──百合の物語──
白無垢を脱いだとき、私は確かにひとつの音を聞いた気がした。
それは、乾いた畳が軋む音でも、障子の向こうを吹きすぎる風でもない。
それはもっと内奥の、胸の奥でひび割れるような音。心が、というにはありふれていて、肉体が、というにはあまりに透明な。
あれは、古びた家の記憶が、私のからだのどこかで目覚めた音だったのかもしれない。
夫はあの日、花婿というにはいささか疲れた顔で、私の指に指輪を嵌めた。
決して冷たいひとではない。
だが、手のぬくもりは、いつもどこか借りもののように思えた。
「おめでとうございます、奥様」
仲人の声が、やけに耳の奥に残っていた。
奥様──そう呼ばれるたび、私は宙に浮いたような感覚を覚えた。
自分がこの家に属していく未来は、あたかも他人の夢のようであった。
初めて旧家の門をくぐった日、そこに義兄がいた。
夫の兄、雪村信嗣──四十を過ぎたばかりの男で、目元の皺の影に、乾いた知性と、どこか醒めた情熱を湛えていた。
「百合さん。遠いところを、ようこそ」
そのとき彼の声は、ごく自然だった。
ただ、それが私の中の何かを震わせたことに、その時の私はまだ気づいていなかった。
この家には、不思議な静けさがあった。
古びた床の間、色褪せた襖、仏間に飾られた先祖たちの肖像画──そのどれもが、静かに私を見つめていた。
ときおり、信嗣が無言で家の奥から現れた。
廊下を歩く音さえ立てず、まるでこの家そのものが歩いているようだった。
「百合さん。ここに来るのは、怖くなかったのですか?」
彼が問うた。
私は笑ってみせたが、その笑みに、自分でも気づかない揺らぎがあった。
怖くなかったか? いいえ、きっと今も、怖いままなのだ。
夫は仕事で不在がちだった。
静かな昼下がり、信嗣と縁側で茶をすする時間が増えていった。
何も起きていない。
ただ、会話があり、沈黙があり、鳥の声があり、それ以上はなにも。
だが、沈黙の奥に、なにかが蠢いていた。
──君の母上は、昔、ここに住んでいたんですよ。
その言葉が落ちた瞬間、私の中の何かが確かに裂けた。
「……母が?」
私は訊き返した。
けれど、その声はすでに他人のもののように乾いていた。
「……そう。あれは、三十年以上前のことですがね。君の母上、冴子さんは、うちでしばらく奉公しておられたんですよ。まだ若い頃の話です。花のように美しい方だった。よくこの縁側で、夕方になると黙って空を見ておられた」
信嗣はそう言って、茶碗の縁を指でなぞった。
私の母は、父のことを語らなかった。
いつも「縁なんて風みたいなものよ」と笑っていた。
だが、その笑いが、今思えばどこか、切り立った崖に佇む人のようだった。
私の指先がふと震えた。
自分でも気づかぬうちに、信嗣の隣に座るその距離が、少しずつ近づいていたのだ。
いや、距離ではない。空気の層の向こう側に、彼の眼差しが、私のなにかを射抜いていた。
「何か、覚えていることはありますか。母のこと」
「……覚えていないほうがよかったかもしれません」
「でも、知りたいんです」
そう口にした瞬間、自分の中に巣食っていた衝動の輪郭がはっきりした。
私は知りたいのではない、崩したいのだ。
この家、この婚姻、この肌にまとわりつく“正しさ”のすべてを、瓦礫に変えてしまいたい。
信嗣はふと立ち上がり、奥の間へと歩き出した。
そして、一冊の古いアルバムを持ってきた。紙は焼け、端が茶色くなっていた。
彼の指が一枚の写真をなぞった。
「これです」
見た瞬間、胸がつまった。
写真の中の女性、それは確かに母だった。
若く、目の奥にどこか翳りを宿しながらも、はっきりとした美しさをもっていた。
そして、その隣には若かりし頃の信嗣が、わずかに笑って立っていた。彼女を守るように。
「……なぜ、私には何も……」
