ルナ・モンディアルが父の書斎に呼ばれたのは、冷たい冬の風が窓を打ちつけるある日の夕刻だった。重厚な扉を開くと、古いカーペットに足を踏み入れる音だけがひどく大きく響く。その音に気づいた父、カスパール・モンディアル伯爵は、書きかけの書類から顔を上げた。焦げ茶の髪に仏頂面をたたえた父の姿は、いつもよりずっと疲れているように見える。
「ルナ……入れ」
そう言われてからが、妙に長く感じる一歩だった。幼い頃は父に抱き上げられて笑っていた記憶もあるが、近年では仕事の不振や対外的な苦労からか、すっかり冷えきった関係になっている。それでも父は父であり、ルナは伯爵家の娘として、彼の言葉に従わねばならない。
書斎の中は薄暗く、窓際に並ぶ書棚には埃をかぶった本が無造作に詰め込まれていた。古めかしい革張りの椅子に沈むように座っている父が、ルナをまっすぐに見つめている。父の目の下にはくまがあり、その顔は険しい。胸に湧く不穏な予感に、ルナの指先が震えた。
「大事な話がある」
そう切り出されて、ルナは息をのむ。大事な話というと、近頃の伯爵家の経済状況が苦しいこと、あるいは新たな融資先の話かもしれない。それとも、さらにあからさまな悪い報せだろうか。ルナが心の準備をしようとまぶたを伏せると、父は無遠慮な調子で言葉を続ける。
「お前を……近々、伯爵家の跡取り息子と結婚させることにした」
その言葉を聞いた瞬間、ルナは胸の奥が酷く痛んだ。それはまるで冷えた刃物で心臓を切りつけられたような衝撃だった。
「結婚……ですか」
ルナの口からそれだけが搾り出される。まるで他人事のように口に出した自分の声すら、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「相手はマクリーン伯爵家の跡取り、エヴァンス・マクリーン。あちらも事業で成功を収め、近ごろは社交界で注目されている。お前が嫁ぐのに不足はない。」
冷静に見えて、その声には何らかの焦燥感が混じっている。ルナは一瞬、父が何を言いたいのか理解できなかった。しかし、結婚という話が具体的に動き出しているとなれば、そこには当然ながら“理由”がある。
「お父様、なぜそんなに急なんですか。私はまだ……」
言いかけたルナの声を、父は強く遮った。
「……モンディアル家が危うい。借金の返済の期限はすぐそこだ。だが、資金繰りがつかない。連日のように取り立ての者が来ているのを、お前だって見ているだろう」
普段はめったに家族に弱みを見せない父が、そう言わざるを得ないほど、モンディアル伯爵家の財政は逼迫しているのだ。ルナも気づいてはいたが、ここまで追い詰められているとは思っていなかった。
「しかし……そんな、急に結婚など。お母様は何と……」
「お前の母には、私から説明した。彼女も承知している。お前も、もう子どもではない。伯爵家の令嬢として、家のために自分を犠牲にする覚悟をしてもらわねば困る」
父の言葉は非情だったが、その奥底には切迫感と罪悪感がわずかに滲んでいた。だが、それでもルナに拒否する権利は与えられない。モンディアル家の令嬢として生まれた以上、家の名誉や存続のために個人の感情を切り捨てるのは、貴族社会ではままあることだ。
やがて、父は机の上に積まれた書類の束の一部を乱雑に手に取り、ルナのほうに差し出した。
「これが、マクリーン伯爵家との契約内容の一部だ」
ルナは恐る恐る書面に目を落とす。そこには細かい文字で互いの出資や借金の肩代わり、そして結婚条件が記載されていた。モンディアル家の借金をマクリーン家が肩代わりする代わりに、ルナはエヴァンス・マクリーン伯爵の正妻として嫁ぎ、その結婚生活を最低限の形式で継続しなければならない。
