「うん。なんていうか……キミって時々、本当に時々、こういうこと言うよね。何気なしにシンプルで、そのくせ、ちょっと響く感じの」
実柚はぼくの顔をじっと見つめたまま、くすくすと小さな笑いを重ねながら、愛おしそうに首をかしげた。ふんわりとした安心感が甘く溶け合う表情。
「いや、適当に、思ったことを口にしただけだけど」
「その『適当』がさ、なんでわたしがずっと考えてたことに近いわけ?」
「偶然だろ、ただの」
「……ほんとに?」
実柚は少し意地悪そうな目つきでぼくを見てきたけれど、その口元には微かな笑みが残っている。
「まあ、たしかにね。『今、この時間』って、たぶん、ううん、きっと正解なんだと思う」
「『たぶん』じゃなくて、『きっと』なん?」
「うん、きっと。幸せって、未来とか過去とかに探しに行くと見つからないんだよね。結局、目の前にあるのに、わたしたちがそれを見逃してるだけっていうかさ」
「……また哲学っぽいこと言い出したな」
ぼくが茶化すように言うと、「ふふっ」と目の前の花が綻ぶ。
「でしょ? でもね、それってわたしが哲学を学んだから言えるわけじゃなくて、こうしてキミとしゃべってるから、ふと気づけることなんだよ」
「ぼくと?」
「そう。哲学って、籠もって一人でうんうん唸るものだって思われがちだけど、本当は違うの。誰かと言葉を交わす中で、自分一人では見えなかった視点や、心の奥底に眠っていた感情に気づいていくものなんだよね。思考のキャッチボールみたいなものかな」
「それさ、実柚が勝手に言ってることじゃなくて?」
「あはは、ひどいなあ。ソクラテスっていう古代のすごい哲学者の人は、対話で物事を詰めるのが大事だって言ってたんだよ」
そう言うと、実柚はコーヒーカップをまた一口すすった。その仕草は、どこか満ち足りたようにも見えた。
たしかに、今まで「哲学なんて意味がない」と言っていた叔父は、どこか独りよがりで、自分の頭の中だけで答えを出そうとしていた気がする。
でも、人間が大切な答えを見つけるのは、誰かと会ったり、話したり、コーヒーを飲んだり、そういう他愛ない時間が必要なのかもしれない。だとすると、役に立つとか、立たないとかじゃなくて。
「一緒に考える誰かとの時間に意味を見出したり、とか? 自分とは違う価値観に触れることで、世界が広がったり?そういうことか?」
「そうそう! キミ、すごいね、飲み込みが早い! わたしもそう思ってるの。それって、すごく素敵なことだよね」
「……なんか、今日は実柚にしては、やけに素直に褒めてくれるじゃないか」
「でしょ? たまにはこういうのも悪くないでしょ?」
「なんだそれ」
「こうやって考えると、『哲学』って『幸せ』と密接な関係がありそうで、わたし、すっごく面白いんだ~♪」
実柚の屈託のない笑顔につられて、ぼくもようやく自然に笑うことができた。本当に、この時間が『幸せ』かどうかなんて、後になってみないと分からない。でも、少なくとも今、この瞬間は悪くない。
「ふーん。なら、あれか。実柚にとって哲学が特別なのは、その誰かと話すなかで、日々、感じたりしてることがたくさんあるからなんだな。それで実柚にとって、なにか大事な変化が起きた、とか」
話しながら、ぼくは考えをまとめようとするが、上手くまとまらない。元々口下手なのだ。
ただ、口に出すことで、整理できるものもあるのは知っていた。それは実柚のおかげだ。
「それか……その誰かと話すなかで、『変えたいもの』が……変えたいと強く願う何かがある、とかさ」
そこまで言って、ふと、ぼくは実柚の顔を見た。
え、なんで、耳まで真っ赤にして俯いているだろうか。さっきまでの快活さはどこへやら、肩が微かに震えているようにさえ見えた。
「こ、この話題は、もうやめようか! なんか、その、ね?」
「えー、なんでだよ」
「いいから! もう、話題を変える!」
慌てたような、切実そうな懇願。こんな風に狼狽える彼女を見るのは、本当に珍しい。ははん、さては図星だったか。
よほど、哲学に心惹かれた理由をぼくに知られたくないらしい。
「えー、なんでだよ。いいところだったのに」
「いいから! 今日はもう、おしまい! 話題を変える!」
そう宣言すると、実柚は深呼吸を一つ。いつもの調子を、取り戻そうとしているように見えた。
「とにかくね。こうしてキミと、とりとめもない話をしてるのも、わたしにとってはすごくすごく大事な時間なんだよ。それがどんな話題であれ、ね」
「へえ。でも、ぼくはそんなに深いこと考えてないぞ。いつだって、ただの暇つぶしだし」
わざと軽く、冗談めかしてそう言うと、なぜか大きなため息をつかれた。
失礼な奴だ。まあ、ぼくもかなり失礼な物言いをしているので、お互い様なけど。
「まあ、それでもいいんだよ。キミが暇つぶしだって言いながら、ちゃんと話に付き合ってくれるじゃない。そういうの、わたしは、うん、すごくありがたいって思ってるんだから」
「え? 他のやつでも、これくらい話せるだろ」
「意外といないもんだよ、こんな話できるのキミくらいだって」
「そっか。なら、まあ、これからも暇なときは付き合ってやらんでもないよ」
「ふふ、約束ね」
気を取り直したのか、実柚は悪戯っぽく笑いながら、細い小指をぼくの目の前に差し出した。その仕草があまりに子どもっぽくて。
苦笑しながらも、そっと指を絡めた。
――でも、まだ実柚の耳が赤い気がした。
「約束って……ぼくら、もうそんな年じゃないだろ」
「いいじゃない。約束はね、こうして形にした方が、ずっと守りたくなっちゃうものなんだよ」
そう言いながら、実柚はまた幸せそうにコーヒーを飲んだ。
これまで見たどの表情よりも柔らかく、温かかった。たぶん、こんな風に対話を続けていく限り、ぼくらはこれからも少しずつ変わり続けてしまうのだろう。
哲学が『変わるための考え』であるなら、少なくとも、実柚とこの関係は変わってしまう。
でも、そう考えた途端。
「変わりたくないなあ……」
そう、口をついてしまった。
「え? なにか言ったかな?」
「……いや、なんでもないよ」
実柚が他愛ない話や、難解な問いかけをぼくにだけしてくれる、このままの心地よい関係でありたい。
実柚の言葉の本当の意味を、その瞳の奥の輝きを、ぼくだけが知る特等席で考え続ける時間を、手放したくない。
だから、きっとぼくは彼女と違って、本当の意味では哲学には向いていないのだろう。ぼくは変わることを恐れているのだから。
(せめて、もう少しだけ変わらないでいてくれ)
誰にともなく、ぼくはそう祈った。
窓の外では、最後の一葉が、まるで何かを惜しむかのように、ゆっくりと地面に舞い落ちていく。