そんな若者が、昼を少し過ぎたあたりで茶屋にふらりとやってくると、奥の婆さんに挨拶をして
「坊ちゃん、酒ってわけじゃあないだろう。茶で良いかね。芋餡で良けりゃ団子もあるし、腹が減っているなら握り飯でもこさえようか」
「ありがたい。長旅の途中で腹が鳴って、うるさくて仕方がないのです。熱い茶と、握り飯を三つばかりいただきたい」
三つも食うかい、と笑った婆さんが手際よく用意した握り飯をぺろりと平らげ、ほんの二切れの沢庵を齧り、茶を啜る。
「良い食べっぷりだ。坊ちゃんは良いおさむらいになるだろうね」
「申し訳ないけれど、誉めてもらっても、お代をはずむほど懐に余裕がないのですよ」
あっという間に空いた皿を片付けた婆さんに金を払い、茶のお替りを求める。
ほどなく、茶と一緒に、一粒の飴が出された。
「これは、黒飴ですか」
「近くの町の名物でね。孫が買ってきてくれたから、お裾分けさ」
「どうも、ありがたく頂戴します」
指先で少しばかり弄び、朱い唇で黒飴を受け止めた若者は「甘い」と顔を綻ばせた。
茶にも合う、ところころ笑う表情には、腰の刀に似合わぬほど幼さがある。
「近くの町で黒飴と言うと、もしかすると『千野屋』さんの飴ですか」
「あれまあ、知っていたのかい」
「少しばかり、耳にしただけですよ」
頬のふくらみが、左から右へとからから音を立てて移る。
「千野屋の黒飴は、一粒食べれば千粒食べてもまだ足りない、なんて」
どこの誰が考えたのか、下手な売り文句を何度か耳にしたのだ、と若者は笑っていた。
「でもまあ、確かに美味しいものですね」
「だよねぇ。でも、ちょっと跡継ぎがどうなるかって話になっているみたいでね。いつまでこの飴が食べられるやら……」
婆さんが言うには、黒飴屋の千野屋には一人娘しかおらず、店の職人か手代あたりの誰かが婿入りするものだと思われていたが、何故だか二本差しとの見合いがあり、近く祝言らしいとの噂だという。
「若侍の坊ちゃんに言うのもなんだけれど、おさむらいに商売ができるんだろうかって話でね」
「うぅむ。耳が痛いですね。貧しい旅路の者としては、特に」
「そういう坊ちゃんは、若い身空でどうして旅なんぞを。修行にしちゃあ、厳しすぎるんじゃないかい」
成人していないことを示す若衆髷を見て、婆さんは心配そうに眉をひそめた。
「いや、いや。修行というわけじゃありませんよ。色々ありまして、ちょいと件の町に行く必要がありまして」
「おや、遠くからのお使いかね。ほんなら、また帰りにも寄っておくれよ。大した物はないけれど、握り飯くらいならいくらでも作ってやろうさ」
「おお、ありがたい。ここから戻る道中はしばらく店も無いので、山道で腹が減って困るのです。いくつか握り飯を包んでいただけると助かります」
いいとも、と頷く婆さんは、ふと空を見上げた。
「町に用があるんだろう。坊ちゃん、ひと雨来そうだから急いで行くか、ここで少し雨宿りしていきなさればよろしい」
「ううむ。どうしましょうか。雨に打たれても構いはしませんし、なるべくなら急いで用を済ませたいところですね……おや」
ふと、何かに気付いた若者の顔から、するりと笑顔が抜けた。
「時に
「刀自さんなんて、こんな婆さんに。ええと、六尺くらいの偉丈夫で、顎の大きな人って話だよ。町の侍じゃなくて、どこからか流れて来たって話だけれど、どこの藩の人だか」
「六尺。それは大きい人ですね。例えば、あれくらいですか」
すい、と若者が細い指で指した先には黒染めの着流しに刀を帯びて、肩で風を切って歩く一人の男がいた。
町の方からやってくる男を見て、通行人はぎょっとして道を空ける。
その様子は堅気のふうではなく、やくざ者や後ろ暗い商いの用心棒にも見える。
無精髭が目立つ顔に、妙にぎらぎらとした目つきばかりが目立つ面付きで、何かを威嚇しているような怯えているようであった。
「あれま。いつの間に」
と、婆さんが気づいたときには、若者の姿は床几から消え、件の侍の前へと歩み出ていた。
若者と侍の間には、頭二つほどの差があり、見上げる若者は首が痛くなるほどであり、侍は不意に現れた若者を驚いた顔で見下ろしていた。
「失礼つかまつる。ひとつ、お尋ねしたいのですが」
涼やかな若者の声が、侍の耳に届いた。
互いの距離は、僅か二尺ほど。
「小童。何の用だ」
手を伸ばせば届く距離にまで、気づかれず詰めてきた若者を、侍は驚きを隠せない。
その驚愕は、若者が紡ぐ言葉で爆発的に膨れ上がった。
「名を確かめさせていただきたく。……宇野宗一郎さんですね」
「っ!」
若者の問いが終わるより早く、侍は腰の刀に手をかけた。
その動きは疾風の如く、やや腰を落としたかと思うと、左手で柄を押さえ、鯉口を切ると同時に、右手は柄にかかっていた。
だが、侍に許された動きはそこまでだった。
「なんと……」
侍は刀を抜くこと叶わず、若者の抜き打ちによる逆袈裟の一刀で斬られたのだ。
「不意打ちで失礼しますね。……もう、聞こえていませんか」
血だまりに倒れた時点で、宇野と呼ばれた侍は絶命している。
「宇野宗一郎さん。人を斬って脱藩。逃げた先で町娘を手籠めにして、挙句その家を乗っ取ろうとするとは。こうなるのも当然でしょうに」
懐紙で刀の血を拭い、若者はゆっくりと刀を鞘に納めた。
ぽつり、と雨が降り始めたかと思うと、あっという間に本降りとなる。
「あは、これは助かる。水場を探して血を洗う手間が省けますね」
若者は笑いながら振り返った。
「刀自さん。わたしの“用事”はたった今終わりました。雨が収まったら、帰路につきますので、弁当を頼めますか。そうだ。雨上がりを待つ間、芋餡の団子も食べてみたいですね」
「は、はぁ……」
目の前の出来事に頭がついていかず、気の抜けた返事をする茶屋の婆さんに、若者は「もう、お代は心配いりません」と告げる。
「用事を無事に果たしましたからね。帰ったら、残りの駄賃がもらえるのですよ。甘いものを食べて、疲れを癒す自分自身へのご褒美としましょう」
手拭で顔を拭いた若侍の笑顔に慄きながらも、婆さんはこの場でできる最も正しい判断をした。
手早く団子と茶を用意して、握り飯を包んで渡す。その約束を果たすため、抜けそうな腰に喝を入れて動き出す。
「そう急がずとも、番所からここまで距離がありますから、心配はいりませんよ」
先ほどまで愛らしいとすら感じた美形の微笑みが、今や婆さんにとってはどんな怪談の化け物よりも恐ろしかった。
おわり