1.1 婚約破棄の衝撃
それは、早春のまだ肌寒さが残るある日の夜会だった。王宮の舞踏会場には、豪華絢爛なシャンデリアがいくつも吊り下げられ、硬質な輝きを放つ大理石の床には貴族たちの衣擦れの音がかすかに響く。天井に描かれた壮麗なフレスコ画が灯火に照らされ、その下で華やかなドレスを身にまとった貴婦人たちと、軍服や礼装を着込んだ紳士たちが言葉を交わしている。
公爵令嬢オードリーはそんな場にあっても、ひときわ目を引く存在だった。深い紺碧のドレスを身にまとい、揺れる金の刺繍が夜空を切り裂く流星のように輝いている。彼女は笑みを浮かべながらも心を落ち着かせることができず、まるで小鳥が胸の中で翼をばたつかせているような、落ち着かない鼓動を感じていた。
理由は明快だ。今宵の夜会は、王太子アルベルトとの正式な婚約発表が行われるはずだったからである。オードリーは王家からの要請に従う形で幼少期よりアルベルトと幾度も顔を合わせ、王家の行事に同席してきた。公爵家としても、王家とのつながりを得ることはこの上ない名誉。しかもオードリー自身も幼いながらにアルベルトを慕う気持ちがあった。それらが積み重なり、今日という婚約発表の日を迎える運びとなったのである。
会場には国王や王妃、その他多くの貴族たちが集まっていた。オードリーは父である公爵に伴われながら、母とともに奥の貴賓席近くへ進む。視線が一斉に自分へ注がれているのがわかる。侍女や女官らがひそひそとささやきあい、貴族たちが複雑な表情を見せているのを横目で捉えるたび、オードリーの胸は高鳴った。噂好きの人々が、王宮では次の王妃候補としてのオードリーに何を言っているかは想像に難くない。
父は厳格な横顔のまま沈黙を貫き、母も緊張の面持ちだ。舞踏会場の中央では、先に到着していたアルベルトが整然とした立ち振る舞いで貴族たちに挨拶をしている。薄金色の髪と長身、そして王家の証である装飾が施された上質なサッシュが嫌でも目に入る。奥二重の瞳は穏やかさを帯びているように見え、彼を知らない者が見れば「優雅な王太子殿下」と称えるだろう。
オードリーがアルベルトのいる中央の広間に到着すると、周囲の会話がすうっと途切れ、場が静まった。王妃がちらりとオードリーに目を向け、「さあ、準備はよろしいでしょうか」と、その場に控えていた侍従に合図を送る。ついに、今日の目玉である婚約発表がなされるのだ——オードリーは口元を結び直し、息を整える。しかしその瞬間、アルベルトが言い放った言葉は、彼女の心に重々しくのしかかる衝撃だった。
「公爵令嬢オードリーとの婚約は、ここに破棄させていただく」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。自分の耳が正しく言葉を捉えられなかったのか、それとも夢を見ているのか。脳が混乱し、思考が真っ白に塗りつぶされる。周囲で微かな声が上がり、あっという間に動揺の波が会場を包んでいくのがわかった。王妃や国王でさえ驚きに目を見開き、オードリーの父と母は、血の気が引く思いでアルベルトを見つめている。
しかしアルベルトは視線を逸らさず、はっきりと再度言うのだ。
「もう、彼女とは結婚できない」
オードリーの顔は真っ青になり、心臓が痛いほど音を立てていた。これまで自分は王太子と婚約が約束された存在として、王家と公爵家の橋渡しを務めるべく礼儀作法や学識を学んできた。それが、今日の一言で全て崩れ落ちる。アルベルトはそのまま、控えていた側近の男性を伴って、伯爵令嬢ソフィアをそっとかばうように壇上へ引き上げた。
ソフィアは艶やかな金色の巻き髪を揺らしながら、どこか勝ち誇った表情でオードリーを見下ろしている。まるで「これがあなたの敗北よ」と言っているかのように。その様子を見たオードリーは、ようやく自分が悪役として扱われていることを理解した。なぜ、どのようにして自分がこんな仕打ちを受けなければならないのか。叫びたいのに声が出ない。手足が震えて立っているのが精一杯だった。