しかし、奇妙だったのは「白い結婚」と称される条件が明確に書かれていることだ。夫婦としての愛情、あるいは子を成すという家庭の実質を伴わない形での契約結婚――いわゆる、互いの利害が一致するためだけの名ばかりの夫婦関係を結ぶという条項であった。
「ここに書いてある“白い結婚”というのは……?」
ルナはその文言を指先でなぞりながら、父を見つめる。
「マクリーン側の意向だ。お前とあちらのエヴァンスとの間に、夫婦らしい交わりは不要だという。子を成すことも前提ではない。要は、マクリーン家の事業拡大のイメージ作りのためと、我が家の借金清算のためにする形式的な結婚だ」
「そんな……」
信じがたい内容に、ルナの身体はこわばる。結婚とは本来、生涯を共にする誓いのはずだった。しかしこれは、まるで虚飾の婚礼。都合のいい駒として扱われる未来が、そこにははっきりと記されている。
「お前の気持ちはわかるが、これはモンディアル家を守るためだ。わかってくれ、ルナ」
父の声には苦悩が混じっている。だが、伯爵家を存続させるには他に手立てがなく、娘の人生を犠牲にせざるを得ない――その事実が、痛いほどに伝わってくる。ルナがここで首を縦に振らなければ、家族は破綻し、使用人たちも路頭に迷うかもしれない。その覚悟を背負うことが、今、ルナに課せられた宿命だった。
部屋を出る頃には、すっかり夜の帳が下りていた。廊下の灯は弱々しく、彼女の影をぼんやりと照らす。胸中には悲しみと不安、そして一抹の諦念。それでもルナは決意する。
――私がこの結婚を受け入れれば、家族は守られる。そうであるならば、どんな犠牲を払っても……。
この晩からルナの心は、まるで氷でできた城の中に閉じ込められてしまったように感じられた。
* * *
それから数週間は、嵐のように過ぎ去った。モンディアル家の家計事情を知る一部の親族は、ルナの結婚を巡って陰でささやき合う。一方で、正式な婚約発表は華やかな場を用意され、表向きは「将来を嘱望される美しい伯爵令嬢と、成功を収める伯爵家の跡取り息子との良縁」として取り沙汰された。
しかし、その実態を知る者は多くない。ルナは社交界で噂される、あくまで“幸運な令嬢”として扱われる。苦しい胸の内を吐露できる場所など、どこにもなかった。
そして迎えた挙式の日。場所はマクリーン伯爵家の所有する大邸宅の広大な庭だった。初夏の頃を思わせる穏やかな晴天――だが、ルナにとってはまるで吹雪のように心が冷たかった。
ウェディングドレスに身を包み、背中まで伸びるヴェールをまとったルナ。式場の入り口に立った彼女は、胸元のコサージュをぎゅっと握りしめる。けれど、その先には、少し先に祭壇で待つエヴァンス・マクリーン伯爵家の後継者がいる。
彼はすでにゲストたちの視線を一身に浴びながら、わずかに微笑みを浮かべるような顔つきで待機していた。その表情は穏やかとも言えなくはないが、どこか作り物じみていた。プラチナブロンドの髪と端正な顔立ちが目立ち、社交界でも評判の美丈夫ではある。だが、ルナは目を合わせるたびに、彼の瞳からうかがえる冷徹な光に気づいていた。
――この人は、本当に何を考えているんだろう。
そう思ってしまうほど、彼には人間的な温もりが感じられない。とはいえ、それはルナ自身も同じかもしれない。自分だって、今は全く心が動かない。
やがて挙式が始まった。神父の前で誓いの言葉を交わすが、その言葉は形骸に過ぎない。ルナはこのまま誓いのキスを交わすのかと覚悟したが、エヴァンスはさりげなく顔をそむけてヴェールをめくり、形だけの接触にとどめた。まわりは歓声や拍手に包まれるが、その祝福の音すら、どこか遠く聞こえる。
白い結婚。お互いに形式だけ整えて、実態は伴わない関係。神父の前で嘘をつくことへの罪悪感を感じながらも、ルナは心を閉ざさなければ生きていけないと悟っていた。もしもここで涙をこぼせば、全てが壊れてしまうような気がしてならないのだ。
