ハンの街、東の外れ。
露天商たちが様々な物資を売り買いする広場から、さらに離れた住宅街――その端の端にある小さな家を、ソラは訪ねていた。
人一人が暮らすのに丁度いい程度であり、二人が住むとなれば手狭になる、そんな家である。明日に生きているかも知れない、結婚するつもりもない冒険者がよく使っている集合住宅の一つだ。
「久しぶりだな、ソラ」
「ご無沙汰しております」
そんな家の中央で、座って過ごしていた老人へとソラは頭を下げる。
男性としては決して大きいわけではないソラよりも、さらに拳一つ分は小さな老人である。その体も枯れ木のように細く、顔に走っている皺はその重ねてきた年齢を示すものだ。しかしその眼光は鋭く、まるで値踏みするようにソラを見据える。
この男こそ、ソラの師――ハンの街では最も高名な魔物売り、ゾリューである。
「おう……なんだ、一人か?」
「ええ」
「なんでぇ。レイオットの奴から、お前が随分と別嬪な弟子をとったって聞いたからよ。儂に紹介するつもりで来たのかと思ったぜ」
「はは……それは、また今度でお願いします」
あーあ、と顔をしかめるゾリュー。
ソラはそんなゾリューの言葉に、苦笑を浮かべることしかできない。
「んで、何しに来たんだソラ坊」
「スレイプニルの件について、一応報告にと」
「律儀な奴だな。風の噂では、一応聞いてんぜ。お前に頼んだ副将軍が、そのまま将軍になったんだろ?」
「まぁ、そうですね」
ゾリューの言葉に、ソラは頷く。
先日、将軍の叙任式へと招待されたソラは、リンを連れて王都まで来ていた。その頃に、ようやくソラの左腕も自由に動くようになった。
そしてスレイプニルに跨がり、王都の中央通りを部下を率いて歩くガルフォードの姿を見て、拍手を送った。
勿論そこに、旅費、滞在費全てを担ってくれた感謝も込めて。
「もう片方の副将軍は、かなりの重傷を負ったそうですよ」
「ほう」
「そちらは、『黒牙団』にスレイプニルの捕獲を依頼して、納品されたそうです。ですが、どんな手段を用いてもスレイプニルは従わず、結局大暴れして逃げ出したそうで。その際、副将軍も重傷を負ったとか」
「そりゃ、従うわけねぇわな。あんな連中に頼んだのが運の尽きだ」
かはは、とゾリューは笑う。
そしてソラは呆れたように、そんな師を見て溜息を吐いた。
「師匠……最初から分かっていたんですよね?」
「ん? 何をだ?」
「僕がスレイプニルを懾伏できるはずがない、って」
「当たり前だろうが。儂が今まで、従えたことのない唯一の騎魔だぞ。お前みてぇな半人前が懾伏できるわけねぇだろ」
王国でも唯一存在する、騎魔のドラゴン――それを懾伏したのは、ソラの師である魔物売りゾリュー。
合計で十六種類存在する騎魔のうち、ゾリューが従えたことのない騎魔はただ一つ、スレイプニルのみなのだ。
「最初に会ったときから、変だとは思っていたんですよ。スレイプニルは僕たちの目の前に現れたというのに、こちらを攻撃してくる素振りもありませんでした。普通だったら、有無を言わさずに電撃を放ってくるところを、まるで待ち構えていたみたいに」
「んだな。普段のスレイプニルは、ただの魔物と変わりねぇ。レイオットも何度か狩ったことがあんな」
「血の臭いも充満していて、間違いなく興奮しているはずなのに、沈静の香を使う必要もありませんでした。むしろ依頼者の姿を見て、じっとおとなしくしていたくらいです」
「んじゃ、ソラ坊の推理を教えてもらおうか」
くくっ、と笑みを浮かべるゾリュー。
この人はいつもこうだ――そう呆れながらも、ソラは続けた。
「恐らくですがスレイプニルは、自分の従うべき相手を理解しているのだと思います」
「ほう」
「理由は分かりません。ですが、僕の目の前に現れたスレイプニルは、間違いなくガルフォードさん……依頼者のことを、主人だと認識していました。僕が拘束しなくても、最初からガルフォードさんに従うつもりだったのだと思います」
「まぁ、そうだな。いい勉強になっただろ?」
くひひ、と可笑しそうに笑うゾリュー。
大事なことは二度でも三度でも繰り返し言ってくれる師ではあるが、自分が見つけるべき答えは自分で探さねばならない――そんな考えも持っている。だからこそ、ソラもこのスレイプニル捕獲を師からの試練だと考えたわけだが。
「スレイプニルは、てめぇの選んだ主人に絶対の忠誠を尽くす魔物だ。その選ぶ基準までは分からねぇが、必要なのは強さだとも言われている」
「……強さ、ですか」
「ああ。強ぇ奴を相手に頭を垂れ、首を差し出す。まるでここで殺されても構わない、って言うみてぇにな。ただし、てめぇが認めねぇ相手には何があろうと服従しねぇ。儂も人間に従うスレイプニルを見たのは、前将軍のときだけだ。ありゃ、てめぇの無力を感じて仕方なかったぜ」
「師匠がそう言っていた、理由がよく分かりましたよ」
はぁ、と溜息を吐くソラ。
そんなソラに対して、けらけらと笑うゾリュー。
「だが、一匹目で済んだとはソラ坊は運がいいぜ。儂は前将軍にスレイプニルを従えさせるのに、三匹目までかかったんだからな。一匹目と二匹目は、どんだけ懾伏させようとしても全く従わなかった」
「そうだったんですか」
「経費ばっか掛かっちまったよ、あんときは。ま、いい勉強にはなったがな。二度とスレイプニルなんざ相手にしねぇ、ってよ」
「なるほど」
ソラは、そこでジト目でゾリューを見る。
「だから、ガルフォードさんにあんな嘘を吐いたんですか」
「さて、覚えがねぇな」
「誰が引退してんですか、師匠。今も現役で下層まで潜ってるくせに」
当代最強の魔物売り、ゾリュー。
七十になった現在も、彼は現役で魔物を捕らえ、売っている。カルロスの店に並ぶペガサスやルクなどは、大抵ゾリューから仕入れているそうだ。
「まぁ、若ぇ頃からこの仕事してっからな。今更隠居しようとは思わねぇよ。儂が死ぬのは、大迷宮の中だ」
「まだ当分、死にそうにない気はしますが」
「だから儂が死ぬ前に、ソラ坊の子供でも見せに来な。ソラ坊の子なら、儂の孫みてぇなもんだ。儂が一から魔物売りを仕込んでやるよ」
「今のところ、その予定はありません」
ゾリューのからかうような言葉に、ソラは嘆息交じりに答える。
事実、ソラとて明日を知れない身だ。結婚をする予定も、子供を作る予定も、今のところはない。
だが、ゾリューはにやにやと笑みを浮かべてソラを見た。
「へぇ。別嬪の弟子と、一つ屋根の下で暮らしてるって話だがよ」
「……リンに住むところがないから、貸しているだけです」
「ま、そういうことにしといてやらぁ」
まだソラが子供の頃、ソラを拾って全ての技術を仕込んでくれた師。
だが、こういう部分は苦手だ――そう思いながら、ソラは苦笑だけで返した。