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硝子の午後 ― 蒼き季節の残響
硝子の午後 ― 蒼き季節の残響
tanahiro2010
文芸・その他純文学
2025年06月03日
公開日
8,121字
完結済
東京の片隅に佇む古書店「雨読堂」は、思索に疲れた大学院生・志藤昴の静謐な避難所であった。ある雨の午後、謎めいた女性・詩織が現れ、亡くなった姉・伊原紅葉の名を口にする。紅葉は昴のかつての知人、宮永陸の恋人であり、二人は謎めいた過去とともに命を絶っていた。 詩織は姉が残した手記と、存在の痛みを綴った哲学的な言葉を携え、昴に真実の断片を求めて訪れる。ハイデガーの哲学書を手に、昴は過去の思索と向き合い、存在とは何か、他者の視線に映る自分の重みとは何かを問い直す。 やがて、忘れられた記憶と情感が硝子細工のように脆く、しかし鮮やかに蘇り、三人の織りなす複雑な感情の絡み合いが静かな雨の中で解き明かされてゆく――。

第1話

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# **硝子の午後 ― 蒼き季節の残響**


## 第一章:**静謐なる日々**


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 東京の片隅、中央線の終着駅からさらにバスで十五分。雨に濡れた坂を下り、古びた煉瓦塀の角を曲がると、小さな古書店がぽつんと建っている。


 その店には看板すらない。ただ、雨に滲んだガラス窓に金文字で「雨読堂」とだけ書かれている。


 志藤 昴(しどう すばる)がこの店に通うようになったのは、大学院での研究に疲れ果て、何かから逃げるように日々をやり過ごしていた頃だった。哲学を学んでいた彼にとって、「思索」それ自体が人生の目的であったはずだ。けれど、ある時を境に、言葉は意味を失い、思考は宙に浮かんだまま戻ってこなくなった。


 「雨読堂」は、そうした彼にとって、心を沈める“無言の聖域”だった。


 そこでは誰も昴に話しかけてこなかった。店主の老人は客の顔もろくに見ずに帳簿に目を落とし、わずかに鳴る柱時計の音だけが、時間の流れを告げていた。


 昴は黙々と本を整理し、埃を払い、棚の間に身を潜めるように過ごしていた。それでよかった。何も語らず、誰とも繋がらず、ただ過ぎ去る時間に身を委ねること。それが、昴にとっての“生存”の術だった。


---


 六月の午後、雨脚はいつもより少し強かった。細い路地を叩く雨音が、店の中にまで響いてくる。


 その日も変わらぬ静寂の中、扉が軋む音がした。


 ――カラン。


 鈴の音が、曇った硝子の空気を切り裂く。昴は軽く顔を上げ、扉の方を見た。


 そこに立っていたのは、黒いワンピースに薄い灰色のカーディガンを羽織った若い女性だった。濡れた前髪の隙間から、ひと対の静かな眼差しが覗いていた。深く、しかし決して他人を拒まない、不思議な目。


 昴は思った。


 ――どこかで、会ったことがあるような。


 それは、ただの既視感に過ぎなかったのかもしれない。だが、その目に映る微かな影が、昴の胸の奥にしまわれた記憶をかすかに撫でた。


 彼女は何も言わず、ゆっくりと棚の間を歩いた。本を手に取るわけでもなく、何かを探すわけでもなく、ただ、空気の匂いを確かめるように。


 やがて、彼女はレジの前に立ち、静かに口を開いた。


 「すみません。ここで、伊原 紅葉(いはら くれは)という名前に、見覚えはありませんか?」


 昴の手が止まった。


 その名前を、忘れたことは一度もなかった。


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## 第二章:**遺された手記**


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 「――伊原、紅葉?」


 昴は、口の中でそっとその名を転がした。懐かしさよりも、痛みの方が早く胸に押し寄せてくる。舌の裏に、微かな血の味がしたような気がした。


 彼女は頷いた。「はい。五年前に、亡くなりました。姉です」


 その一言が、店内の空気を一変させた。外の雨音が、まるで遠くの山あいから響いてくる雷鳴のように重く響く。


 昴は咄嗟に言葉を返せなかった。まるで彼女の口から出た名前が、過去という名の封印を無理矢理こじ開ける呪文だったかのように、胸の奥に沈んでいた古い記憶が溢れ出してきた。


 紅葉――伊原 紅葉。


 宮永 陸の、かつての恋人。そして……昴の、消し去ることのできない“過ち”の影。


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 応接室と呼ばれる、店の奥の小部屋。かつては読書会や詩の朗読が行われていたらしいが、今では使われることもなく、煤けたソファと丸い木のテーブルがあるだけの静かな空間。


