職員が、新しい骨壺を届けてくれた。
鹿乃は掌に残った、わずかな遺灰をそっとその中へ納めた。そして、父の墓前に跪き、深々と頭を下げた。
――お父さん、ごめんなさい。私は不孝でした。間違った人を愛してしまいました。
――お父さん、ごめんなさい。私は不孝でした。あなたを守れませんでした。
――お父さん、ごめんなさい。私はこれから遠くへ行きます。しばらく、会いに来ることができません。
三度、額を地につけたあと、鹿乃はゆっくり顔を上げた。
空を横切っていく、寒々しい鳴き声を上げる一群のカラスを見上げる。
その瞬間、ひとすじの鮮紅が鹿乃の眉尻をつたい、赤く染まった目尻をかすめて落ちていった。
まるで、血の涙のようだった。
夕暮れ時、鹿乃はひとり墓園を後にし、家へ戻った。そして、先日まとめておいた荷物を一つずつ階下へ運んだ。
湊の名前がぎっしりと書かれた片想いの日記は、焚き火の中へ投げ込んだ。
こっそり買っておいたお揃いのグッズは、ゴミ袋に突っ込んだ。
彼と一緒に撮った秘密のツーショット写真は、一枚一枚ハサミで細かく切り刻んだ。
すべての処理を終えた後、鹿乃は自分の部屋へ戻った。
そして、扉を閉めたちょうどそのとき、階下から玄関の開く音が聞こえた。
彼女はすぐに内鍵をかけ、電気を消し、暗闇の中でベッドにうずくまった。
間もなく、扉の外からノックの音がした。
――コンコン、コンコン。
「鹿乃、開けて。頼む、話をさせてくれ」
「鹿乃、説明するから……!」
それは湊の声だった。
鹿乃は返事をしなかった。けれど、涙は自然に流れていた。
説明? ――何を?
私を復讐の道具にしなかったこと? それとも、名取窈子が父の骨壺を壊したとき、彼女ではなく名取の味方をしたこと……?
しばらくして、ノックの音はやんだ。だが、スマホが震え始める。
次々とメッセージが届く。全部、湊からの言い訳ばかりだった。
鹿乃はそのトーク画面をじっと見つめ、彼のプロフィールページを開き――
ブロックし、削除した。
その夜、外でどんな音がしても、彼女は一切気にしなかった。
翌朝、母の声が聞こえてきたときだけ、鹿乃はようやく扉を開けて――母の胸に飛び込んだ。
母は何があったのか分からなかったが、幼い頃のように優しく娘の背をさすりながら、静かにあやしてくれた。
その様子を、徹夜で眠れぬまま見ていた湊は、しばらく黙って佇み、やがて静かに階段を下りていった。
それから数日、鹿乃は湊に話しかけられないよう、母の部屋で寝泊まりするようになった。
昼は母と一緒に荷物をまとめ、夜は寄り添って眠りながら、母娘だけの秘密の話をたくさんした。
母の腕に包まれて、鹿乃はようやく穏やかな眠りを取り戻していった。
旅立ちの前夜も、母と一緒に眠りたかった。
けれど母は、娘が話したいことが尽きずに眠れなくなることを気遣い、「今夜くらいは、しっかり休みなさい」と言った。
鹿乃はしぶしぶ自室へ戻り、暗い天井を見つめながら、静かに目を閉じた。
深夜零時、玄関の鍵を開ける音がした。
入ってきたのは湊だった。予備の鍵でまたしても忍び込み、鹿乃をそのまま腕の中に抱き寄せる。
「まだ怒ってるの? 悪かったよ、許してくれないか?」
「鹿乃が三日も口を利いてくれないから、もう気が狂いそうだった」
鹿乃は何も言わず、静かに目を閉じた。
その浅くゆるやかな呼吸に、湊はふっとため息をつく。
彼女がこの数日どれだけ辛かったか、湊にも分かっていた。だから、これ以上は責めるまいと、彼はただ、そっと彼女の額にキスを落とした。
聞こえてくる彼の鼓動。その音を聴きながら、鹿乃は一晩中眠ることができなかった。
朝方、湊のスマートフォンが突然鳴った。
画面に表示されたのは「名取窈子」の名前。
鹿乃はそれを見ると、静かに手を伸ばし、湊を軽く揺さぶって起こし、画面を彼の目の前に差し出した。
寝ぼけまなこの湊は目を細めながら通話ボタンを押す。
ほんの数言を聞いたところで、彼は鹿乃の腰に回していた手をすっと離し、急いで起き上がった。
通話を終え、振り返った彼は、静かに声をかける。
「鹿乃、あのさ……」
「電気つけないで。行ってあげて」
暗闇の中、鹿乃の声はかすかで、感情の色もなかった。
湊は、彼女がもう怒っていないのだと勘違いし、短く「うん」とだけ言って立ち上がった。
玄関の扉に手をかける直前、なぜか胸騒ぎがして、彼はふと振り返り、ベッドの上で小さく丸まった鹿乃の姿を見つめる。
「鹿乃、すぐ戻るから。そしたらまた一緒にいような」
けれど――鹿乃はもう彼を必要としていなかった。
そして、彼が戻ってくるのを待つつもりもなかった。
湊の車が別荘を離れた音を耳にしてから、鹿乃はようやく電気をつけた。
起き上がり、いつものように着替えて洗面所へ向かい、顔を洗い、髪を整える。
全ての支度が終わる頃、母が部屋の外から呼びかける。
「鹿乃、朝ごはんできたわよ」
彼女は「うん」と返事し、階下へ向かう。
朝食を食べ終えたちょうどその時、神崎誠司が使用人たちに指示を出し、鹿乃のスーツケースを車に運ばせているのが目に入った。
最後の一つが運ばれようとしたとき、鹿乃はふと何かを思い出し、急いで片付け済みの部屋に戻る。
引き出しを開け、中から一枚の別れの手紙と、銀行カードを取り出した。
それらを、湊の部屋へとそっと置く。
彼が戻ってきたとき、最初に目に入る場所に。
――神崎湊、今度は、私の方からあなたを捨てるわ。
すべてを終えたその時、下から母のやさしい呼び声が響いた。
「鹿乃、急いで! 飛行機に間に合わなくなるわよ!」
「今行く!」
彼女はそう返事して階段を駆け下りた。
別荘の前には、すでに空港行きの車が待っていた。
鹿乃は両親に一人ずつ丁寧にお別れを告げ、車に乗り込む。
その後ろから、母の詰まった声が追いかけてくる。
「鹿乃、ちゃんと自分のこと、大事にするのよ」
「それから、ポケットに昔の
「夢を追いなさい。家のことは心配しないで」
鹿乃は窓を開け、目を赤くしながら何度も頷く。
見送る人影が見えなくなるまで、彼女はずっと後ろを見つめていた。
そして、前を向いたその瞳に、晴れやかな日差しが差し込んだ。
今日という日は晴天。
未来も、きっと明るい。
これからの人生も、きっと――。