こうして、ルナは莫大な借金を帳消しにするかわりに、マクリーン家の伯爵令嬢として、氷のように冷たい結婚生活をスタートさせることになった。
* * *
結婚式が終わって数日。ルナは新居となるマクリーン家の屋敷に移り住んだ。この館は、郊外に広大な敷地を構える立派な邸宅で、客間だけでも十を超えるという。玄関ホールには豪奢なシャンデリアが輝き、大理石の床が来客を迎える。その豪華さは、モンディアル家がいかに追い詰められていたかを、改めて痛感させるほどだった。
ルナが案内された寝室は、一見すると完璧なまでに整った空間。質の高い家具と上品な装飾が目に入る。けれど、そこはまるでモデルルームのように生活感に乏しく、無機質な美しさだけが強調されていた。
「ここが今日からあなたの部屋になります。寝室も別々というお話でしたが、何か不都合はございませんか?」
世話係らしい女性が、丁寧な言葉遣いでルナに問いかける。
「いえ……ありがとうございます」
ルナはそう呟いてから、部屋の窓を開けて外を見下ろす。広い敷地内には、色とりどりの花が咲き乱れる庭園が見える。風に揺れる花々は活気に満ちているのに、自分の心はどんよりと灰色の雲に包まれているようだった。
エヴァンスはといえば、結婚式の後も相変わらずビジネスや社交界の集まりへと忙しい毎日を送っているらしく、屋敷にはほとんどいない。時折すれ違っても、挨拶程度の言葉を交わすだけ。言葉遣いは丁寧だが、そこに温もりは微塵も感じられない。
(これが“白い結婚”……私のこれからの人生なのだわ)
ルナは華やかなドレスを纏っていても、決して暖かくはなれない自分を感じていた。
* * *
暮らし始めてから一週間ほどが経ったある日。ルナは、夜になると屋敷の廊下を一人で歩く癖を身につけていた。あまりにも大きな館で、昼間は使用人たちの視線もあるため、静かに心を落ち着ける時間が欲しくなるのだ。
マクリーン家には一流の料理人がいて、食事は申し分ない。けれど、共に食卓を囲む家族というものは存在しない。エヴァンスはいつも外出しており、ルナは一人きりで食事をとる。それが当たり前になり、誰も何も言わない。
そんな孤独を埋めるように、毎晩、館の中を少しずつ散策するのがルナの日課になっていた。どの部屋にも高価な調度品が並び、煌びやかな印象を受けるが、奇妙なほど人の気配に乏しい。
その夜も寝付けなかったルナは、書庫らしき扉を見つけ、少しでも心を落ち着けようとドアを開けた。
「……失礼します」
中には誰もいなかった。室内は薄暗く、天井近くまでびっしりと本棚が並んでいる。歴史書や専門書が多いが、一部には芸術や文学の書物も含まれているようだ。ルナはランプを手に取り、本棚の背を眺めながらゆっくりと歩み寄る。
「こんなにたくさんの本……すごいわ」
ルナは幼い頃、母から古い伝承や歴史書を読み聞かせてもらい、文字を読むことが好きだった。モンディアル家の書斎もそれなりに蔵書はあったが、マクリーン家のそれは比べものにならない。
気になる本を一冊抜き出し、読み始めようとしたそのとき――廊下で何人かの声が聞こえた。慌ててランプを消し、ルナは書庫の扉の隙間から外の様子を伺う。
「最近、エヴァンス様の命令で例のルートを使う回数が増えている。どうやら競売にかける品が多くなっているみたいだ」
「いいか、あくまで目立たないように運べ。警戒が厳しくなってきているからな」
聞こえてきたのは、低い男たちの声。使用人たちの会話にしては妙に緊張感がある。内容も不可解だ。「例のルート」「競売にかける品」「警戒が厳しく」――。まるで裏取引か何かを匂わせるような会話に、ルナの胸は高鳴った。
――エヴァンス様? 何を運んでいるって……?
