いつの日からか、わたしの結婚はわたしの意思とは無関係に決まっていた。わたしの名はエミリア・ロレンツィア。ロレンツィア公爵家の嫡女として、幼い頃から「良き淑女」としての振る舞いと教育を受け、いずれは家の役に立つ結婚をするのだと教えられてきた。けれども、その「いずれ」がこんなにも早く、しかも相手が王太子殿下になるとは予想していなかった。
王太子アレクシス・グランフロース殿下。彼はこの国の第一王位継承者であり、次代の王として誰もがその存在を畏れ、同時に敬意を払う存在だ。けれども、その名を耳にするたび、「冷酷無情」という噂を思い出す者は多い。若くして華々しい武勲を立てた一方、軍師や部下たちでさえ容易に近づきがたい硬い空気をまとい、淡々と冷ややかな態度を崩さない――そう聞いている。
実際にわたしがアレクシス殿下の姿を目にしたのは、公の場ではほんの数度ほどだった。宮廷での舞踏会や儀礼の際、遠巻きに見えたその人影は、白金の髪をきっちりと結い上げ、まるで芸術品のように端整な顔立ちをしていながら、目はすべてを突き放すような冷たい光を帯びていた。
それが、わたしの未来の夫になる。
父から告げられたとき、胸の底がひやりとしたのを覚えている。政略結婚など貴族の娘ならば珍しくはないが、それでも王太子妃という立場は桁外れだ。わたしは震える声で父に問うた。
「……わたしが王太子殿下と結婚するのですか?」
「そうだ。ロレンツィア家としても、これ以上ない栄誉だ。国の安寧のためにも、しっかりと務めてくれ」
父の声には迷いがなかった。以前から宮廷との交渉が進んでいたのだろう。ロレンツィア公爵家は古くから王家に仕えてきた名門であり、わたしはその唯一の娘なのだ。いずれ誰かと政略結婚する運命ならば、ここで王家と縁を結ぶことは、わたしの家にとって大きな恩恵をもたらすのだろう。
しかし、世間の噂に聞く「冷酷無情な王太子」は果たしてどのような人物なのだろうか。自分の人生が大きく変わる、という現実感がなかなか湧かないまま、あっという間に式の日取りが決まった。
結婚式当日。
王都最大の大聖堂には多くの貴族や要人が集い、厳かな空気が漂っていた。わたしは白いウェディングドレスに身を包み、胸の奥が押しつぶされそうなほどの緊張と不安を抱えて控室に座っている。支度を手伝ってくれる侍女たちからは、殊更に敬意を払われているのを感じた。
なぜなら、今日をもってわたしは王太子妃となるのだから。だが、その敬意の裏側には、わたしがどれほどの相手を夫にするかという畏れと、そして「これからどのような扱いを受けるか」という興味が混ざり合っているのがわかった。
特に、ある侍女などはわたしの髪を梳きながら、「ああ、この方があの冷酷な王太子殿下のお相手になるのね」という視線をはっきりと浮かべていた。もちろん、口には出さないが、その瞳がすべてを語っている。わたしには、彼女の表情の奥にある軽蔑と哀れみが見て取れた。
王太子殿下との婚儀は、国民にとって一大祝事である。盛大な式が行われ、神殿での厳かな宣誓が終わったあと、殿下の横に並ぶわたしは、まるで夢の中にいるかのようだった。というのも、肝心のアレクシス殿下の態度がまったく読めないのだ。
わたしの手を取るときも、その顔には感情の起伏がほとんど見えなかった。口元は引き結ばれ、わたしの目を一度も正面から見ようとしない。けれども乱暴に扱われるわけでも、冷たく突き放されるわけでもない。ただ、触れられているという実感が薄いほどの、まるで質の良い人形のような丁寧さしか感じられない。
大聖堂の鐘が高らかに鳴り響き、新郎新婦として参列者の拍手を受けながら、わたしとアレクシス殿下は外へと歩き出す。集まった人々は、一目その姿を見ようと大勢押し寄せている。その中には確かに祝福の声もあった。けれども、ざわめきの中に混じる小声の噂話も聞こえてくる。
「お相手はあのロレンツィア家の娘か……」
「でも、殿下とロレンツィア家はあまり接点がないと聞いたが」
