──信嗣の物語──
あの家の二階の西側の部屋は、今でも「青い部屋」と呼ばれている。
壁紙は薄く剥げて、空の色のような淡い青色。
祖父が若いころに貼り替えたものだと母が話していた。
夏の夕方、木漏れ日が窓から差し込み、青い壁に影を落としていた。
あの頃は、ただただその部屋の静けさに慰められていた気がする。
冴子さんがあの家にやって来たのは、僕が大学三年の夏休みのことだった。
父の妹の娘──つまり、僕にとっては従姉になるのだろうけれど、戸籍上の複雑な事情で、はっきりとした家族の繋がりを感じられなかった。
彼女は、どこか空気のように薄く、けれど強く、家の中に風を巻き起こした。
最初に会ったとき、僕は怖かった。
彼女はあまり笑わなかった。いや、笑ってもどこか哀しみが滲んでいて、その目はいつも遠くを見ているようだった。
話しかける言葉も見つからず、ただ彼女がいる部屋の空気に慣れようと努めていた。
だが、ある日、彼女が青い部屋の窓際で、僕が読んでいる本に目を留めた。
それはアルベール・カミュの『異邦人』だった。
「……カミュ?」
彼女の声は驚きに満ちていた。
「うん。図書館で借りたんだ。読み返したのは久しぶりだけど」
「好きなの?」
「正直、あの時は自分の意思じゃなくて、好きだった人の趣味をなぞってたんだと思う」
「そうなんだ」
彼女の言葉に、僕ははっとした。
無口でよそよそしかった彼女と、まともに会話したのはこれが初めてのような気がした。
そして、その瞬間、僕の胸の奥にひそかに芽生えた感情は確かなものになった。
けれど、何もできなかった。
僕は大学生で、いつかはこの家を出ることを考えていた。
彼女は、いつも自分を抑えて生きているように見えた。
ある晩、冴子さんはぽつりと言った。
「信嗣さん。あなたは、逃げてもいいのよ。ちゃんと自分の人生を持って」
その言葉は僕にとって、呪いのようであり、祝福のようでもあった。
逃げることの許されなさに縛られていた自分に対する、解放の扉だったのだと思う。
それから年月が経ち、僕は東京での生活を始めた。
郊外の小さな印刷所に勤め、日々機械の音とインクの匂いに囲まれている。
夜になると、社屋の裏の小さな喫煙所で空を見上げていた。
そのとき、あの青い部屋の窓から見えた夕暮れの空を思い出した。
冴子さんから手紙が届いた。
その封筒を見た瞬間、胸の奥に古い風が吹いた。
便箋には、今の仕事のこと、山間の町の小さな図書室で働いていること、春に咲いたミモザの花の話が丁寧に綴られていた。
青い部屋の記憶は薄れ、曖昧になっている。
けれど、あの部屋で彼女とカミュの本を話題にした日だけは、色褪せない光景として残っていた。
あの日、彼女が僕に言った言葉の意味を、今ようやく噛みしめている。
「逃げること」ではなく、「選ぶこと」。
それが大人になるということなのだと。
次の休日、僕は古本屋でカミュの『異邦人』を買った。
彼女と話したあの頃の表紙とは違ったけれど、ページをめくると懐かしい匂いがした。
帰り道、駅前のベンチに腰を下ろし、ゆっくりと本を開く。
誰の真似でもなく、自分の意思で物語を読むことの幸福を感じた。
ふと、もし彼女がこのベンチにふらりと現れたら、何を話せばいいのだろうか、と考えた。
たぶん、何も話さずにただ本を差し出すだけでいいのだと思う。
それで、十分だと思った。
季節はゆっくりと移ろい、冬の冷たい風が街の隅々まで染みわたるようになっていた。
僕はまた、あの青い部屋のことを思い出していた。
あの部屋で過ごした日々の中で、僕たちは言葉を交わしながらも、距離を縮めることはできなかった。
それでも、僕の中で彼女は、いつもどこか儚く輝く存在であり続けている。
ある晩、いつものように仕事帰りに寄った小さなカフェの片隅で、また、冴子のことを思い出した。
ここに彼女が来たら、どんなふうに話すのだろう。
僕は自分の心の声に耳を傾けることができず、ただ目の前の窓の外を見つめていた。
その時、ポケットの中で震える通知に気づいた。
彼女からのメッセージだった。
「寒いね。今、近くにいるんだけど、温かい飲み物でも飲みに行かない?」
その短い一言が、心の奥底にぽっと灯をともした。
僕はすぐに返信を打った。
「よろこんで」
約束の場所は、小さな町の図書室のすぐ隣にある、こぢんまりとした喫茶店だった。
扉を開けると、ほんのりと珈琲の香りが漂い、静かなジャズが流れていた。
彼女はすでに席についていて、窓の外をぼんやりと見ていた。
青い部屋の記憶を呼び起こすように、どこか遠くを見つめる瞳。
「久しぶり」
声は静かだったけれど、僕の胸に真っ直ぐに届いた。
「来てくれてありがとう」
二人の間にあった時間の溝は、話し始めてすぐに埋まることはなかった。
けれど、言葉を重ねるごとに、少しずつ心の壁が溶けていった。
彼女が話した。
「あの青い部屋は、私にとって居場所でもあり、逃げ場でもあった。信嗣さんはどう?」
僕は答えた。
「僕にとっては、複雑な思い出の場所だよ。愛しいけれど、触れてはいけないもののようで」
時折、彼女の瞳に涙が光った。
その瞬間、僕はそっと手を伸ばし、彼女の手を包んだ。
「これからは、少しずつでも、共に歩いていけたらいいね」
彼女は小さく頷き、微笑んだ。
外はもう深い夜の闇に包まれていた。
窓から見える街灯が、ふたりの影を静かに映し出していた。
あの日から、僕たちは互いの距離を確かめ合うように、少しずつ会う頻度を増やしていった。
ある夕暮れ、僕たちは図書館の屋上に上ってみた。
冬の冷たい風が頬を撫で、空は灰色の雲に覆われていたけれど、遠くの街灯はぽつぽつと灯り始めていた。
僕は打ち明けた。
「ずっと自分の居場所を探していた。逃げることしかできなかった時期もあった」
言葉にすることで、胸の奥にあったもやもやが少しずつ晴れていくような気がした。
「でも、こうして君と一緒にいると、怖くない気がする」
僕はそっと冴子さんの手を握った。
彼女もそれに応え、小さく微笑んだ。
「ありがとう、信嗣さん」
それからの日々は、決してドラマチックではなかった。
けれど、互いの存在が少しずつ確かな支えとなり、ふたりの歩幅が自然と揃い始めた。
青い部屋はもう、過去の傷を映す鏡ではなく、これからの未来を見つめる窓になった。
新しい季節が巡る頃、僕は彼女に小さな贈り物を渡した。
それは、あの『異邦人』の新しい装丁の本だった。
「これからも、君と共に、物語を紡いでいきたい」
彼女の瞳が潤み、やわらかな笑顔がこぼれた。
しかし、その夢が叶うことはなかった。
< 了 >