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Primo d'Aprile
Primo d'Aprile
皐月紫音
異世界恋愛ロマファン
2025年06月04日
公開日
1.3万字
完結済
ルーラ王国王都【レンハイム】 そこには一人の奇術師が居た。 彼の名前はロレンツォ。 音楽院を中退して奇術の道を志すも、できることと言えば帽子から鳩を出したり、コインを移動させたりと多くの人が見飽きたようなものだった。 ある夜、彼は街を散歩してる中で庭園でピアノを演奏する美しい女性を見つける。 女性が弾く曲はルカトーニのピアノソナタ第十一番別名——〝月夜の悪魔〟

序奏


 ルーラ王国王都【レンハイム】


 〝音楽の都〟とも名高い、この地には、多くの大望を胸に抱く若者が集まった。


 芸術的才能――とりわけ、音楽家の庇護に熱心なこの国では、腕さえ認められれば、ありふれた身分のものであろうとも、上流階級同様の扱いを受けることができる。


 当然ながら、その中で機会チャンスを手にする者は、ごく一握りだが、彼らの存在が世の人々が思い浮かべる、〝レンハイムらしい景色Una scena proprio da Renheim〟を形作る一助となっていることは、疑いようのない事実だ。


 王都南西部は、まさに音楽文化の醸造所となっていた。


 劇場音楽家が多く暮らすほか、各地渡り歩いてきた若き才人が、入れ替わり立ち替わり訪れては、人知れず去ってゆく。


 一日を通して、極彩色の旋律が奏でられ、自由奔放な恋人とのひとときに花を添え、一家言あるつもりの批評家たちの自尊心をくすぐってみせる。


 街の南西部の中心に位置する一つの劇場チアートロ

 光の射さない舞台袖には、一人の青年が控えていた。


 男が耳をませば、耳朶じだを打つのは荘厳そうごんかなでられる演奏エゼグィーレ蒼穹そうきゅうさえも貫き、割らんばかりの詠唱アリア――。


 今、客席は声を出すことは叶わなくとも、大粒の涙を流し、この瞬間、ここに存在することを神に感謝する観客で、あふれかえっているだろう。


 彼は曇空のような灰色アッシュグレーの瞳を閉じると、両手を指揮者のように大仰に振るってみせる。


 肩先まで襟足が伸ばされた赤銅色の髪が、宝石のような汗とともに宙を舞い、きめ細やかな白い肌は、熱を帯びて徐々にあかみが差してゆく。


 音を支配するわけでもなければ、追従ついじゅうするわけでもない。


 彼にとって音は、ともに楽しみ、喜び、悲しみ、泣き、そして踊る〝恋人アモーレ〟だった。



――「座長、お時間です」



 〝コトン〟と、グラスに氷が落とされたかのように響いた声に男――ロレンツォの思考は、一瞬で鮮明クリアに研ぎ澄まされる。


 もう少し、この特別な時間にひたっていたかったが、そう悠長なことも言ってはいられない。


 次は、こちらが観客をせなければならない――。


「あぁ、わかった」


 彼は、酒場の女性から人好きのすると評判の微笑みを、口元に浮かべてみせると、壁に掛けてあったステッキを手に取った。


「お待ちください、服が乱れています」


 目前で、せっせと燕尾服フラックのタイを締めている女性は、つい先日、二十歳はたちになったばかりだ。


 自分と四つしか変わらない彼女に、今やすっかりと世話になってしまっている。


 彼女は最後にマントのシワを確認すると、満足げな表情を浮かべた。


「座長、貴方に神の祝福があらんことをディオ・ヴィ・ベネディカ


 彼は帽子シルクハットのツバを押さえ、頭をわずかに下げて感謝の意を示した。


 それと同時に、真紅ワインレッド緞帳どんちょうが、ゆるやかに開き始める。