「殿下は本当にあの娘をお望みだったのかしら」
耳を塞ぎたくなる。わたしはただでさえ不安を抱えているのに、そこへそんな疑念を突きつけられると、気持ちが萎縮してしまいそうだ。だが、ここで怯えてはならない。わたしは公爵家の令嬢としての誇りを胸に、笑顔を作った。痛いほどに引きつる頬を何とか抑え込みながら、エミリア・ロレンツィアとしての毅然とした姿勢を保つ。
そして、披露宴が行われる王宮へと向かう馬車の中――わたしとアレクシス殿下の間には、まるで冷気が漂っているかのような沈黙があった。
わたしは深呼吸し、意を決して口を開く。夫婦になるのだから、一言くらいは言葉を交わしたい。
「あの……本日は、わたしとの婚儀を受け入れてくださり、ありがとうございます」
自分で言っていても、不自然な言葉だと思う。政略結婚だとはいえ、こちらは『受け入れる』以外の選択肢など用意されていなかったのかもしれない。だが、相手がどう思っているかはわからない。挨拶くらいはと思い、絞り出すように声を出した。
アレクシス殿下は、わたしから少し視線を外したまま、短く答える。
「……義務だからな。礼には及ばない」
静かな声音だが、冷たく突き放すような響きだった。会話を続けようかと迷ったが、どのような言葉を選んでも拒絶されそうだ。わたしは口を噤む。
こうして、わたしは公式の場で国民や貴族たちに顔を見せ、晴れて王太子妃となった。彼の表情に笑みはなく、終始無表情のままだった。
王宮に到着すると、広い披露宴会場では盛大な祝宴が待ち構えていた。各国の要人や貴族たち、軍や商人の代表まで含め、多くの人々が集っている。わたしのドレスは確かに美しく仕立てられていたし、髪や装飾品も一切の妥協なく最高級品を揃えられていた。それでも、わたしの隣に立つ王太子アレクシス殿下の放つ威圧感や、その冷然たる雰囲気の前では、どうしても小さく見えてしまう。
何かと話しかけてくる貴族夫人もいたが、「おめでとうございますわ、殿下のお相手はさぞかし大変でしょうけれど……ねえ?」と、最後に含みのある微笑みを浮かべて去っていく。表向きは祝福の言葉でも、心中では「あなたは大変な相手を夫にしましたね」と言わんばかりだ。
わたしはその度に、耐えるように笑って受け流した。王太子妃となったからには、この程度の皮肉や揶揄には動じないでいようと心に決めていたからだ。
そんな披露宴が一通り終わり、わたしは夜会服に着替えて、さらに続く宴へと参加する。王太子妃となったわたしを人々は注目し、アレクシス殿下との間に生まれるかもしれない“後継者”について、早くもささやき合っているのがわかる。宮廷では、結婚は単に男女が結ばれるだけでなく、次代の血筋をどう繋ぐかが大きな問題なのだ。
しかし、そんな人々の関心も、わたしにとってはまだ遠い話に思える。夫となったアレクシス殿下がどういう人物なのか、今夜から始まるわたしの新しい生活がどんなものになるのか、それだけで頭がいっぱいだった。
やがて夜も更け、宴が終わる頃。わたしは王宮内に新たに用意された居室へと案内された。王太子妃用の部屋は広く、絢爛豪華な装飾が施されている。大理石の床、大きな天蓋付きのベッド、窓からは王宮の中庭が見下ろせる。
まるで、物語に出てくる王女の部屋のようだ。だが、そのような華やかさを目にしても、わたしの胸には喜びよりも不安のほうが色濃い。現に、わたしはここで“ひとり”なのだから。普通、新婚の夜といえば……と頭をよぎるが、アレクシス殿下がここを訪れる気配はない。
侍女たちは無言で部屋の準備を整え、わたしが就寝できるようにドレスをナイトガウンへと着替えさせ、寝台の周辺を整えた。
「今夜は殿下はお越しになられませんので、どうぞお休みくださいませ」
侍女長らしき女性が、つつましく言葉をかけてくる。その声音に不審や悪意はないものの、淡々とした事務的な口調が返ってわたしの胸を刺す。
――初夜ですら顔を合わせない。やはり、あの無表情はわたしに興味がない、あるいは政治的役割としてしか見ていないのだろう。
