「……つまり、ぼくらはこうして話してるだけで、何かが変わってるかもしれないってことか?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、それも含めて考えるのが楽しいんじゃない?」
実柚はふっと息を吐くように笑って、またコーヒーを一口含んだ。その仕草には、どこか達観したような、それでいて生き生きとした生命力が宿っているように見えた。ぼくはその表情から目が離せず、もう一度彼女に問いかけたくなった。
「じゃあさ、変わるって、具体的にどういうことだと思う?」
実柚は少しだけ宙を見るように間を置き、今度は慈しむような柔らかな笑みを浮かべてこう答えた。
「それを自分なりに言葉にしていくのが、哲学の醍醐味だと思うよ。キミも少し考えてみて」
「ぼくは答えが知りたいんだけどな」
「ふふ、わたしはねー」
いたずらっぽく笑うと、実柚は空になったカップを片手にふわりと立ち上がった。
どうやら、お代わりを淹れに行くらしい。電気ポットに向かう華奢な背中を、ぼくは無意識に目で追っていた。
湯気が立ち上る光景が、妙に静かな温かさをまとっている。
「答えそのものよりも、キミがわたしと話すために、あれこれ言葉を探してくれる時間の方がずっと欲しいんだよ」
「……ぼくが、実柚と話すために?」
その言葉に、思わず心臓が小さく跳ねた。振り返った彼女の笑顔には、確かな自信と、ほんの少しの甘えが滲んでいるように見えた。
「そうそう。だって、わたしの話が長くなるのって、内心うんざりしてるくせに、いつも最後まで付き合ってくれるじゃない?」
「そりゃ、まあ……暇つぶしには、ちょうどいいからな」
精一杯の強がりを口にしながらも、ぼくの心は微妙にざわついていた。
実柚は、ぼくに気付きを与えるための『優しいきっかけ』を作ろうとしているのだろうか。
それとも、単にぼくとの時間を、少しでも長く引き延ばすための可愛らしい口実なのだろうか。
そんな風に考え始めると、実柚の何気ない言葉の一つひとつの、問いかけの意味が違ってくる。
「じゃあさ、もしぼくが考えるのをやめたら、どうする?」
意趣返しのように、ちょっとだけ意地の悪い問いを投げ返してみた。実柚はお代わりを用意する手を、ぴたりと止めた。
「やめたら?」
「ああ。考えるのが面倒くさくなってさ、ただ世間に流されて生きるって決めたら?」
実柚はカップを持ったままゆっくりと振り返り、少しだけ目を細めた。その表情には、怒りも呆れもなく、ただぼくの言葉をじっくりと吟味するような、静かな湖面のような気配が漂っていた。
「それなら、それでいいんじゃないかな。無理に考えさせるのは、わたしのしたいことじゃないもの」
拍子抜けするほど、あっさりとした答えだった。
「……あっけないな」
「でも、ね」
そう言って実柚は、新しいコーヒーの湯気が立ち上るカップを手に、ぼくの正面の椅子に戻ってきた。
「考えるのを一時的にやめたとしても、生きてる限り、きっと何かにぶつかるでしょ? 胸が締め付けられるような悲しいこととか、心が躍るような嬉しいこととか。そういう時に、ふと、また考えたくなるんじゃないかな」
「……そういうものなのか?」
「そういうものだと思うな。だって哲学って、高尚な本棚に埃をかぶって鎮座してるものじゃなくて、わたしたちが生きている限り、わたしたちの足元に、ほら、ここにも、あそこにも、そっと転がってるようなものだから」
その言葉に、ぼくは何も言い返せなかった。彼女の語る「哲学」は、もはや叔父が投げ出した難解な学問ではなく、こうしてぼくたちが交わす日常の会話や、揺れ動く感情の中にこそ息づいているように感じられた。
それを知った瞬間、少しだけ彼女の言葉に惹かれている自分を感じた。
「……じゃあ、もう少しだけ付き合ってやるよ。せっかくここまで話したんだしな」
ぼくのぶっきらぼうな言葉に、実柚はぱあっと目を輝かせると、待ってましたとばかりに次の話題を切り出してきた。
「ねえ、じゃあ次はこれ。『幸せって何?』って、どう思う?」
「……結局、そういう壮大な問いに戻るのかよ」
ため息をつきながらも、ぼくは少しだけ楽しくなっている自分に気づいていた。
たいてい、実柚が質問を投げかける時、この可愛らしい頭の中には、既に幾通りもの答えの断片が、きらきらと光る宝石のように用意されている。
それに応えるには、こちらも生半可な覚悟ではいられない。
だけど、まあ。難しく考えずに、シンプルに、素朴に考えてみれば。
「……今、この時間、とか?」
「え?」
実柚が、大きな目をさらにまん丸くなった。
つぶらな瞳に、戸惑ったぼくの顔が映り込む。
「なんだよ、その顔。幸せってのは、案外、何気ないものだっていうだろ。だから……今、実柚とこうして、コーヒーを飲みながら話してる、この時間、とかさ?」
声が尻つぼみになって、どんどん、自信がなさそうになってしまった。
実柚はしばらく何も言わなかった。ぼくの言葉を舌の上で転がすように吟味しているのか、それとも、ただ言葉を失っているのか。そっとテーブルに置かれたコーヒーカップの縁を、彼女の白い指先が滑る。
沈黙が少し長くなりすぎたのではないかと感じ始めた頃、実柚が小さく、本当に小さく、噴き出すように笑った。
「……ねえ、それ、ずるいよ、キミ」
「ずるい?」
実柚の声は、いつものおしゃべりなテンポではなく、どこか熱を帯びたような、それでいて震えるほど優しい響きをしていた。