貴族たちは一斉にざわつき始め、同時に噂話が渦を巻く。「オードリーが何か不義を働いたに違いない」「いや、王太子殿下を翻意させるような重大な問題があったのでは」——そのどれもが憶測にすぎない。しかし王太子自らが婚約破棄を宣言した以上、多くの者はアルベルトの言うことを信じ、オードリーに嫌疑を向けるだろう。
オードリーの父は硬い表情で国王のもとへ歩み寄ろうとするが、そばで動きを封じるように控えていた近衛兵に止められた。公爵という高位の爵位であっても、王家の意向に逆らう行為は大きなリスクを伴う。母はまるで悪夢のような光景に目を覆いそうになりながらも、懸命にオードリーの手を握っている。
「オードリー、しっかりなさい。どうして殿下はこんなことを……」
母の震える声に、オードリーはようやく息を飲み込み、唇を噛んだ。「私にもわかりません……」と答えるのが精一杯だ。頭の中は混乱し、涙が今にも溢れそうになる。だが、ここで泣いたらすべてが負ける。自分が悪者であると見なされている状況を、さらに悪化させるわけにはいかない。
数分にも満たない出来事だったはずなのに、オードリーには永遠のように感じられた。目の前の華やいだ会場が遠のいて見え、人々の非難と好奇の入り混じった視線が刃のように突き刺さる。その鋭さに身を切られる思いで、オードリーはかろうじて立ち続けている。
アルベルトは淡々と話を続ける。「私と公爵令嬢オードリーは折り合いが悪く、性格や価値観の違いから結婚を続けることができないと判断しました。これまで婚約していた事実は撤回し、今後の王宮行事からも彼女を外すことを提案いたします」
その言葉に国王や王妃がどのように答えるのか、オードリーには聞こえなかった。耳が塞がれたように周囲の音が遠く感じ、視界がぐらりと揺れる。父や母、そして周囲の者たちの動揺が波紋のように広がっていく中、オードリーはなんとか意識を手放さずにこらえた。
(どうして……どうして、こんなことになっているの……!)
オードリーの胸には、怒りや悲しみ、恐怖など、さまざまな感情が渦巻いていた。いつの日か王太子妃になると信じ、幼いころから努力を重ねてきた。その道が無残にも断ち切られる——それだけならまだしも、まるで自分が「悪い女」のように扱われているとしか思えない言葉の数々。それらに対する言い返しの機会すら与えられないまま、王太子自らが婚約破棄を宣言したという事実。オードリーはただ唇を噛み、震える両手を必死に押さえ込むしかなかった。
この夜会は、そもそも婚約発表のための場であったはずだ。貴族社会においては、婚約発表は盛大な祝福の儀式として認識され、親しい友人や同盟関係にある家系などがこぞって congratulation を述べる場である。そのはずなのに、一転してあからさまな「破棄」——しかも公開の場で宣言されるとは、前代未聞のスキャンダルといえる。
国王は動揺を隠せず、王妃も困惑の色を隠さない。しかしアルベルトの言葉を否定することはできないようだった。王家にとっても、公爵家との縁組みをここで断つのは、相応の理由があるのだろうと推察される。何か重大な不祥事がオードリーにあるのではないか、と誰もが考えるに違いない。
が、その理由についてアルベルトは何も具体的に語らない。まるで「あとは察してほしい」という態度を貫いているかのようだ。そうした無言の圧力をかけられれば、多くの貴族は「オードリーがよほどの悪事を働いたのだろう」と信じ込んでしまう。
結果、夜会は混乱に包まれたまま幕を下ろし、オードリーたち公爵一家も早々に退出を余儀なくされた。華やいだはずの祝宴は、まるでその場の温度を一気に氷点下へ落としたかのように冷え込んでいった。
王宮の石造りの廊下を歩くオードリーの足取りは重い。母はずっと彼女の腕を取り、落ち着かせるように寄り添っている。父は苦々しい表情のまま口を閉ざしており、周囲に侍従や近衛兵がいる中で軽々しく言葉を発しない。
