扉を飛び出した瞬間、黒い車が猛スピードで近づいてきた。
鹿乃は即座にそれが白石悠真の車だと気づき、両手を振った。
車が止まるや否や、彼女は乗り込む。
「早く!走って!」
悠真は即座にアクセルを踏み込んだ。
後部ミラーをじっと見つめていた鹿乃は、追手の姿が見えないことに安堵する。
悠真は、ようやく落ち着きを取り戻した彼女に問いかけた。
「さっき俺に電話したのは誰だ?それと、なんでこんな場所に?」
だが、彼女が答える前に──
「プアアアアアン!」
甲高いクラクション音が背後から鳴り響いた。
鹿乃が反射的に後ろを振り返ると、そこには湊が乗った車が、凶気を帯びた速度で迫っていた。
彼女はあわてて前を向き、悠真に訴えかける。
「……後ろの車、振り切れる?」
悠真は車をさらに加速させる。
「……お前の
鹿乃は驚いたが、黙って頷いた。
すべてを悟った悠真は、再びアクセルを強く踏み込む。
しかし、後ろの車も躊躇いなく加速し、距離はどんどん縮まっていく。
20メートル、15メートル──
ミラー越しに見える湊の顔は、狂気そのものだった。
心臓が破裂しそうなほど高鳴る中、鹿乃は小声でつぶやいた。
「……悠真、車をいったん止ま──」
「って」の字が出る前に──
その声は、彼女の口に押し当てられた自分の手でかき消された。
──10メートルの距離。
そのとき、副座席にいた名取がパニックを起こし、突如としてハンドルを奪い取った。
車は制御を失い、ガードレールを突き破り──
そのまま海へと、真っ逆さまに落ちた。
ーー数日後
救助隊の迅速な対応で、名取窈子と神崎湊は命を取り留めた。
だが、二人とも植物状態のまま、集中治療室に収容された。
いつ目覚めるかは誰にも分からない。
事故の一部始終は、神崎湊のドライブレコーダーによって記録されていた。
この一件で、神崎家と名取家は完全に絶縁。
その間、鹿乃は一切コメントをしなかった。
人々は皆、彼女が事故による精神的ショックで言葉を失ったのだと思っていたが──
本当の理由を知る者は、彼女自身だけだった。
湊との過去を、一切語らないための沈黙。
彼女は知っていた。
──自分は、利己的な人間だ。
でも、それが何だというのか。
母にこれ以上、苦しみを背負わせたくなかった。ただ、それだけだった。
事故の真相など、今さら告げたところで何が変わるわけでもない。
二年後
鹿乃はロンドン大学を無事卒業した。
卒業式の日、依織は遠路はるばるイギリスまで駆けつけ、花束を手渡してくれた。
鹿乃は笑顔で受け取り、母と一緒に記念撮影を始めた。
カメラを構えるのは悠真。
彼は静かに、だが丁寧に、今この瞬間を一枚ずつ写真に収めていく。
カメラに向かって「ピース」を決める鹿乃の左手薬指には、きらめく指輪がはめられていた。
撮影が終わると、彼女は花束を抱えたまま悠真の元に近寄り、液晶画面をのぞき込む。
「……ねぇ、被写体は中央に配置って教えたでしょ。これ、ズレてるよ?」
「まだ習いたてなんだから、完璧さ求めないの。悠真くんもがんばってるんだし、ちょっとは我慢してあげて!」
「じゃあ、もう一枚撮ろっか?」
やわらかな陽の光が、三人の笑顔に差し込む。
それは、彼らの新しい日常の、ほんの始まりにすぎなかった──
ごく普通で、何気ない、でも幸せな一瞬。