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第18話 徒花、手折られ

夏が来た。


蝉の声が響く中、茜は一人で過ごしていた。


翔太からの手紙は途絶えた。


亜希子からの連絡もない。


まるで、すべてが夢だったかのように。


しかし、仏壇の引き出しに仕舞われた手紙たちが、それが現実だったことを物語っている。


ある日、亜希子から電話があった。


「お母さん、翔太が……」


声が震えている。


「どうしたの?」


「退院したんです。症状が改善したって」


茜の心臓が跳ねた。


「でも、行方不明なんです」


「え?」


「昨日から。置き手紙があって」


亜希子は泣いていた。


「何て書いてあったの?」


「『心配しないで。自分の道を行く』って」


茜は直感した。


翔太は来る。


必ずここに来る。


案の定、その夜、翔太から電話があった。


「おばあちゃん」


「翔ちゃん、どこにいるの?」


「遠くない場所」


「家に帰りなさい」


「もう帰らない」


翔太の声は落ち着いていた。


以前のような狂気じみた響きはない。


「これから、どうするの?」


「もう退学した」


翔太があっさりと言った。


「えっ?」


「十八になったから、自分で手続きした」


茜は驚いた。


今は十八で成人なのか。


「親は知ってるの?」


「事後報告」


翔太の声に寂しさが滲む。


「働きながら、高卒認定試験を受ける」


「おばあちゃん、俺、まだ諦めてない」


茜は息を呑んだ。


「でも、今すぐじゃない。俺はまだ子供だから」


翔太は続けた。


「でも、いつか必ず、大人になって迎えに行く」


「翔ちゃん……」


「それまで、元気でいて。ずっと綺麗でいて」


電話は切れた。


茜は受話器を握ったまま、立ち尽くした。


窓の外を見ると、夏の夕焼けが空を染めていた。


美しく、切ない色。


翔太がどこにいるのか、何をしているのか。


それは分からない。


ただ、彼の執着が、愛が、茜の中に深い爪痕を残したことは確かだった。


恐怖と、罪悪感と、そして──


認めたくない、ほの暗い悦び。


必要とされ、求められ、愛されることへの陶酔。


それは毒のように、茜の心を蝕んでいく。


手紙を読み返しながら、茜は小さく呟いた。


「翔ちゃん……」


その声は、誰にも聞こえなかった。


夏の夜は、ただ静かに更けていった。


茜は六十二歳。


翔太は五月に十八歳になった。


成人としての第一歩が、高校中退だった。


いつか、という言葉が、呪いのように茜の胸に残った。


恐ろしくも、甘美な呪い。


それを完全に拒絶できない自分がいることを、茜は知っていた。


庭では蛍が舞っていた。


儚く、美しい光。


まるで、この異常な関係を象徴するかのように。


茜は縁側に座り、蛍を見つめた。


涙が頬を伝う。


それが悲しみの涙なのか、別の感情の涙なのか。


自分でも分からなかった。


ただ確かなのは、この記憶が生涯消えることはないということ。


翔太の愛が、狂気が、執着が。


すべてが茜の中で生き続ける。


罪深くも、逃れられない記憶として。


(完)

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