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朝露が庭の紫陽花を濡らしていた。
茜は縁側で煎茶を啜る。
六十二歳。
昨年定年退職した夫との二人暮らしは、穏やかだが物足りない。
隣の部屋でテレビの音がする。
株価と政治のニュース。
退職後も世間を追い続ける夫を横目に、茜は庭を眺めた。
白いサツキが満開だ。
去年植えた山茶花も根付いた。
手入れの行き届いた庭が、茜の性格を映し出す。
玄関のチャイムが鳴った。
九時前。
宅配便には早い。
「はい」
インターホンに聞き慣れた声が返ってきた。
「おばあちゃん、俺」
孫の翔太だった。
高校二年生。
娘の亜希子の一人息子だ。
最近、訪問が増えている。
「翔ちゃん、今日は学校は?」
「午後から。ちょっと寄っただけ」
玄関を開けると、紺色の制服姿の翔太が立っていた。
身長は百七十五センチを超える。
顔は亜希子に似て整っているが、陰がある。
「上がって」
「お邪魔します」
翔太は疲れた笑みを浮かべた。
制服は乱れ、ネクタイが緩んでいる。
髪も跳ねていた。
茜は何も言わず台所へ向かった。
「何か食べる?」
「いい」
「遠慮しないで。トーストくらいなら」
「じゃあ……お願いします」
食パンをトースターに入れる。
バターとイチゴジャムを用意した。
コーヒーではなく、牛乳を温める。
翔太はまだ子供だ。
リビングに戻ると、翔太はソファに沈み込んでいた。
目を閉じて小さく息をついている。
「疲れてるの?」
「ちょっと」
短い返答に何かが滲む。
トーストが焼けた。
茜は盆に載せて運んだ。
翔太は小さく礼を言った。
「お母さんとまた何かあったの?」
翔太の手が止まった。
トーストを口に運ぶ動作が中断される。
「……別に」
図星だった。
亜希子は厳格な教育ママだ。
成績も習い事も交友関係も、すべてを管理する。
愛情は確かだが、息苦しい。
茜は娘の教育方針に眉をひそめてきた。
「無理しなくていいのよ」
「してない」
「そう?」
茜は追及しなかった。
翔太が話したくなれば話すだろう。
翔太は黙々と食べ終えた。
牛乳を飲み干す。
「ここは落ち着く」
その言葉に茜は複雑な感情を覚えた。
嬉しさと不安。
十七歳の少年が祖母の家を避難所にしている。
それは健全なのか。
「いつでも来ていいわよ」
結局、茜はそう言った。
孫の寂しげな表情を見ると、他に言葉が見つからなかったのだ。
◆
夕方、亜希子から電話があった。
「お母さん、翔太がそちらにお邪魔してません?」
「今朝来たわよ。もう帰ったけど」
「また? 本当に迷惑かけてすみません」
亜希子の声に苛立ちが滲む。
「迷惑なんかじゃないわ。でも、あの子大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。今日も塾サボったみたいで」
茜は眉をひそめた。
午後から学校は嘘だったのか。
「最近反抗的で。成績も下がってきて。来年は受験なのに」
亜希子の愚痴が続く。
茜は黙って聞いた。
娘の焦りは理解できる。
しかし、その焦りが翔太を追い詰めている。
「あまり追い詰めない方が……」
「お母さんは甘いのよ。だから私がしっかりしないと」
「でも」
「翔太には期待してるんです。いい大学に入って、いい会社に就職して。それが幸せへの道でしょう?」
亜希子の価値観は昭和のままだ。
茜は溜息をついた。
「幸せの形は人それぞれよ」
「綺麗事です。学歴がなければ選択肢が狭まる。それは事実でしょう」
会話は平行線で終わった。
茜は窓の外を見つめる。
夕焼けが西空を赤く染めていた。
美しいが、不穏な色だ。
夜、夫と夕食を取りながら翔太の話をした。
「そうか、翔太も大変だな」
夫の口調はあっさりしている。
「もう少し心配してあげたら?」
「心配してるさ。でも、親子の問題に口出しはできんだろう」
「そうだけど」
夫は新聞を読みながら味噌汁を啜る。
いつもこうだ。
家族の問題にも距離を置く。
食後、茜は一人で皿を洗った。
翔太は明日も来るだろうか。
来週も、来月も。
この関係はいつまで続くのか。
流しの水音が静かに響いた。