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第3話 じゃ、哲学と幸せってなあに?

「うん。なんていうか……キミって時々、本当に時々、こういうこと言うよね。何気なしにシンプルで、そのくせ、ちょっと響く感じの」


 実柚はぼくの顔をじっと見つめたまま、くすくすと小さな笑いを重ねながら、愛おしそうに首をかしげた。ふんわりとした安心感が甘く溶け合う表情。


「いや、適当に、思ったことを口にしただけだけど」

「その『適当』がさ、なんでわたしがずっと考えてたことに近いわけ?」

「偶然だろ、ただの」

「……ほんとに?」


 実柚は少し意地悪そうな目つきでぼくを見てきたけれど、その口元には微かな笑みが残っている。


「まあ、たしかにね。『今、この時間』って、たぶん、ううん、きっと正解なんだと思う」

「『たぶん』じゃなくて、『きっと』なん?」

「うん、きっと。幸せって、未来とか過去とかに探しに行くと見つからないんだよね。結局、目の前にあるのに、わたしたちがそれを見逃してるだけっていうかさ」

「……また哲学っぽいこと言い出したな」


 ぼくが茶化すように言うと、「ふふっ」と目の前の花が綻ぶ。


「でしょ? でもね、それってわたしが哲学を学んだから言えるわけじゃなくて、こうしてキミとしゃべってるから、ふと気づけることなんだよ」

「ぼくと?」

「そう。哲学って、籠もって一人でうんうん唸るものだって思われがちだけど、本当は違うの。誰かと言葉を交わす中で、自分一人では見えなかった視点や、心の奥底に眠っていた感情に気づいていくものなんだよね。思考のキャッチボールみたいなものかな」

「それさ、実柚が勝手に言ってることじゃなくて?」

「あはは、ひどいなあ。ソクラテスっていう古代のすごい哲学者の人は、対話で物事を詰めるのが大事だって言ってたんだよ」



 そう言うと、実柚はコーヒーカップをまた一口すすった。その仕草は、どこか満ち足りたようにも見えた。

 たしかに、今まで「哲学なんて意味がない」と言っていた叔父は、どこか独りよがりで、自分の頭の中だけで答えを出そうとしていた気がする。

 でも、人間が大切な答えを見つけるのは、誰かと会ったり、話したり、コーヒーを飲んだり、そういう他愛ない時間が必要なのかもしれない。だとすると、役に立つとか、立たないとかじゃなくて。


「一緒に考える誰かとの時間に意味を見出したり、とか? 自分とは違う価値観に触れることで、世界が広がったり?そういうことか?」

「そうそう! キミ、すごいね、飲み込みが早い! わたしもそう思ってるの。それって、すごく素敵なことだよね」

「……なんか、今日は実柚にしては、やけに素直に褒めてくれるじゃないか」

「でしょ? たまにはこういうのも悪くないでしょ?」

「なんだそれ」

「こうやって考えると、『哲学』って『幸せ』と密接な関係がありそうで、わたし、すっごく面白いんだ~♪」


 実柚の屈託のない笑顔につられて、ぼくもようやく自然に笑うことができた。本当に、この時間が『幸せ』かどうかなんて、後になってみないと分からない。でも、少なくとも今、この瞬間は悪くない。


「ふーん。なら、あれか。実柚にとって哲学が特別なのは、その誰かと話すなかで、日々、感じたりしてることがたくさんあるからなんだな。それで実柚にとって、なにか大事な変化が起きた、とか」



 話しながら、ぼくは考えをまとめようとするが、上手くまとまらない。元々口下手なのだ。

 ただ、口に出すことで、整理できるものもあるのは知っていた。それは実柚のおかげだ。


「それか……その誰かと話すなかで、『変えたいもの』が……変えたいと強く願う何かがある、とかさ」


 そこまで言って、ふと、ぼくは実柚の顔を見た。

 え、なんで、耳まで真っ赤にして俯いているだろうか。さっきまでの快活さはどこへやら、肩が微かに震えているようにさえ見えた。


「こ、この話題は、もうやめようか! なんか、その、ね?」

「えー、なんでだよ」

「いいから! もう、話題を変える!」


 慌てたような、切実そうな懇願。こんな風に狼狽える彼女を見るのは、本当に珍しい。ははん、さては図星だったか。

 よほど、哲学に心惹かれた理由をぼくに知られたくないらしい。


「えー、なんでだよ。いいところだったのに」

「いいから! 今日はもう、おしまい! 話題を変える!」


 そう宣言すると、実柚は深呼吸を一つ。いつもの調子を、取り戻そうとしているように見えた。


「とにかくね。こうしてキミと、とりとめもない話をしてるのも、わたしにとってはすごくすごく大事な時間なんだよ。それがどんな話題であれ、ね」

「へえ。でも、ぼくはそんなに深いこと考えてないぞ。いつだって、ただの暇つぶしだし」


 わざと軽く、冗談めかしてそう言うと、なぜか大きなため息をつかれた。

 失礼な奴だ。まあ、ぼくもかなり失礼な物言いをしているので、お互い様なけど。


「まあ、それでもいいんだよ。キミが暇つぶしだって言いながら、ちゃんと話に付き合ってくれるじゃない。そういうの、わたしは、うん、すごくありがたいって思ってるんだから」

「え? 他のやつでも、これくらい話せるだろ」

「意外といないもんだよ、こんな話できるのキミくらいだって」

「そっか。なら、まあ、これからも暇なときは付き合ってやらんでもないよ」

「ふふ、約束ね」


 気を取り直したのか、実柚は悪戯っぽく笑いながら、細い小指をぼくの目の前に差し出した。その仕草があまりに子どもっぽくて。

 苦笑しながらも、そっと指を絡めた。

 ――でも、まだ実柚の耳が赤い気がした。


「約束って……ぼくら、もうそんな年じゃないだろ」

「いいじゃない。約束はね、こうして形にした方が、ずっと守りたくなっちゃうものなんだよ」


 そう言いながら、実柚はまた幸せそうにコーヒーを飲んだ。

 これまで見たどの表情よりも柔らかく、温かかった。たぶん、こんな風に対話を続けていく限り、ぼくらはこれからも少しずつ変わり続けてしまうのだろう。

 哲学が『変わるための考え』であるなら、少なくとも、実柚とこの関係は変わってしまう。


 でも、そう考えた途端。


「変わりたくないなあ……」


 そう、口をついてしまった。


「え? なにか言ったかな?」

「……いや、なんでもないよ」


 実柚が他愛ない話や、難解な問いかけをぼくにだけしてくれる、このままの心地よい関係でありたい。

 実柚の言葉の本当の意味を、その瞳の奥の輝きを、ぼくだけが知る特等席で考え続ける時間を、手放したくない。

 だから、きっとぼくは彼女と違って、本当の意味では哲学には向いていないのだろう。ぼくは変わることを恐れているのだから。


(せめて、もう少しだけ変わらないでいてくれ)


 誰にともなく、ぼくはそう祈った。

 窓の外では、最後の一葉が、まるで何かを惜しむかのように、ゆっくりと地面に舞い落ちていく。

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