そう思うと、微かな悲しみを覚えずにはいられない。
「……ありがとうございます。おやすみなさい」
わたしは侍女たちを下がらせると、暗い寝室にひとり取り残された。
翌朝。
王太子妃としての初めての朝は、これまた慌ただしく始まった。宮廷での生活には多くの規則と役割がある。王太子妃となったわたしには、新たに宮廷行事の把握や宮廷内での礼儀作法、書類への署名や確認なども求められる。王太子妃に与えられる仕事は想像以上に多く、わずかな気の緩みも許されそうにない。
早朝から侍女と侍従、そして側近らしき者たちが部屋を訪れ、あれこれと説明を始めた。あまりにも矢継ぎ早な情報量に、眠気が一気に吹き飛ぶ。
「殿下は早朝より軍の訓練を視察されておりますので、本日は朝のご挨拶は控えられるよう仰せつかっております」
そんな報告まで聞かされ、わたしは一抹の寂しさを感じる。夫となったアレクシス殿下と二言以上の言葉を交わしていないのに、今日も会えないのか。まるで離れて暮らす主従関係のようで、これが本当に夫婦の形なのかと胸がざわつく。
しかし、不満を抱いたところでどうしようもない。今はただ、自分に与えられた役割を全うする以外に道はないのだ。
わたしが身支度を終えて廊下を歩くと、早速数名の貴族令嬢と思しき女性たちに出くわした。彼女たちは貴族らしい華やかなドレスをまとい、わたしに会釈こそしているが、その瞳の奥にはさまざまな感情が渦巻いているように見える。
「おはようございます、王太子妃殿下。朝からお忙しそうでいらっしゃいますわね」
ひとりがにこやかに声をかけてくる。わたしも微笑みを返す。
「ごきげんよう。まだ勝手がわからず、戸惑うことばかりですわ。もしなにかありましたら、ご教授いただけると助かります」
「それはもう。わたくしたちでよろしければ、いつでもお力になりますわ」
言葉だけ聞けば優しいが、その実はどうか。ここは王宮――権力と人間関係の渦が渦巻く場所だ。わたしの笑顔に対して同じ笑顔を返したからといって、そこに善意があるとは限らない。彼女たちもわたしを値踏みしているに違いない。
そして、ちらりと視線を交わした彼女たちのうちのひとりが、小声で囁くのをわたしは聞き逃さなかった。
「――あれが王太子殿下を虜にしたわけでは、なさそうね」
かすかに聞こえたその言葉に、わたしは唇をきゅっと結ぶ。なるほど、彼女たちはわたしがアレクシス殿下の“心”を射止めたわけではなく、単なる政治的なつながりで王太子妃の座を得たと思っているらしい。
実際、まだ心など通い合っていないのだから否定はできない。だけど、その言い方がまるで「あんな娘には務まらない」という揶揄にも思えて、胸の中に小さな棘が刺さるような痛みを覚えた。
昼前になると、わたしは書類仕事をこなしに執務室へと足を運んだ。そこには待機していた文官がいて、わたしに礼を示してから王宮内で行われる行事や、王太子妃として関わるべき宮務について説明を始める。
「王太子妃殿下には、今後慈善行事の主催や、各地の領主からの献上品への対応、そして国政の一端に関わる儀式への列席が求められます。先代の王太子妃――つまりは今の王妃様がご健在の頃も、そういった行事の多くは妃殿下が主導していらっしゃいました」
「わかりました。これらは……わたしがすべて把握しなければならないのですね」
「はい、今の段階では一度にすべて覚える必要はありませんが、殿下がご列席されない場面での代理として動かれることも多くなるでしょう。その際に“王太子妃”としての振る舞いが求められます。失礼ながら、公爵家の令嬢とはいえ、さらに高いレベルの礼儀作法と国に関する深い知識が必要となります。どうぞ、この書類をご熟読くださいませ」
文官は山のような資料をテーブルに置いた。わたしは目の前にそびえる書類の山を見て、背筋が震える。
「こんなに……」
「まだ一部です。これまでの経緯を簡略化した資料なので、さらに踏み込むとなると倍以上にはなるかと」