 雨音を背に、昴と詩織は向かい合って座っていた。


 詩織は、トートバッグの中から一冊の古びたノートを取り出した。表紙は色褪せ、角はめくれ、長い時間をそのまま纏っている。


 「これは、姉が亡くなる少し前に書いていた手記です。遺品の中に紛れていたもので、家族は誰も気づいていませんでした。私だけが、こっそり持ってきたんです」


 彼女はノートのページを一枚だけ、昴に見せた。


 《記憶とは、静かに崩れ落ちる雪に似ている。気づけば姿を変え、形を失い、ただ冷たさだけが指先に残る。》


 手書きの文字は細く美しく、だがどこか心を切り裂くような静けさを孕んでいた。昴は、指先が冷たくなるのを感じた。


 「紅葉さんは……何を遺そうとしていたのですか?」


 問いながら、昴の声はかすかに震えていた。


 詩織は答えなかった。ただ、ゆっくりとノートを閉じた。


 「それを、知りたくて来たんです。あの人がどうして……そして、どうして“あの人”と一緒に、消えなければならなかったのか」


 昴は黙った。


 “あの人”。


 宮永 陸。


 その名前を詩織が知らないはずがない。姉・紅葉と、陸は同じ年に亡くなっている。ともに心を閉ざし、そして――命を絶った。


 詩織の視線が、昴の目を静かに射抜く。


 「あなたは、知っているんですよね。陸さんのこと。……姉のことも」


 昴は目を逸らした。机の上の染みを見つめながら、言葉を探した。


 けれど、どんな言葉も、赦しにはならない。


---


 夜の帳が静かに降り、古書店にはひときわ重い静寂が漂っていた。雨はなおも止まず、薄明の空を濡らし続けている。


 詩織は帰り際、ふと立ち止まって言った。


 「今日、ここに来たのは偶然ではありません。……姉が亡くなる前に、何度かこの店のことを書いていたから」


 昴の胸が、かすかにざわめいた。


 「“あの人がいた場所で、私は言葉を失った”――姉は、そう書いていたんです」


 その言葉に、昴は何かを思い出しかけた。記憶の中の、重い扉の隙間から差し込む微かな光。しかしまだ、それは輪郭を持たない。


 詩織は微笑んだ。それは悲しみに似た微笑みだった。


 「また来ます。……今度は、答えを聞かせてください。あなたが覚えている“ふたりの死”について」


 そう言って彼女は傘を開き、夜の雨の中へと消えていった。


 昴は扉の前に立ち尽くし、濡れた硝子越しに、彼女の背を見送った。


 記憶が、静かに疼いていた。


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## 第三章:**存在と時間**


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 翌日の午後、雨はなおも降り続いていた。だが、それは昨日とは違う、まるで透明な帳のような雨だった。すべての音を包み込み、時間そのものを静かに溶かしていくような――。


 昴は「雨読堂」の奥、応接室で一冊の書物を開いていた。ページの縁は黄ばんでおり、インクの文字はところどころ滲んでいた。


 ハイデガーの『存在と時間』。

 陸が生前、最も愛した哲学書だ。


 “死に至る存在としての人間”――その言葉が、昴の中に残酷なまでに響く。思索とは本来、存在の根源に向き合う営みである。だが、陸の死を前にして、昴は一体何を思索してきたのだろうか。何を“知らなかった”のだろうか。


 ドアが開く音がした。昴が顔を上げると、詩織が昨日と同じような淡い色の服を纏い、静かに部屋へと入ってきた。


 「……読んでいたんですね」


 彼女の視線は、昴の手元の書籍に向いていた。


 「ええ。陸が、好んで読んでいた本です。あなたの姉の手記にも、この本の名前が書かれていた……」


 詩織は頷き、席に腰を下ろした。


 「姉は、よく“存在とは、他者に照らされてこそ意味を持つものだ”って言っていました。……この本の中の言葉を、自分なりに解釈して、いつもノートに書きつけていた。まるで、自分自身が、世界の中で居場所を失わないようにって」


