に、一つのスーツケースが流れに押されて遠ざかってしまった。
慌てかけたその瞬間、ゲート付近に立っていた白石悠真がすっと歩み寄り、すばやくそのスーツケースを押さえた。
鹿乃が残りの荷物を引きながら近づくと、まだ「ありがとう」と言う間もなく、悠真は無言で彼女の左手からもう一つのスーツケースを受け取った。
そこへようやく追いついた理咲さんが、夫にもう一つの荷物を持たせ、鹿乃の手を取って笑顔で額の汗を拭いてくれる。
その優しさに驚き、鹿乃がふと顔を上げると、理咲さんの瞳がきらきらと輝いていた。
「鹿乃ちゃん、ロンドンへようこそ」