今やオードリーは「王太子殿下に見放された娘」として、その名声に大きな傷を負ってしまった。婚約破棄の裏に何かあると邪推されても、否定する術はない。自ら弁明しようにも、王太子自らが公式の場で破棄を宣言した以上、誰も聞く耳を持つはずがないのだ。
夜会を後にする馬車の中で、オードリーはひどく長い沈黙を保ち続けた。母が心配そうに声をかけても、そこに返せる言葉が見つからない。頭の中では疑問が渦を巻き、なぜアルベルトがそんな行動を取ったのか、なぜソフィアがあの場で隣にいたのか、その理由すらわからないまま、オードリーはただ泣くことをこらえ続けていた。
こうして、人生の最も輝かしいはずだった一夜は、オードリーにとって破滅の序章となったのである。
---
1.2 大切な人々の裏切り
翌朝。公爵家の広大な屋敷の中は重苦しい空気に包まれていた。使用人たちも皆、王宮での一件を噂しながら動揺を隠せないでいる。オードリーの父である公爵は、書斎に籠もりきりで執務をしているが、その眉間の皺は深く、時折机を叩く音が遠くまで聞こえてくるほど苛立ちを募らせていた。
公爵家の面子を潰されたという事実——これは貴族社会において由々しき問題だ。国を牽引する王太子から“婚約破棄”を言い渡されたことで、公爵家全体の名声が揺らぎかねない。父としては、王家と対立する形をとるわけにもいかず、しかし娘が誤解されているのなら一刻も早く真実を明らかにしたいという思いもある。だが、下手に動けばさらに不利な立場に追い込まれるかもしれない。
母もまた、オードリーの寝室に足繁く通い、「あなた、大丈夫?」と何度も声をかけてくれる。しかしオードリーは、昨夜のショックからまだ抜け出せず、心が沈んだままだ。もし本当に自分が責められるべきことをしたのであれば仕方ないが、身に覚えがまったくないからこそ、この状況を理解できずに苦しんでいる。
オードリーのもとには、数人の友人や知り合いから短い手紙が届いた。しかし、その多くは当たり障りのない文面で、「大事にならないことを祈っています」「もし助けになれそうなら声をかけてください」といった気休め程度のものだった。本当に自分を心配しているとは思えない、どこか遠巻きに見るような感覚が伝わってくる。
屋敷の外へ出れば、すでに王宮から広まった噂が町中にまで伝わっているだろう。どのように報じられているのかは想像に難くない。「公爵令嬢オードリーは王太子を手玉にとろうとした悪女」「財産目当てで近づいたものの、正体を見抜かれて破談になった」などなど。人々は往々にして、スキャンダラスな話題に飛びつくものだ。
オードリーは自室の椅子に腰掛け、窓の外の曇天を眺めながら深く息をついた。今後どうなるのか——王太子の花嫁候補として生きてきた人生設計が、ある日突然破綻したのだ。周囲が手のひらを返すように冷たくなっていくのも、時間の問題だろう。
そこに、侍女頭が控えめにドアをノックし、入室を許されると一枚の手紙を差し出した。
「お嬢様、こちら……今朝届けられたものです」
受け取って封を開けると、差出人は親しかったはずの伯爵令嬢ステラからだった。文面は丁寧だが内容は辛辣なものだった。「今回の婚約破棄の件で、私はあなたと距離を置かざるを得ない立場になりました。先日の舞踏会での態度を見ても、あなたが今まで私たちに隠してきた真意を知った以上、一緒に行動するわけにはいかないのです」——まるでオードリーが何か裏工作でもしたかのような書き方がされている。
ステラの手紙を読み終えたオードリーの手が、かすかに震えた。彼女は幼い頃からの友人だったはずだ。お互いに好きな花の話をし、将来は一緒に宮廷で活躍しましょうと夢を語り合った仲だった。それが今となっては、「あなたに裏切られた」と言わんばかりの書きっぷり。しかも自分が何を「裏切った」のかすら覚えがない。
(このままだと、本当にみんな私から離れていく……)