 昴はその言葉に、言いようのない痛みを覚えた。

 居場所――それは、誰かの視線の中にだけ宿るもの。


 「陸も……同じように言っていました。“他者の視線に映る僕”がいなければ、僕という存在はどこにもないのだと」


 しばしの沈黙のあと、詩織が一枚の紙片を差し出した。古びた便箋。筆跡は紅葉のものだと、彼女は言った。


 >「声にならない言葉が、この世界には溢れている。

 > だけど、誰かがそれを拾い上げてくれるなら――

 > 私は、ここに“いた”と言えるのだと思う」


 その一節を読んだ瞬間、昴の胸に、かつての記憶が鋭く蘇った。


---


 陸の部屋。


 文学と哲学の本に囲まれた、薄暗い一室で、陸は言った。


 「……昴、お前は僕を、まるで“記号”みたいに見てる」


 「記号?」


 昴は理解できなかった。理論としては知っていた。レヴィ=ストロース、ソシュール、記号論、主体と他者。だが、陸の目に宿っていたのは、学術的な問いではなかった。


 それは、“存在の叫び”だった。


 「僕という人間の“重さ”が、お前の目に映っていない気がするんだ。ただの思想実験の材料としてしか見てないんじゃないかって」


 昴は否定できなかった。


 その瞬間、言葉は彼を裏切った。理論も知識も、痛みに触れなければ意味を持たない。

 陸の瞳は空洞のように澄んでいて、その中には、何も映っていなかった。


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 現実へと意識が戻る。


 詩織は、昴の変化を見つめていた。


 「……私、ずっと思ってたんです。

  姉が言いたかった“存在の痛み”って、どういうことなんだろうって」


 彼女の声は、まるで雨音に溶け込むように静かだった。


 「誰かに認識されなければ、自分という存在が崩れていく気がする。そんな恐怖が、あの人の中には、あったのかもしれない」


 昴は頷いた。

 言葉にならない何かが、確かに心の底で同じように疼いていた。


 そして、ふたりの間に言葉がない時間が流れた。


 それは、静かな対話だった。

 音のない、記憶と魂の交感。


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 その日の別れ際、詩織はふと振り返って言った。


 「私、姉の“最後の言葉”を、まだあなたに見せていません」


 「最後の……?」


 「ええ。それは、この手記の一番最後のページに書かれていた言葉です」


 昴は頷いた。その言葉に触れる覚悟を、自らに問うように。


 「明日、お持ちしますね」


 そして彼女は傘をさし、また雨の帳の中へと消えていった。


 ――存在とは何か。

 その問いは、まるで静かな雨のように、昴の内側を濡らし続けていた。


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## 第四章:**硝子の記憶**


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 硝子のような記憶がある。


 触れれば砕け、けれど放っておけば、静かに胸を裂く――そんな、壊れそうで壊れきらない過去の断片。


 昴の夢に、宮永 陸の声があった。


 “存在とは、誰かに見つめ返されることだろう? でもな、昴……

  お前は俺を見なかった。ただ、観察していたんだ”


 その声に返す言葉は、いまでも見つからない。


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 時は、大学時代へと遡る。


 昴と陸が出会ったのは、哲学研究会の討論会だった。

 ハイデガーとカントについて議論していた昴の前に、陸は突如として現れ、こう言った。


 「難解すぎて、誰も読まないような本に命を賭けるって、すごく滑稽で、すごく美しいね」


 その言葉に、昴は興味を惹かれた。


 陸は文学部に籍を置きながら、詩を書いていた。どこか世俗から隔たれた空気を纏い、しかし孤独を感じさせない不思議な男だった。

 一緒にカフェに行き、深夜の研究室にこもり、本を読み、語り合い、酒を飲み、笑い合った。


 いつからか、彼らの間には言葉の壁すら必要としない、沈黙の共有があった。


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 そして、紅葉が現れる。


 陸が初めて詩の朗読会に連れてきた女性。

 長い黒髪に、翳りを帯びた瞳。

 言葉を選ぶように話すその姿は、まるで声そのものに体温があるかのようだった。


 紅葉は言った。


 「……言葉って、想いの“抜け殻”みたいですね。

  本当の感情は、書き終えた後に残っていないことの方が多い」


 昴はその瞬間、彼女が陸と似ていることに気づいた。

 彼女もまた、どこかこの世界に体を預けきれていない人間だった。


 陸と紅葉。ふたりの距離は、急速に近づいていった。


 しかしその一方で、昴の中には奇妙なざわつきが芽生えていた。

 ――自分は、ただ「彼らの美しさ」に酔っているだけなのではないか?