 ジレから白銀の懐中時計を取り出してふたを開くと、そこには彼に瓜二つの紳士と、美しい女性が肩を寄せ合い、幸せそうな微笑みを浮かべていた。


「さぁ、行こうか。奇術トルゥーコ魔法マジーアを超える!!」


◆◇◆◇


「ひっく、あぁ……? なんだ! 男じゃねぇか! 綺麗な女の奇術師は、いねぇのか!?」


「ママ、見て! 小鳥さんだよー!」


「こら! 待ちなさい! もうショーが始まってるのよ〜」


 舞台ステージへと颯爽と登場した彼を出迎えたのは、数人の酔っ払いと、舞台に視線すらも向けずに騒ぐ子供達。

 そして、それを大声でしかる親だけだった。


 帽子からはとが飛び出そうとも、コインが移動しようとも、客席が盛り上がることはなく、彼の舞台は静かに幕を閉じる。


 無名で、腕も至って平凡。

 そんな奇術師の舞台を観に来る者など、ほとんど居ないのだ。


◆◇◆◇


 劇場の外――。


 喧騒とともに隣の劇場――ベルコーレ座の扉から興奮の冷めぬ観客達が出てきた。


 ルーラ王国王都【レンハイム】で最たる伝統を持つ劇場から、目と鼻の先にある地震が来れば、一瞬ののちに倒壊しそうな劇場――それが、ロレンツォがオーナーを務めるラツィオ座だ。



――「まだ、こんなことをしているの?」



 どこか、研ぎ澄まされたつるぎのような印象を受ける冷たい声に振り向けば、青藍色の髪と同色の鋭い双眸が魅惑的な女性が立っていた。


「ビーチェ、君か」


 ベアトリーチェ・グラツィアーニ。


 ベルコーレ座を拠点とする〝国王歌劇団〟の歌姫であり、ロレンツォが中退した音楽院の同級生だ。


 先ほどの詠唱アリアで、観客を熱狂のうずへと巻き込んでいたのも彼女だ。


 彼女は腕を組み、ラツィオ座を一瞥したのちに、唇から冷たい息を吐き出した。


「ロロ、考えなおしなさい。あなたには才能があるわ。今からでも音楽の道に戻るべきよ」


「今は、これ奇術が僕の道だよ。この劇場を、いつか世界の奇術師が集まり、多くの人を笑顔にする場にしてみせる」


「ロロ……」


 彼女らしくもなく、声音は精気を感じさせず、ロロの勘違いでないのならば、それは淋しげな響きを含んでいた。


 その秀眉も今は、わずかに下がり、瞳には憂いの色が滲んでいるように思える。


 ロレンツォは、彼女が心根の善良な得難い友人であることを理解していた。


 同時に一人の音楽に携わっていた者としては、彼女には深い敬意も抱いている。


 今も変わらず気にかけてくれる旧友に心中で感謝しつつ、彼女の友情に報いるには、喜ばしい報告をするほかないと思えた。


「今日の歌、素晴らしかった。次の公演は、僕も見に行かせてもらおう」


 帽子シルクハットのツバにそっと手を添え、小さく会釈をすると彼は、その場を立ち去る。


「ロロ、待って――!」


 足を止め、振り返った彼の灰色アッシュグレーの双眸には、いつも彼が自然と湛えている柔和さは、もはや見られなかった。


 その瞳に秘められた何かを感じ取ったのか、ベアトリーチェは左手を腰に当て、諦観を滲ませた苦笑を浮かべる。


 小さな嘆息とともに、「仕方ないわねケ・ヴォーレ……」という彼女の口癖が、聞こえた気がした。


「今日はエイプリルフール――この国風に言うとPrimo d'Aprileプリーモ・ダプリーレよ。嘘が許され、嘘みたいな奇跡でも起きる日」


「後者は、のサヴォイア伯爵が、月夜の妖精エリアーデと恋に落ち、連れ去られたという伝説からだったか」


「えぇ、魔法や御伽話おとぎばなしよりも、手品に夢中なあなたには無縁かもだけどね。素敵なエイプリルフールをヴォン・プリーモ・ダプリーレ


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