ルナは息を潜めながら耳を澄ます。だが、男たちはすぐに廊下を通り過ぎてしまい、会話も途切れた。
背筋に冷たい汗が伝う。エヴァンスは大きな事業をいくつも手がけている実業家だという話を聞いていたが、その裏側には何か危険な秘密があるのかもしれない。
(裏社会との繋がり……? 父が借金を肩代わりしてもらった相手が、まともじゃない可能性だってあるんじゃ……)
一気に胸がざわつく。確信には至らないが、何か良くないことが起きる予感がした。あるいは、すでに起きているのかもしれない。
あまりの不安に、本を手にしたまま書庫で立ち尽くしていると、唐突に扉が開いた。
「……ッ!」
ルナは驚き、身を硬直させる。書庫に入ってきたのは、エヴァンス本人だった。スーツ姿でネクタイを緩め、少し疲れた様子でいる。夜の散策から戻ってきたのか、彼もまたランプを手にしている。
「……なんだ、君か」
扉越しに誰かの気配を感じて確認に来たのかもしれない。ルナは持っていた本をそっと戻し、できるだけ平静を装ってエヴァンスを見つめる。
「夜遅くに、書庫で何をしているのですか?」
彼の声は冷ややかだが、表面上は礼儀正しさを崩さない。ルナは乾いた喉を鳴らしながらも、どうにか言葉を繋ぐ。
「眠れなくて、少し気を紛らわせたくて……。本が好きなので」
それを聞いたエヴァンスは、どこか気だるげに目を伏せる。
「君は……そう、読書家だったね。遠慮なく使うといい。ただし……」
そこで言葉を切り、彼はルナを上から下まで眺めるように視線を這わせた。どこか値踏みするような眼差しが、ルナの肌を刺す。
「探るような真似はしないことだ。ここの書庫にはビジネスに関する書簡も多い。大事なものを扱っているから、勝手に見られては困る」
「……わかりました」
その言葉だけで、ルナは先ほど廊下で耳にした男たちの会話も含め、下手に探ろうとすれば危険だという警告を感じ取った。
エヴァンスは、書庫に積まれた書簡の一部を取り出すと、ざっと目を通した。その横顔に浮かぶ微かな笑みは、不気味な冷たさを帯びている。
「夫婦であろうとも、お互いの干渉はしない。それが我々の契約だ。君には何も期待していない。……君も、僕に何かを期待しないことだ」
吐き捨てるようにそう言うと、エヴァンスは書庫を出ていった。
静寂だけが残る空間に、ルナは虚脱感に苛まれた。やはり、彼は危険な人物なのかもしれない。優しさを装うことすらせず、冷酷な本性を隠そうともしない。
(この人の裏の顔を、私はもっと警戒すべきなのだろうか……)
エヴァンスに何か探られれば、ルナの立場はあまりに脆い。だが、今のところはモンディアル家の借金清算という目的のため、ルナを表向きは“伯爵夫人”として遇してはくれている。
とはいえ、このままでは自分がいつ危険に巻き込まれてもおかしくない。夜の闇は深く、マクリーン家という大邸宅が一層大きく口を開けて、ルナをのみ込もうとしているようにすら思えた。
* * *
契約結婚ということで、それでも世間の目には体裁が必要だ。エヴァンスとルナは、時折社交パーティーに“新婚夫婦”として顔を出さねばならない。
ある日の夜会では、多くの貴族たちが集まり、ワインを片手に談笑する中、エヴァンスとルナの姿が注目の的となった。社交界では「名門マクリーン家の新妻」「モンディアル家の令嬢の幸運な縁談」として評判を呼んでいるのだ。
パーティー会場の片隅で、ルナはエヴァンスと並んで挨拶をしていた。笑顔を保ち、賛辞に対して感謝の言葉を返す。いつしか、それが仮面を被ることだと悟るようになっていた。
「奥様は大変お美しい。まさに伯爵家のバラのようだ」
ある男性貴族が目を細めて褒めそやすと、ルナは微笑みを浮かべながら会釈する。
「ありがとうございます。まだまだ至らぬところばかりですが、日々勉強しておりますわ」
その横でエヴァンスも、にこやかに口を開く。
「私の妻は聡明で礼儀正しく、何より慎ましい。皆様ともすぐに打ち解けられることでしょう」
美辞麗句の応酬を耳にしながら、ルナは自分の胸の奥が凍りついているのを感じる。夫の言葉を真に受けてはいけないとわかっている。これはあくまで社交界向けの仮面であり、真実の夫婦とは程遠いのだから。
その後、エヴァンスは事業の話で人だかりを作る。ルナはそれを遠目に眺め、ふと窓辺へと足を運んだ。夜風がカーテンを揺らし、彼女の髪をそっと撫でる。どんなに着飾っていても、満たされない思いだけが募る。
「……こんな生活、いつまで続くのかしら」
ぽつりと呟く声は、賑やかな会場の喧騒にかき消されてしまう。だが、ルナは自分の使命を改めて思い返す。父と母を、そして使用人たちを守るため。この結婚は破棄できない。すでに後戻りはできないのだ。
* * *
マクリーン家の屋敷に戻ったのは深夜である。馬車を降りて、扉に向かう途中、エヴァンスが一言も喋らないことに気づく。ルナも何を話していいのかわからない。
玄関ホールに足を踏み入れると、エヴァンスは厳しい声で使用人に指示を出し、客用の贈答品を整理するよう命じた。華やかな場を終えても、彼の振る舞いはまるで機械のように冷たい。
そして、そのままルナに一瞥をくれることなく二階へ上がろうとする。
「……お疲れさまでした」
ルナはそう声をかけるが、彼からの返事はない。靴音だけが階段をかけ上がっていく。
重苦しい沈黙が屋敷を満たす中、ルナはぎこちなく自室に戻ってドレスを脱ぎ捨てた。薄手の寝間着に着替えても、肩の疲れはとれない。
鏡台の前に座り、ブラシで髪をとかしながら、自分の姿に問いかける。
――私は何のためにここにいるの?