---


 ある雨の夜。


 陸のアパートで、三人は酒を飲んでいた。


 窓の外で雨が打ちつける音を聞きながら、紅葉は詩を朗読した。

 その声は、まるでこの世界とは別の次元から届いているようだった。


 「私の存在は、誰の眼差しにも映っていない。

  私が“ここにいる”という証明は、どこにもない」


 それは詩の一節だったが、昴には“告白”に聞こえた。


 陸は無言だった。ただ、煙草をふかし、目を伏せていた。


 昴が思わず言った。


 「……でも、人は、自分自身の言葉の中に、存在の証を残せるんじゃないですか?」


 紅葉は静かに笑った。


 「それは、他人に届いて、初めて意味を持つものじゃないですか?」


 彼女の言葉は昴を突き刺した。

 彼は“存在”を哲学的に語ってきた。だが、彼女は“存在できなさ”を、生の切実さとして抱えていた。


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 それから間もなくして――紅葉は姿を消し、

 そして、陸が遺した詩が昴の手元に届いた。


 その一篇の中で、陸はこう記していた。


 >「見つめることは、傷つけることだったのか。

 > お前がくれた言葉は、いつも正しく、だからこそ遠かった。

 > 僕の不在を、お前は理論で語るだろう。

 > でも、それで僕の“痛み”は残るんだよ、昴」


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 昴は応接室の古いソファに座り、静かに目を閉じた。


 記憶が、硝子のようにきらめきながら、今、彼の中で形を持ちはじめていた。


 それはただの回想ではなかった。


 それは、赦されなかった過去が、今なお“存在している”ことの証だった。


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 その夜、詩織から一通のメールが届いた。


> 「明日、姉の手記の最後のページをお見せします。

>  おそらく、そこにしかない答えがあると思うから」


 昴は、携帯を握りしめたまま、しばらく目を閉じていた。


 まるで、遠くから誰かの声が呼んでいるような、そんな静かな感覚だった。


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## 第五章:**午後の赦し**


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 それは、六月のある午後だった。


 窓の外では、雨が少しずつ弱まりはじめていた。

 しとしととした音が、まるで心のひだをなぞるように、静かに空気を満たしていた。


 「雨が、止みそうですね」


 詩織がそう言って微笑んだとき、昴はほんの少し、胸の奥が揺れた。

 彼女の声が、ようやく“現在”に馴染んだような気がしたのだ。


 二人は「雨読堂」の応接室にいた。

 今日、彼女は姉・紅葉の手記の“最後のページ”を携えてきた。


---


 封筒の中から取り出された一枚の紙。


 それは、薄く、どこか光を透かすような便箋だった。


 詩織はそれを、ゆっくりと昴の前に差し出した。


 「これが、姉の残した最後の言葉です。

  たぶん……それは、私にも、あなたにも、必要なものだと思うんです」


 昴は手紙を受け取り、深く息を吸った。


 そして、読み上げる。


---


> 「もしも私の声が、いつか誰かに届くのなら、

>  私は“存在していた”と、言えるのだと思う。

>

>  私は、誰かの眼差しの中で、確かに存在していたい。

>  たとえ、それが過去になったとしても――

>

>  記憶の中で語られ、

>  思い出され、

>  心のどこかで共鳴してくれるなら、

>

>  私はまだ、生きていける。

>

>  どうか、私を忘れないで。

>  どうか、私の言葉を……誰かの時間の中に、

>  置いていってほしいのです」


---


 読み終えた瞬間、昴はしばらく言葉を失っていた。


 だが、心の中では何かが静かに“融けて”いた。

 冷たく硬直していた罪悪感や羞恥、そして恐れ――

 それらが、ようやく柔らかくなりはじめたのを、彼は確かに感じていた。


 「……僕は、ずっと、見ていなかったんです。

  陸の痛みも、紅葉さんの叫びも……自分の哲学の中で処理していた。

  だから、失った後も、自分を“赦す”ことができなかった」


 そう呟く昴の手に、詩織はそっと、もう一つの便箋を差し出した。


 「それは、陸さんがあなたに宛てた詩です。

  ……姉の遺稿と一緒に、見つかったものなんです」


 昴の手が震える。


 ゆっくりと開くその詩には、確かに、陸の筆跡があった。


---


> 「記憶の岸辺で君を見た。

>  君は、言葉の奥に立っていた。

>

>  その瞳は静かで、遠くて、

>  けれど、僕を“見つけよう”としてくれていた。

>

>  それだけで、よかったのかもしれない。

>

>  僕がいなくなったあとでも、

>  君の言葉が、僕を思い出してくれるなら。

>

>  それは“赦し”だと思う。

>  生きていることの――、赦し」


---


 昴は詩を読み終え、目を閉じた。

