夏が来た。
蝉の声が響く中、茜は一人で過ごしていた。
翔太からの手紙は途絶えた。
亜希子からの連絡もない。
まるで、すべてが夢だったかのように。
しかし、仏壇の引き出しに仕舞われた手紙たちが、それが現実だったことを物語っている。
ある日、亜希子から電話があった。
「お母さん、翔太が……」
声が震えている。
「どうしたの?」
「退院したんです。症状が改善したって」
茜の心臓が跳ねた。
「でも、行方不明なんです」
「え?」
「昨日から。置き手紙があって」
亜希子は泣いていた。
「何て書いてあったの?」
「『心配しないで。自分の道を行く』って」
茜は直感した。
翔太は来る。
必ずここに来る。
案の定、その夜、翔太から電話があった。
「おばあちゃん」
「翔ちゃん、どこにいるの?」
「遠くない場所」
「家に帰りなさい」
「もう帰らない」
翔太の声は落ち着いていた。
以前のような狂気じみた響きはない。
「これから、どうするの?」
「もう退学した」
翔太があっさりと言った。
「えっ?」
「十八になったから、自分で手続きした」
茜は驚いた。
今は十八で成人なのか。
「親は知ってるの?」
「事後報告」
翔太の声に寂しさが滲む。
「働きながら、高卒認定試験を受ける」
「おばあちゃん、俺、まだ諦めてない」
茜は息を呑んだ。
「でも、今すぐじゃない。俺はまだ子供だから」
翔太は続けた。
「でも、いつか必ず、大人になって迎えに行く」
「翔ちゃん……」
「それまで、元気でいて。ずっと綺麗でいて」
電話は切れた。
茜は受話器を握ったまま、立ち尽くした。
窓の外を見ると、夏の夕焼けが空を染めていた。
美しく、切ない色。
翔太がどこにいるのか、何をしているのか。
それは分からない。
ただ、彼の執着が、愛が、茜の中に深い爪痕を残したことは確かだった。
恐怖と、罪悪感と、そして──
認めたくない、ほの暗い悦び。
必要とされ、求められ、愛されることへの陶酔。
それは毒のように、茜の心を蝕んでいく。
手紙を読み返しながら、茜は小さく呟いた。
「翔ちゃん……」
その声は、誰にも聞こえなかった。
夏の夜は、ただ静かに更けていった。
茜は六十二歳。
翔太は五月に十八歳になった。
成人としての第一歩が、高校中退だった。
いつか、という言葉が、呪いのように茜の胸に残った。
恐ろしくも、甘美な呪い。
それを完全に拒絶できない自分がいることを、茜は知っていた。
庭では蛍が舞っていた。
儚く、美しい光。
まるで、この異常な関係を象徴するかのように。
茜は縁側に座り、蛍を見つめた。
涙が頬を伝う。
それが悲しみの涙なのか、別の感情の涙なのか。
自分でも分からなかった。
ただ確かなのは、この記憶が生涯消えることはないということ。
翔太の愛が、狂気が、執着が。
すべてが茜の中で生き続ける。
罪深くも、逃れられない記憶として。
(完)