家を守るため。それだけは崩せない事実だとわかっている。しかし、これから先の長い人生を、こんな暗い日々のまま過ごすのかと想像すると、息が詰まる。
「……まだ、知らないことばかり」
そう口に出すと、ほんの少しだけ決意が芽生える。エヴァンスの真意。そして、彼がどんな危険な取引に関わっているのか。もしも彼の闇が深いのなら、放っておくわけにはいかない。いつかそれがモンディアル家に災いをもたらす可能性だってあるのだ。
「絶望するには早いわ。私が諦めなければ、何か突破口が見つかるかもしれない」
ルナは弱々しく笑みを作り、自分を奮い立たせた。冷たい契約の下でも、心まで凍りついてはいけない。いつか……いつか、ほんの少しでも光を見出せるように。
* * *
翌朝、屋敷に来客があった。応接室に通されたのは、マクリーン家の事業パートナーだという男で、やや粗野な雰囲気をまとった中年だった。ルナはたまたま廊下を通りかかった際、その男とエヴァンスが激しく言い争う声を耳にする。
「言ったはずだ、これ以上のリスクは負えない!」
「だが、この計画が成功すれば莫大な利益だ。お前こそ腰が引けたのか、エヴァンス!」
鋭い罵声が応接室から漏れてくる。ルナは思わず扉越しに耳を寄せそうになったが、使用人たちの目がある。深く首を突っ込むのは得策ではないとわかっている。
けれど、そのとき扉が開き、男が乱暴に出て行った。ルナは慌てて身を引く。
「チッ……!」
男は苛立ちをあらわにしながら、ルナとすれ違う一瞬でじろりと見やった。まるで警戒するかのような視線に、ルナは息を呑む。男はそのまま何も言わずに廊下を通り過ぎ、足早に屋敷を出ていった。
応接室に残ったエヴァンスは、額に手を当てて苦しそうな息をついている。まさかこちらを追いかけてくるか――と警戒したが、彼はルナには気づいていないらしい。
ルナは心の中で、やはり何か裏があるに違いないという確信を強める。もし、エヴァンスが非常に危険な取引を進めているのだとしたら、自分が巻き込まれる日も遠くないだろう。
(だけど、私に何ができる? ただでさえ“白い結婚”という契約条件で、この家に縛られているというのに……)
廊下の隅で思考を巡らせながら、ルナは内に秘めた強さを思い出す。モンディアル家の令嬢として育ったが、ただの飾り物ではありたくない。たとえ表向きは冷たい花嫁であっても、この手で何か行動を起こすことができるのではないか。
――そう、情報を集めて、父に報告しようか。あるいは、マクリーン家の不正行為を暴く手段を探ろうか。
危険は承知だが、動かずにはいられない。何より、父や母が、エヴァンスの裏の顔を知ってどんな報復を受けるのかと想像すると、じっとしていられないのだ。
この結婚は契約に過ぎず、愛など存在しない。それならば、いっそエヴァンスの秘密を探し出して対抗手段を講じる。そうすれば、いつか来るかもしれない破局のときに備えて、己を守ることができるかもしれない。
(私は、もう一度だけ勇気を振り絞るわ)
ルナの瞳は静かに決意を宿す。白い結婚の名のもとに囚われた氷の花嫁。しかし、氷が溶ければ水となり、いずれ流れ出すことができるかもしれない――。
* * *
それから数日後、ルナはモンディアル家に一時帰省できる許可を得た。形式上、結婚してすぐに実家に戻るのは不自然だが、父の容体があまり芳しくないという報せが入ったのだ。
マクリーン家の馬車に乗せられ、久方ぶりに目にする故郷の風景に、ルナの胸は複雑な思いで満たされる。家を守るための結婚だったはずなのに、自分が父の顔を見るのも恐る恐るだ。
モンディアル家に到着すると、使用人が出迎え、ルナを客間へと通した。間もなくして父が姿を現した。以前より痩せこけ、苦しげな咳をしているが、何とか歩けるようだ。