どうしよう。王太子妃の務めがここまで膨大だとは、あらかじめ父から言われていたものの、実際目にすると息が詰まりそうだ。けれども、ここでめげるわけにはいかない。ロレンツィア家の名にかけても、わたしは“役に立たない妃”という印象を与えるわけにはいかないのだ。
わたしは覚悟を決めて、机に向かう。もしわたしが役立たずだと見なされれば、王太子殿下だけでなく王宮中からも軽蔑されるだけだろう。もっと最悪な未来を想像すると……胸が苦しくなる。
夕方近くになり、ようやく第一陣の資料に目を通し終えた頃、扉がノックされる。
「失礼いたします。王太子妃殿下、少々お耳に入れたいことがありまして」
現れたのは、城内の雑務を取り仕切る高位の侍女長だった。
「何かしら?」
「はい。殿下が兵舎から戻られた際、貴族令嬢のマルグリット様がお待ちかねになっておりまして……」
「マルグリット様?」
「はい。殿下とは幼少の頃から親交がある方で、しばしば城に訪れてはお茶会などを開いておられます。貴女様がいらしたことで、今後そのような機会も少なくなるだろう、という噂でしたが……」
その言葉に、わたしの中で何かが引っかかる。わたしが嫁いできたからには、今まで王太子の周りに出入りしていた貴族令嬢たちの立場はどうなるのだろうか。
侍女長が意味ありげに言葉を濁したように聞こえたのは、つまり「マルグリット」という女性は王太子殿下と特別に親しい間柄だということなのかもしれない。城内で幅を利かせる有力貴族の娘……それが、わたしをどう見るのか。
「そうですか。わたしに何か求められているのですか?」
「さあ、そこまでは。ですが、殿下がお戻りになった際、廊下でご挨拶を交わされていたようで……」
侍女長が言い淀むということは、あまり穏やかな雰囲気ではなかったのだろう。想像するだけで嫌な予感がする。
わたしは資料を片付けると、その日のうちにもう一度殿下と顔を合わせようと思い、周囲に動向を聞いてみた。すると、殿下は軍事関係者との打ち合わせの後、早々に私室へと戻られたらしい。わたしのところへは立ち寄る気配もないという。
――ああ、やっぱりわたしには関心がないのだろうか。
侍女たちからもそう言われると、心が沈む思いだった。結婚してまだ一日。焦りは禁物だと頭ではわかっているが、やはり寂しい。これまでは家族が常に近くにいたから、気付かなかったのだろう。王宮という華やかな場所の奥底で、わたしはたったひとり、夫にも相手にされず暮らしていくのか。
その夜も、アレクシス殿下はわたしの部屋へは姿を見せなかった。翌朝の挨拶もなく、その次の日も同じ。わたしは日々、“王太子妃”としての書類や面談、行事の打ち合わせなどを淡々とこなしていく。ただ、殿下はまるで壁のように、完全な距離を保ち続けているのだ。
わたしの中にある疑問は増していくばかりだった。どうしてそこまで無関心でいられるのか。わたしは政略結婚だから仕方ないと自分に言い聞かせる一方、夫婦としての距離感にこれほどの冷たさを感じるのは、想像を遥かに超えていた。
そんなある日のこと。わたしは書類整理を終えたあと、王宮の広い中庭を散策してみようと思い立った。ずっと仕事部屋に閉じこもっていては息が詰まる。美しく手入れされた庭園を歩き、少し気持ちを落ち着かせたいと考えたのだ。
そこは季節の花々が咲き乱れ、小鳥のさえずりも聞こえる癒やしの空間だった。噴水の水音に耳を澄ませていると、心が洗われるようだ。わたしはほっと息をつき、しばし憂鬱な気持ちを忘れかけた。
――だが、そのとき。
ふと視線を感じて振り返ると、遠くの柱の陰から誰かがこちらを覗いている。動きからしてわたしに敵意があるようにも見えないが、隠れているあたり、やましいところがあるのだろうか。
わたしは意を決して近寄ってみる。すると、現れたのは褐色の髪をした若い侍女のようだ。彼女ははっとして目を見開き、バツが悪そうにぺこりと頭を下げた。