「人は、過去を沈めるために子を持つのかもしれませんね」
私は、その夜、一睡もできなかった。
夫は仕事で泊まりがけだった。
寝室の襖を開けると、母がそこに立っている気がした。遠い過去から呼び戻された影のように、無言で私を見つめているような気がした。
──あなたは、間違っている。
幻聴だったのか、夢の残響だったのか、私は自分の胸元を両腕で覆い、吐息を押し殺した。
その夜、月の光の中で、私はひとつの確信に至った。
この家の血は、私にも流れている。
愛してはならない人を、私は、もう愛している。
翌朝、夫が帰ってきた。
ワイシャツの首元には皺があり、革靴には泥がついていた。
勤め先の工場で急な機械の故障があったらしい。
「悪いな。せっかくの新婚なのに、留守ばかりで」
玄関で靴を脱ぎながら夫は言ったが、その声に濡れた情はなく、ただ形式的な響きだけが残った。
私は笑ってうなずいた。
笑顔を貼りつけるという行為が、こんなにも骨の折れることだったとは。
そのまま台所へ向かい、昨夜煮ておいた南瓜を温めた。
出汁のにおいが、ひどく現実的だった。
「兄さん、最近よく君と話しているらしいな」
箸を動かしながら夫が言った。
私は一瞬、手を止めた。
「ええ。お義母さまも体が弱いですし、日中は、ほとんどお義兄さまとしか……」
「ふうん」
夫はそれきり何も言わなかった。
だが、沈黙の奥に小さな棘が浮いていた。
彼は、何をどこまで知っているのだろうか。
あるいは、知っていて、見ないふりをしているだけなのだろうか。
私はこの家に来て、“観察される側”という感覚を覚えた。
嫁という立場は、外から見れば受け入れられるものに見えるのかもしれない。
だが、実際は厳しく沈黙に囲まれた、いわば透けた“牢”だった。
視線と記憶と血が、私を閉じ込める壁になっていた。
夜、寝室で布団に入ると、夫が背中越しにぽつりと呟いた。
「……君の母さん、昔ここにいたんだってな」
「ええ、お義兄さまから聞きました」
私の返事に、夫は少し身じろぎした。
「……兄さん、母さんのこと、好きだったと思う」
「……そうかもしれませんね」
「もしかして、俺たち、血がつながってたりするのかもな」
私は思わず息を呑んだ。
そして、目を閉じた。
夫のその言葉に、驚きはなかった。
ただ、痛みだけが残った。
それはまるで、夜の底で脈を打つ痛みだった。
「あなた、それを知ってて、私と結婚したの?」
「知らなかった。でも、今は……分からない」
沈黙のあいだに、柱時計が二回鳴った。
夫はそれきり、何も言わなかった。
ただ、背を向けたまま、まるで見知らぬ誰かが寝ているような距離感がそこにあった。
昼下がり、仏間に入ると、義母は縁側に座っていた。
毛布を膝にかけ、小さな湯呑を両手で包んでいる。
開け放たれた障子の向こうには、くすんだ梅の枝がゆるく揺れていた。
春の気配は、まだ遠い。
「……お義母さま」
私が声をかけると、義母はゆっくりと顔を上げた。
その眼差しには、過去を封じた人に特有の、鈍い光が宿っていた。
「百合さん、そこにお座んなさいな」
私は言われるがまま、義母の隣に正座した。
湯呑の中の番茶が、光に透けてわずかに赤く見えた。
「冴子さんのこと、聞いたのね」
母の名を口にされた瞬間、胸の奥の鍵が音を立てて外れたのを感じた。
「はい……母が、若い頃、こちらにいたと……」
義母は唇を結んだまま、しばらく黙っていた。
風が簾を揺らした。
廊下の木の板がきしむ音がした。
「冴子さんは、うちに来た時、まだ十八でした。あの子には、理由があったの。逃げてきたのよ」
「……どこから?」
「東京から。ある家の男の子を身ごもったって噂だったわ。けれど、それを誰も信じなかった。冴子さんはずっと、一人で生きようとしてた。あの頃のあの子は、まるで影みたいだったのよ。明るく微笑んでも、笑い声がどこにも響かないの」