それでも、オードリーは弱音を吐くまいと決意する。父や母を心配させたくないという気持ちもあるが、それ以上に、自分が無実であることを証明したいという気持ちが強かった。何かがおかしい。アルベルトとソフィアが突然ああいう形で婚約発表を台無しにしたのは、きっと裏に理由がある。
ほどなくして、オードリーは屋敷の廊下を歩いていると、両親の言い争う声が聞こえてきた。扉の向こう、書斎でのことのようだ。普段は滅多に感情をあらわにしない公爵と、穏やかな母の口調が荒くぶつかり合っている。立ち聞きするつもりはなかったが、声が大きくて漏れ聞こえてくる内容に、オードリーは胸を締めつけられる思いがした。
「なぜ、もっと早くに手を打たなかったのです? 王家が何を考えているのか、どこからか情報を得ることはできなかったのですか?」
「私だって手を尽くしたわ! それでも、アルベルト殿下がどういうつもりなのか誰もわからない。ソフィア伯爵令嬢の動きも、何か妙だったけれど……まさかこんな形で娘を陥れるなんて考えてもみなかったわ」
「……公爵家として、これ以上の醜聞は避けたい。オードリーの名誉を取り戻すためにも、早急に動かねばならんが、下手に騒ぐと国王陛下との関係がまずくなる。だからといって、黙っているわけにもいかん」
続く言葉は低い声でよく聞き取れなかったが、扉越しに聞こえる父の怒りに満ちた声色は、オードリーの心をさらに重苦しくさせる。
(私のせいで、父も母も苦しんでいる……)
オードリーは扉に寄りかかり、ぎゅっと目を閉じてうつむく。もし自分が何か不手際をしたのであれば謝りたいし、償いたい。けれど、真実がわからない以上、どうにもならない。
そんな中、ふと頭をかすめるのは、昨夜のソフィアの表情だった。アルベルトの隣に立ち、何か得意げに微笑んでいたあの笑顔。おそらくただの偶然ではない。これまでもソフィアとは接点がなかったわけではないが、親しい仲でもなかった。にもかかわらず、彼女は王太子のそばで「もう彼女とは結婚できない」と断言するアルベルトを支えるかのような姿勢を示していた。
オードリーにはまったく理由が見えない。なぜソフィアがあそこまで積極的に王太子の横に立ったのか。まるで、もともと王妃の座を狙っていたかのようにも感じる。しかも、それがただの羨望ではなく、ある種の“敵意”にも似た感情をオードリーに向けているのではないか——そんな嫌な予感が胸に残る。
だが、ソフィアが何を企んでいようと、肝心のアルベルトがそれを受け入れ、オードリーを切り捨てたのは厳然たる事実だ。そこには、よほど強固な理由があったのか、あるいはアルベルト自身がオードリーを利用し終えたとでも思っているのだろうか。いずれにせよ、今まで信じていた相手に裏切られたという現実は、オードリーにとって耐え難い屈辱だった。
日を追うごとに王宮からの「通達」が、公爵家をさらに追い込む。例えば、これまで公爵家の一員として参加していた王宮主催の文化交流会や、慈善活動の場からもオードリーを外すようにという連絡が届き始めた。名分は「婚約を解消したため、周囲に混乱を招かぬように」というもの。だがそれは同時に、オードリーに「王宮の行事に顔を出す権利がない」という印象を与え、貴族たちの間に「王家から見放された娘」という認識を加速させる。
また、公爵家に寄せられる文書や書簡の中には、露骨にオードリーへの批判が書かれているものもあった。差出人不明の投げ込みのような文書が増え、「あなたの振る舞いが原因で公爵家は国にとって不必要な存在になる」とか、「王太子殿下を手玉に取るような悪女に、これ以上国を汚させるな」といった内容まで見受けられた。根拠のない中傷とわかってはいても、精神的には大きなダメージを受ける。
友人と呼べる存在も、ほとんどがオードリーから離れていった。彼らにしてみれば、王家と事を構える形になるかもしれない公爵家に肩入れするのはリスクが高い。もともとオードリーを羨んでいた者や、敵対的な感情を密かに抱いていた者は好都合とばかりに噂話を広める。