「申し訳ございません、王太子妃殿下。あの……特に悪意はなかったのですが、どのようにお声をかけていいか……」
「隠れる必要はないと思いますけれど。わたしになにかご用でしたか?」
「いえ、その……」
見ると、彼女は怯えたように周囲を見回している。まるで誰かに見られてはいけないことをしているかのように。
気になってもう少し話を聞いてみると、彼女はこう囁いた。
「実は……わたし、先日から殿下にお仕えするようになったのですが、どうやら殿下に悪い噂を流そうとしている者たちがいるみたいで。ですから、もし王太子妃殿下がお困りなら、お伝えしようかと思ったのです」
「悪い噂、とは?」
「詳しくはわたしも把握しておりません。ただ、王太子妃殿下が王太子殿下の寵愛を受けていないとか、殿下と別の貴族令嬢との仲を貶めるような……。噂が広がる前に止めたいと思っているのですが、わたしの立場ではどうにも……」
その言葉を聞いて、胸がざわついた。わたしにしてみれば、わたしが殿下から寵愛を受けていないというのは紛れもない事実だ。けれども、そんな噂が飛び交えばさらにわたしは孤立してしまう。それを喜ぶ者たちはきっといるのだろう。
「教えてくれてありがとう。わたしも気をつけてみます。あなたのお名前は?」
「あ、わたしはマリアといいます。まだ下っ端の侍女見習いですが、実はロレンツィア家の恩恵を受けた家系でして……それで、王太子妃殿下にご恩返しをしたかったのです」
「そうだったのね。ご恩返しだなんて、そんな……。でも、ありがとう、マリア。とても嬉しいわ」
わたしは心からそう言った。王宮に来てからというもの、周りの誰もがわたしを遠巻きに見ている中で、こうして声をかけてくれる人がいるだけで救われる思いがした。
マリアはぎこちなく微笑んで、「それでは失礼します」と再びぺこりと頭を下げて去っていった。
わたしが王太子に愛されていない――そんな噂が広まれば、立場が弱くなるのは必至だ。いわゆる“正妃の座”についてはいるが、中身は空っぽだと公然の笑い者になってしまう可能性もある。
だが、アレクシス殿下に無理やり優しくしてもらうわけにもいかないし、わたしとしてはどうしようもない。わたしはただ、教養や礼儀作法を欠かさず、王宮行事を取り仕切る。そうして日々を乗り切っていくしかないのだ。
そんな焦りともどかしさを抱えながらも、わたしは笑顔を決して崩さずに過ごすことにした。
侍女たちからは「微笑みの王太子妃さま」と揶揄するような声も聞こえるが、笑顔はわたしの鎧のようなものだ。内心では怯えていても、その気持ちを表に出すわけにはいかない。
なにしろ、わたしは王太子妃なのだから。これから先、まだまだ長い道のりがある。つい先日まで公爵令嬢としてぬくぬくと暮らしていたわたしが、一朝一夕に王太子妃として完璧に振る舞えるわけがない。ただ、それを言い訳にはできない立場にあるのだ。
そして、わたしの政治的な立場の弱さを感じる出来事がさらに起こる。
ある晩、公式の晩餐会が開かれた席で、アレクシス殿下がわたしと同席しながらほとんど会話をしなかったことが一部で問題視された。王妃や大臣たちは表立っては何も言わないが、「あれでは国の象徴たる夫婦の在り方としてどうなのか」と囁く声が聞こえてきたのだ。
晩餐会の後、わたしの部屋に駆け込んできたのは、わたしの母方の叔父にあたる人物だった。宮廷でそこそこの地位を持っている彼は、ひそかに忠告してくる。
「エミリア、殿下との関係をもう少しどうにかできないのか。これでは周囲があれこれ邪推するばかりだ。アレクシス殿下に何かご機嫌を損ねるようなことはしていないのか?」
「もちろん、そのようなことは……。むしろ、わたしのほうが殿下とお話しする機会すらなくて……」
「そうか。だったら、殿下の執務室に差し入れを持って行くなり、王宮内の行事で殿下と共に出かける計画を立てるなり、なにかしら『王太子妃』として積極的に動かないと。ロレンツィア家の立場にも関わる話だぞ」