 そして、深く、深く息を吐いた。


 まるで、心のどこかにあった氷が溶け出すような、静かな音が、体の内側に響いた。


 彼は言った。


 「……陸は、僕を“見ていた”んですね。

  最後の最後まで、言葉を通して。

  そして、僕に“赦し”を託してくれた」


 詩織は頷いた。


 「ええ。だから、あなたの言葉は、まだ生きている。

  それを、誰かが読む限り――」


 昴は彼女をまっすぐに見つめた。


 「君が、それを読んでくれるなら、僕は存在している。

  僕が語った言葉が、君の中に残るのなら……」


 その瞬間、ふたりの間に、もう沈黙はなかった。


---


 夕暮れが近づいていた。

 雨は完全に止み、午後の陽光が静かに差し込んでいた。


 詩織は立ち上がり、傘をたたみ、店の入り口で振り返った。


 「ありがとう、昴さん。姉も、陸さんも……あなたに出会えて、本当によかったと思っているはずです」


 「ありがとう、詩織さん。……君の言葉が、僕を救ってくれた」


 彼女は微笑んだ。


 そして、軽やかに去っていった。

 その背中は、もう過去に囚われていなかった。


---


 その夜、昴は書店の奥の机を整えた。

 そして、一冊のノートを取り出し、棚のすき間に静かに差し込んだ。


 その表紙には、こう記されていた。


 **『硝子の午後』――志藤 昴**


 その瞬間、新しい物語が、静かに始まった。


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## 最終章:**雨が止む音**


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 東京の空が、静かに晴れていた。


 長く降り続いた雨が止み、雲の切れ間から陽光がこぼれはじめる午後――

 まるで世界そのものが、一度大きく息を吐き、軽やかに姿を変えようとしているようだった。


 「雨読堂」の古びた木の扉が、静かに開く。


 詩織は、白いシャツに薄手のコートを羽織り、変わらぬ落ち着いた気配でそこに立っていた。

 しかし、昴はすぐに気づく。

 彼女の佇まいに、もはや「影」がないことに。


 「……今日で、最後ですね」


 彼女がそう言うと、昴は頷いた。


 「ええ。でも、“終わり”とは、次のページの始まりでもありますから」


 応接室のテーブルには、二人の前に、一冊の文集が置かれていた。

 それは、詩織と昴が共同で編集した小冊子。紅葉の手記、陸の詩、そして昴自身の綴った文章が綴られている。


 誰かに読まれることを、前提とした本。


 記憶が、言葉として“存在”を持ち、他者へと届くための、小さな舟。


---


 「読者は、きっと想像以上に優しいですよ」


 そう言ったのは詩織だった。

 彼女の声に、わずかに弾みがあった。


 昴は微笑み、静かに頷いた。


 「それでも、“読む”という行為には、責任があります。

  読むことは、誰かを“迎え入れる”ことだから」


 その言葉に、詩織はわずかに目を細め、窓の外に視線をやった。


 空には淡い青が広がり、まだ少し湿った風が、柔らかくカーテンを揺らしていた。


---


 「……姉が、最後に生きたかった午後って、

  もしかするとこんな時間だったのかもしれません」


 詩織のその言葉に、昴は小さく頷く。


 「そうですね。

  雨の終わり。静かな陽射し。過去と未来の狭間。

  それが、“赦し”の午後だったんでしょう」


 ふと、詩織は手にした冊子を開き、陸の詩の一節を声に出して読んだ。


>  「誰かに見つめられることを、

>   僕はずっと、怖れていた。

>   でもいまは、

>   君が目を逸らさずにいてくれたことを、

>   ただ静かに、感謝している」


 その声はもう、過去の誰かを追うものではなく、

 今この瞬間の自分自身を確かめるような、清らかな響きを持っていた。


---


 そして、別れのときが来る。


 詩織は扉の前で立ち止まり、昴を見つめる。


 「あなたの言葉は、これからも“生きていく”と思います。

  誰かに読まれ、記憶されて……やがて、誰かを救うこともあるかもしれない」


 昴はまっすぐに、彼女の瞳を見つめ返す。


 「もし君が、それを読んでくれるなら、

  僕はこれからも、存在し続けることができます」


 詩織は微笑む。かつての紅葉に似た笑みだった。けれどそこには、確かに詩織という“今”があった。


 「ええ。私は、読みます。

  あなたの言葉を、姉の言葉を。

  そして――これからの言葉も」


---


 扉が開き、午後の光が差し込む。

 雨の匂いを少しだけ残した風が、店内をゆるやかに撫でる。


 詩織がそのまま街の中に消えていく背中を、昴は長い間見送っていた。

 まるで、それが物語の“句読点”であるかのように。


---


 その夜、昴は一冊のノートを棚の奥に挟み込む。

 それは自らの想いを綴った新しい原稿だった。


 表紙には、こう記されている。


 **『硝子の午後』――志藤 昴**


 その言葉が、誰かに見つめられる日を夢見て。

 その記憶が、未来の午後へと続いていくことを願って――

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