「お父様……体調は大丈夫ですか」
「ルナ……すまないな、心配をかけて」
父の声は弱々しい。ルナは思わずその手を握りしめる。結婚の話を切り出されたときは絶望を感じたが、それでもこうして再会すると、やはり父を見捨てることなどできなかったと思う。
「お前は……マクリーン家で、うまくやっているのか」
その問いに、ルナは少し言いよどんだ。父が何を期待しているのかはわからない。自分がどれだけ辛くても、今さら父を責めるつもりはなかった。
「ええ……問題なく過ごせています。ただ、エヴァンス様はお忙しくて、あまり家には帰ってこないのですけど」
その言葉に、父は複雑そうに視線をそらす。借金を肩代わりしてもらった以上、文句は言えない立場だとわかっているのだろう。
「そうか……とにかく、お前が無事ならいい。いずれ、時が来れば夫婦としての形も整っていくだろう」
形――。それが愛を伴わないものであることを父が知っているのかどうか、ルナは確かめる気にもなれなかった。ただ、それとなくマクリーン家が危険な動きをしている可能性を探るべく、会話を続ける。
「お父様……もし、マクリーン伯爵家の事業が、何か危ういものだとしたら……どうしますか」
父はハッとした表情を見せ、咳き込みながら言葉を探す。
「お前、何を知っている……? いや、私は知らない。マクリーン家は新興の事業が多く、資金力があると聞いていた。ただ、急速に台頭したせいで、評判を妬まれていることは確かだ。……ルナ、あまり深入りするんじゃないぞ」
「……ええ。わかっています」
深入りすれば危険、という父の忠告を胸に、ルナは唇を噛む。だが、このまま黙っているわけにもいかない。自分が実質的にマクリーン家の内部にいるからこそ掴める情報があるだろう。
――覚悟を決めるしかない。私はモンディアル家の娘として、この家を救うために結婚したのだから。
父の前では何も言えなかったが、ルナの中で“ある決意”が固まりつつあった。エヴァンスやマクリーン家の裏側を探る。それがどんなに危険だろうとも、いずれは真実を知る必要がある――と。
* * *
実家での短い滞在を終えて、再びマクリーン家へ戻る馬車の中、ルナは冷たい窓ガラスに映る自分を見つめた。
――私はただの契約の花嫁。でも……あの人のしていることを、そのままにしておけない。
馬車が揺れる度に、ルナの決意は固まっていく。暗く冷たい結婚生活の中で、今は光など見えない。けれど、氷のように感情を押し殺すだけでは、この先、自分の心は壊れてしまうだろう。
父を救いたい、家族を守りたい。そして、自分自身をも。今はまだ何をどう動くべきかわからないが、きっと突破口はあるはずだ。
マクリーン家の大門が視界に入ると、やがて馬車が止まる。従者がドアを開け、ルナは静かに下車した。
「お帰りなさいませ、奥様」
いつも通りの無機質な歓迎の声が響く。ルナは荷物を受け取りながら、凛と背筋を伸ばして屋敷の中へ足を踏み入れた。
――この白い結婚は、私にとって試練。だけど、私は必ず乗り越えてみせる。たとえ、エヴァンスの裏の顔がどんなに冷酷であろうと、私が真実を知り、正しい道を切り開くために戦うのだ。
暗く長い廊下を進みながら、ルナは心に誓う。まるで氷のように閉ざされた日々。しかし、その中でこそ、光を探し当てる意味があるのかもしれない――。
こうして、ルナ・モンディアルは契約の花嫁として、名ばかりの結婚生活を送ることとなった。愛も温もりも存在しない「白い結婚」。だが、この冷たい契約の裏で、彼女の決意は確かに燃え始めている。
果たして、エヴァンス・マクリーンが握る危険な秘密とは何なのか。ルナは孤独な戦いの最中に、ほんの少しでも救いを見出せるのだろうか――。
その答えは、まだ誰にもわからなかった。