政略結婚とはいえ、周囲の目がある以上、夫婦として“ふさわしい”姿を示すことは求められる。わたしは改めてその重責を痛感した。
しかし、アレクシス殿下の性格を考えると、下手に近づいては拒絶されるのではないかと思い、躊躇してしまう。冷たい目で「余計なことをするな」と言われるのではないか……と。でも、いつまでも尻込みしていては何も始まらない。わたしは意を決して、殿下の元へ足を運んでみることにした。
翌日。侍女を伴い、わたしは菓子職人に特別に作らせた菓子と、殿下が好むと噂に聞いたハーブティーのセットを用意して、王太子専用の執務室へと向かった。
執務室の前には、衛兵が立っている。彼らはわたしを見て一礼し、扉をノックして殿下に声をかける。
「殿下、王太子妃殿下がお越しになられました」
しばらく間があってから、低い声が返ってきた。
「……入れ」
重厚な扉が開くと、広い室内には大きな机と書類の山。窓辺には軍の地図や各国の国境線を示す資料などが並び、まさに「未来の王」として日々国政の一端を担っている様子がうかがえる。
中央にいるアレクシス殿下は、わたしをちらりと見ただけで視線を机上へ戻す。
「何か用か?」
彼の声音は淡々としていて、わたしは緊張で喉がかすれる感覚を覚える。それでも、ここで引き下がっては何も変わらない。
「少しお疲れではないかと思いまして。お菓子とお茶をお持ちしました。……もしよろしければ、ご一緒にいかがでしょうか」
精一杯の笑みを浮かべてそう言ったのに、彼は「ふうん」と興味がなさそうな一言を漏らすだけ。侍女がそっとテーブルに菓子とお茶を並べるが、アレクシス殿下は視線すら向けない。
わたしは胸の奥がきゅうっと苦しくなる。それでも微かに希望を抱きながら、彼の返答を待った。
「……悪いが、今は忙しい。わざわざ持ってきてくれたのは感謝するが、後でいただくとしよう」
実質的には“帰れ”と言われているのと変わりない。こうも素っ気なくあしらわれると、さすがに心が折れそうになる。
それでもわたしは笑みを絶やさず、「かしこまりました。それでは、少しでも息抜きになると嬉しいです」と告げ、深く一礼して執務室を後にした。
扉が閉まった瞬間、涙がこぼれそうになるのを必死で堪える。侍女が心配そうに顔を覗き込んでくるが、わたしは首を振って黙って部屋へと戻った。
――やはり、無関心と冷淡さの壁は厚い。
それでも、負けてばかりではいられない。ここでわたしが弱音を吐いてしまえば、すべての人に笑われるに違いない。わたしを侮る者たちに、わたしを妬む者たちに「ほら見ろ、役立たずの王太子妃だ」と言われてしまう。そんなのは耐えられない。
わたしは夜、ひとり部屋に戻ると、静かに誓った。
「こんな扱い、黙って受け入れてやるものですか。いつかこのわたしが、誰にも文句を言わせない立派な王太子妃になってみせる。絶対にざまあみろって思わせてやるわ」
それは、虚勢かもしれない。だが、それでも前を向くためには自分を鼓舞するしかないのだ。たとえ心が折れそうになっても、わたしにはロレンツィア家の誇りと、自分の幸せを掴むという意志がある。
政略結婚とはいえ、わたしが「幸せ」になれないとは限らない。いつかきっと、アレクシス殿下と心を通わせることができると信じたい――今はそれだけが、わたしを支えている。
こうして、王太子アレクシスとの冷たい夫婦生活の幕が上がった。お飾りのように見えてしまう王太子妃、そして全く心を開かない冷酷な王太子。このまま関係が修復できないのなら、わたしは王宮の中で孤立を深めるだけかもしれない。
けれども、わたしは負けるつもりはなかった。笑顔を絶やさず、王太子妃としての務めを果たし、そしていつかこの生活を逆転してみせる。そのために、今は努力を積み重ねるのみ――。
そう心に決めて、わたしは明日からも果てしなく続く新しい日々に、毅然と立ち向かう準備をするのだった。
――このときは、まさかあの冷酷な王太子が、後にわたしを溺愛する日が来るなど想像もしていなかったのだけれど。