かつては晩餐会や小規模なサロンの集まりに招かれる機会が多かったオードリーだが、それもぱったりと途絶えてしまった。表向きの理由は「ちょうど都合が合わない」「定員が埋まっている」などだが、実際には「婚約破棄された娘を迎え入れるのは王太子殿下への反逆とみなされるのでは」と警戒されているのが透けて見える。
孤独感がオードリーの心を覆いつくす中、それでも気丈に振る舞おうとするのは、彼女なりの自尊心があったからだ。どれだけ辛い仕打ちを受けても、公爵令嬢としての品位を守り抜くことが、唯一自分を支える術だと感じていた。
だがその夜、寝る前に鏡を見て、ふと自分の面持ちがげっそりとやつれているのに気づいた。頬はこけ、目の下には薄くクマができている。髪はいつもより艶を失い、見違えるほど生気がない。これが「王太子妃候補」として注目を浴びていた頃のオードリーだと思う者は少ないだろう。
(これでは、ますます人前に出られなくなる……)
視線を鏡に向けたまま、オードリーは思う。自分はいったい何をしたのだろう。何ができるのだろう。このままでは公爵家の名誉までもが失墜し、両親の努力や家名にまで泥を塗ってしまいかねない。
翌朝、父が食堂に姿を現さなかった。書斎に閉じこもり、執事を通じて「今日は誰とも会わない」と告げたらしい。母は必死に父を慰めようとするが、彼女も疲弊が隠せず、オードリーに「あなたはあなたで休むなり、何か気晴らしをしてきなさい」と言ってきた。
王宮の夜会から数日が経ったが、状況は少しも好転せず、むしろ悪化の一途を辿っている。そんな折、オードリーのもとに届いた噂があった。それは「アルベルト殿下が伯爵令嬢ソフィアと親密に過ごしている」というものだ。そして、この動きは単なる男女の仲というだけでなく、彼女が“次の王太子妃候補”として取り沙汰され始めているらしいという話だった。
オードリーはその噂を聞いた時、胸が張り裂けそうな痛みと怒りを覚えた。もしアルベルトとソフィアが本当にそういう関係にあるならば、なぜ自分を引きずり落とす必要があったのか。もしかすると、ソフィアのバックには何らかの力ある貴族か、もしくは王家の一部勢力がついているのではないかとさえ考えられる。
これまで信じていた「婚約者」の王太子と、面識はあっても親しいとは言えない伯爵令嬢ソフィア。彼らが結託していることが明白になりつつある状況に、オードリーは「もはや自分は利用価値がなくなった存在として切り捨てられたのではないか」という猜疑心を抱くようになる。そして、その猜疑心は日に日に強まっていく。
周囲の貴族たちも、アルベルトがいずれソフィアと婚約するのではないかと憶測し始め、公爵家からは距離を置こうとする動きがますます顕著になる。これこそが、オードリーがこれまで「大切な人々」だと思ってきた者たちの裏切りであり、あるいは現実的な保身の姿だった。
誰もが口をつぐみ、オードリーを遠巻きに扱い始める。“もともとオードリーは高慢な令嬢だった”と言う者もいれば、“王太子殿下を誑かし財産をせしめようとした悪女”と罵る者もいる。自分を実際に知っているはずの者までもが、噂に乗っかる形で離れていくのは、耐え難い苦痛だった。
それでも、オードリーは自室で一人、うつむきながら小さく呟いた。
「私は……私は、そんな女ではない。私は悪いことを何もしていない……」
その言葉はあまりにも弱々しく、頼りなく聞こえる。けれど、こうでもしなければ心の支えがどこにも見つからない。自分を信じることさえ捨ててしまったら、もう何も残らないのではないか——その恐怖感が、彼女の胸を苛んでいた。
かつて信頼していた相手の裏切り、周囲の人々の冷遇。それらがいっそう深い孤独の淵へオードリーを追い込む。こうして、公爵令嬢オードリーは心の底から孤立を感じながらも、自らの誇りだけは最後の砦として守り抜こうと決意するのだった。
しかし、この先、彼女をさらに厳しい運命が待ち受けていることなど、まだ誰も知らない。オードリー自身でさえ、自分がここからどのように立ち上がり、どのような未来を掴むのか、想像すらできなかったのである。