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徒花、手折られ
徒花、手折られ
NIWA
恋愛現代恋愛
2025年06月04日
公開日
1.6万字
完結済
定年退職した夫と穏やかに暮らす元教師の茜のもとへ、高校生の孫・翔太が頻繁に訪れるようになる。母親との関係に悩む翔太にとって祖母の家は唯一の避難所だったが、やがてその想いは禁断の恋愛感情へと変化していく。年齢差も血縁も超えた異常な執着に戸惑いながらも、必要とされる喜びから完全に拒絶できない茜。家族を巻き込んだ狂気の愛は、二人の人生を静かに蝕んでいく。

第1話 梅雨入り前

 ◆


 朝露が庭の紫陽花を濡らしていた。


 茜は縁側で煎茶を啜る。


 六十二歳。


 昨年定年退職した夫との二人暮らしは、穏やかだが物足りない。


 隣の部屋でテレビの音がする。


 株価と政治のニュース。


 退職後も世間を追い続ける夫を横目に、茜は庭を眺めた。


 白いサツキが満開だ。


 去年植えた山茶花も根付いた。


 手入れの行き届いた庭が、茜の性格を映し出す。


 玄関のチャイムが鳴った。


 九時前。


 宅配便には早い。


「はい」


 インターホンに聞き慣れた声が返ってきた。


「おばあちゃん、俺」


 孫の翔太だった。


 高校二年生。


 娘の亜希子の一人息子だ。


 最近、訪問が増えている。


「翔ちゃん、今日は学校は?」


「午後から。ちょっと寄っただけ」


 玄関を開けると、紺色の制服姿の翔太が立っていた。


 身長は百七十五センチを超える。


 顔は亜希子に似て整っているが、陰がある。


「上がって」


「お邪魔します」


 翔太は疲れた笑みを浮かべた。


 制服は乱れ、ネクタイが緩んでいる。


 髪も跳ねていた。


 茜は何も言わず台所へ向かった。


「何か食べる?」


「いい」


「遠慮しないで。トーストくらいなら」


「じゃあ……お願いします」


 食パンをトースターに入れる。


 バターとイチゴジャムを用意した。


 コーヒーではなく、牛乳を温める。


 翔太はまだ子供だ。


 リビングに戻ると、翔太はソファに沈み込んでいた。


 目を閉じて小さく息をついている。


「疲れてるの?」


「ちょっと」


 短い返答に何かが滲む。


 トーストが焼けた。


 茜は盆に載せて運んだ。


 翔太は小さく礼を言った。


「お母さんとまた何かあったの?」


 翔太の手が止まった。


 トーストを口に運ぶ動作が中断される。


「……別に」


 図星だった。


 亜希子は厳格な教育ママだ。


 成績も習い事も交友関係も、すべてを管理する。


 愛情は確かだが、息苦しい。


 茜は娘の教育方針に眉をひそめてきた。


「無理しなくていいのよ」


「してない」


「そう?」


 茜は追及しなかった。


 翔太が話したくなれば話すだろう。


 翔太は黙々と食べ終えた。


 牛乳を飲み干す。


「ここは落ち着く」


 その言葉に茜は複雑な感情を覚えた。


 嬉しさと不安。


 十七歳の少年が祖母の家を避難所にしている。


 それは健全なのか。


「いつでも来ていいわよ」


 結局、茜はそう言った。


 孫の寂しげな表情を見ると、他に言葉が見つからなかったのだ。


 ◆


 夕方、亜希子から電話があった。


「お母さん、翔太がそちらにお邪魔してません?」


「今朝来たわよ。もう帰ったけど」


「また? 本当に迷惑かけてすみません」


 亜希子の声に苛立ちが滲む。


「迷惑なんかじゃないわ。でも、あの子大丈夫?」


「大丈夫じゃないです。今日も塾サボったみたいで」


 茜は眉をひそめた。


 午後から学校は嘘だったのか。


「最近反抗的で。成績も下がってきて。来年は受験なのに」


 亜希子の愚痴が続く。


 茜は黙って聞いた。


 娘の焦りは理解できる。


 しかし、その焦りが翔太を追い詰めている。


「あまり追い詰めない方が……」


「お母さんは甘いのよ。だから私がしっかりしないと」


「でも」


「翔太には期待してるんです。いい大学に入って、いい会社に就職して。それが幸せへの道でしょう?」


 亜希子の価値観は昭和のままだ。


 茜は溜息をついた。


「幸せの形は人それぞれよ」


「綺麗事です。学歴がなければ選択肢が狭まる。それは事実でしょう」


 会話は平行線で終わった。


 茜は窓の外を見つめる。


 夕焼けが西空を赤く染めていた。


 美しいが、不穏な色だ。


 夜、夫と夕食を取りながら翔太の話をした。


「そうか、翔太も大変だな」


 夫の口調はあっさりしている。


「もう少し心配してあげたら?」


「心配してるさ。でも、親子の問題に口出しはできんだろう」


「そうだけど」


 夫は新聞を読みながら味噌汁を啜る。


 いつもこうだ。


 家族の問題にも距離を置く。


 食後、茜は一人で皿を洗った。


 翔太は明日も来るだろうか。


 来週も、来月も。


 この関係はいつまで続くのか。


 流しの水音が静かに響いた。


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