私は義母の手を見つめた。
その手には、もう皺が深く刻まれ、時間の重さが染み込んでいた。
「あなたの父親のこと、冴子さんは言わなかったでしょう?」
「……はい。名前も、何も。写真さえ……」
義母は頷いた。
「うちの長男、信嗣。あの子が、冴子さんを好きになったの。でもね、それは……あの子にとっても、禁忌だったのよ」
私は思わず義母の顔を見た。
「まさか、私の父が……信嗣さんじゃ」
「違うわよ」
義母は首を横に振った。
「でも、信嗣は、あの子を逃がしてやった。ある日突然、冴子さんはいなくなったの。何も言わずに。残されたのは、簪一本……あなたの髪に似合いそうね」
義母の声は、遠くから聞こえるように感じられた。
耳鳴りがした。
自分の体が、自分のものではないような感覚。
私の骨は、名も知らぬ記憶によって軋んでいた。
「私は、あなたが来たときに思ったの。ああ、冴子さんの娘だって。姿かたちもそうだけど、どこか、眼の奥の寂しさが似てるのよ」
義母は、ふっと息を吐いた。
「冴子さんを閉じ込められなかった私たちは、今、あなたを見て試されてる気がする。……これは因果ね。冴子さんが、あなたをこの家に送り込んだ。そう思うのよ」
私は何も言えなかった。
この家の廊下が、押し入れが、障子の桟が、すべて記憶を持っているように感じた。
私の母がいた場所。逃げ出した家。
そこに今、私は嫁として、また娘として、また──彼女として──いるのかもしれない。
その夜、私は一通の封筒を見つけた。
古い鏡台の奥、引き出しの底に押し込まれていたそれは、黄ばんだ紙に包まれていた。
差出人は書かれていなかったが、字を見た瞬間、私の中の何かが確信した。
それは、母の手紙だった。
封筒の紙は、指先で触れるとほろりと音を立てるような、乾いた感触だった。
「百合」と墨で記された名前の下の日付は、二十五年前。
つまり、私が生まれる直前のものだった。
私は床に膝をつき、ゆっくりと便箋を広げた。
小さな文字は几帳面に整列していたが、ところどころ、震えた筆圧で綴られていた。
そこにあるのは、母というよりも、一人の娘、一人の女の吐息であった。
* * *
百合へ
もしこの手紙があなたの手に渡るとしたら、私はもうこの世にいないのでしょう。
それでも私は、あなたに伝えたいと思いました。
私が何者で、どこから来て、なぜあなたを産んだのかを。
あなたの父は、名も告げずに私の中を通り過ぎた人です。
恋でもなければ、愛でもありませんでした。
私は彼を憎んだことも、懐かしんだこともありません。
ただ、あの夜の後にあなたが宿ったこと、それだけが私の真実でした。
私はこの家で働いていたころ、救われたいと願っていました。
信嗣さんは、私に優しかった。
私を女としてではなく、人として見てくれました。
だけど、私にはそれを受け取る資格がなかったのです。
だって、あなたが私の中にいたから。
この家は、静かで、そして、怖い。
壁が、階段が、台所の蛇口までもが、何かを見ている気がします。
私の過去も、あなたの未来も、全部この家が知っているような気がしてきました。
だから、私は逃げます。
それは、あなたを守るためでもあります。
だけど、もしあなたが、何かの縁で再びこの家に戻ることがあり、この手紙を読んだのなら、そのときは自分の足で立ちなさい。
誰の娘としてでもなく、誰の妻としてでもなく。
あなた自身の名で、ここにいてください。 冴子
* * *
読み終えたとき、私はもう泣いてはいなかった。
涙は出尽くしていた。
ただ、掌の中の便箋が、ほんの少し震えていた。
廊下の灯りがにじんで見える。
私はその光に照らされながら、ふいに笑みを浮かべた。
鏡台の前に立ち、自分の顔を見つめる。
母によく似た横顔。
けれど、それはもはや冴子の影ではなかった。
私の顔だ。
百合という名の、ひとりの女の顔。
その夜、私は夫の寝室には戻らなかった。
縁側の襖を開け放ち、夜風を頬に受けながら、ひとりで茶を淹れた。
その静けさの中に、ふと気配を感じて振り返ると、信嗣が廊下に立っていた。
「……読んだのか」
「はい。……母の手紙でした」
信嗣は私の向かいに腰を下ろした。
灯りの届かない瞳が、何かを決意するように静かだった。
「君はもう、出ていくべきだ。ここは、冴子さんの記憶に縛られた家だ。俺も、過去から出られなかった。でも君は、そうじゃない」
「……でも、あなたもこの家に、縛られてるんでしょう?」
私の問いに、信嗣は首を横に振った。
「違う。俺は、この家に、自分の罪を刻んでしまった。冴子さんを助けるふりをして、自分のものにしたかった。君に惹かれたのも……その延長だった」
言葉は静かだった。
だがその静けさこそが、私の心の奥を強く打った。
「君には、未来がある。冴子さんはそれを君に託した。だから……逃げていい。いや、逃げるんじゃなく、選べ。君が、どこでどう生きるのかを」
私は頷くことも、反論することもできなかった。
ただ、その言葉が母の手紙と重なった。
私は誰の代わりではない。
母の影でも、義兄の幻想でも、夫の形式でもない。
この家に戻ってきたのは、終わりをなぞるためではない。
始まりを自分で選ぶためだ。そう思えた。
寝室の戸を開けると、直澄はベッドの上で本を読んでいた。
眼鏡の奥の瞳が、私を認めた瞬間だけわずかに動いたが、彼は本を閉じず、挨拶もしなかった。
その沈黙こそが、この家の常であった。
私は部屋の中央に立ったまま、言葉を探した。
しかし、言葉は見つからなかった。
沈黙の重さに引きずられながら、やがてそれでも絞り出すようにして口を開いた。
「……私の母のこと、知っていたのね」
直澄は、しばらくしてから本を伏せ、ゆっくりと眼鏡を外した。
そして、静かに頷いた。
「騙していてすまん。母から聞かされていたよ。君がこの家に来る前から」
「じゃあ、どうして私を……」
「君が冴子の娘だと知ったからだ」
直澄の声は、あまりにも平坦だった。
まるで事務的な報告のような口調に、私は背筋を寒くした。
「……それは、復讐? 償い? それとも……好奇心?」
直澄は立ち上がった。
そして、鏡台の前に歩み寄り、自分の姿を映した。
「君は綺麗だよ、百合。母に似ていながら、まるで違う顔をしている」
「私を、母の影として見ていたのね」
「影だろうと、実像だろうと、そこに形があれば人は触れようとする。違うか?」
「私はモノじゃない」
声が、怒りとともに喉を擦って出た。
「私は、あなたの家の償いのためにここに来たんじゃない。愛されたいと思ったからでもない。……ただ、私の足で立つ場所を探していただけ」
直澄は振り返り、私を見据えた。
その目の奥には、初めて見せるような、人間的な痛みがわずかに揺れていた。
「君の存在が、うちの母を変えた。信嗣を沈黙させ、父の死後の空白を埋めた。君は……この家の“業”を引き受けた存在」
「そんなこと、頼んでない」
私は睨み返した。
「あなたはこの家の一員でありながら、ただ沈黙を守っていた。私を愛するふりも、遠ざけるふりもして。──あなた自身は、何もしてこなかった。あなたは、この家と一緒に腐っていっただけ」
その言葉が届いたのか、直澄の指が小さく震えた。
だが、彼はそれを隠すように背筋を伸ばし、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、君は出て行くというのか?」
私は黙ったまま、視線を合わせた。
「……あなたが私に語らない限り、私はこの家を出る。今度は、母のように逃げない。私の意志で出ていく」
直澄は目を伏せたまま、しばらくの沈黙に沈んだ。
そして、しわがれた声でぽつりと言った。
「君が来てくれて……我々は救われたんだよ」
その声は、どこか母に似ていた。
きっと彼もまた、愛し方を知らずに生きてきた人だったのだろう。
私は、彼の肩越しに見える曇った窓を見つめた。
その向こうに、まだ名を知らぬ朝があった。
朝は、思いのほか軽やかだった。
濡れ縁に吊るされた風鈴が、風もないのに細く鳴った。
まるで、私の内側で何かが決壊して、風となって吹き抜けていくようだった。
茶箪笥の中から小さな風呂敷を取り出した。
中には、母の遺した手紙と、私が幼い頃から使っていた櫛、そしてこの家で暮らしはじめた頃に書きつけたメモ帳が入っている。
どれも、私の「過去」をかたどる小さな破片だった。
玄関で靴を履きながら、ふと背後に視線を感じた。
振り返ると、直澄が柱に寄りかかっていた。
シャツのボタンがひとつ開き、髪には寝癖が残っていた。
「……行くのか」
私は頷く。
「あなたと暮らした日々が無意味だったとは思っていません。でも、私は、私の時間を生き直したい」
夫は、言葉を探すようにしばらく口を開かずにいた。
やがて、ひどく静かな声で言った。
「俺には、それを止める資格がない。……ただ、ひとつだけ。君がいつか戻る場所が必要になったら、この家はまだあると思う」
私は微笑んだ。
「ありがとう。でも、その時は“この家”じゃなくて、“あなた”に会いに来ます」
その言葉に、彼はほんの一瞬、少年のような顔をした。
私は戸を開けた。
朝の空気が肌を撫でる。
階段を下りながら、私はこの家の匂いを胸の奥に刻んでいた。木と、雨と、時間の匂い――それらは、私を苦しめもしたが、育てもした。
駅へ向かう道、私はときどき振り返った。
あの灰色の瓦屋根が、角を曲がるたびに小さくなっていく。
だけど、私はもう戻らない。
この足で、別の土地へ行く。
別の名前でもなく、百合として。
* * *
午後、列車の窓から見える田園風景に、私はそっと頬を預けた。
母が果たせなかった「旅」を、私が引き継いでいる。
そんな感覚があった。
母は逃げた。
私は選んだ。
似ているようで、決定的に違う。
母は過去を背にして生きた。
私は未来を、前を向いて歩いていく。
風の音に目を覚ます。
高原の町はすっかり春の気配に包まれ、ベランダの鉢植えからはミモザの小さな芽が顔を出していた。
私は今、山間の小さな図書室で働いている。
蔵書は多くないが、町の人々はよく本を借りに来る。
子どもたちは冒険物語を、年配の人は戦争や植物の本を。
それぞれの「生きた軌跡」を読みにくるのだ。
コーヒーを淹れて窓辺に座ると、郵便受けの投函口から、一枚の封書が飛び出しているのが見えた。
差出人は「堀内直澄」。
時が戻る音がした。
白い封筒を開くと、便箋が一枚、丁寧な文字で埋められていた。
* * *
百合へ
君がこの家を出て五年が経った。
母は昨冬に亡くなり、信嗣も遠くに転勤した。
家は今、僕一人だ。
君がいなくなってから、僕は少しずつ過去と向き合うようになった。
いや、君がいた時にはできなかったことを、ようやく始めているのかもしれない。
家は今も静かだ。
ただ、その静けさはかつての重苦しさとは違う。
君が持ち込んだ風が、今もどこかで吹いているように感じている。
どうか君の歩みが、これからも優しくあるように。 直澄
* * *
便箋を折りながら、私は小さく笑った。
彼は彼なりのやり方で、やっと言葉を持ち始めたということなのかもしれない。
出ていくとき、私は「戻らない」と決めていた。
今でもそれは変わらない。
けれど、こうして過去と文通できることを、嬉しく思っている。
窓の外を見ると、一本の風見鶏がくるくると回っていた。
風の方向は変わる。
でも、風そのものはいつだって、私の中に吹いている。
* * *