「ぎゃああああ――っ!!」
夜の学校の中庭に若谷紗南美の悲鳴が響いた。ギシッ…ギシッ……。
木の枝がきしむ音と一緒に、紗南美の目の前で一人の人間が揺れている。夜風が、桜の枝をそっと揺らし、吊り下がった遺体を揺らす。その桜の木に、石井隆の姿は確かにあった。白い首に縄が、闇に浮かび上がる彼の顔面を締め付けている。紗南美は、その光景を仰ぎ見た。石井隆の変わり果てた姿は、満月の光に照らされ、より一層際立っている。紗南美は驚きで体が固まるということを初めて体験した。自分の目の前で、数時間前まで言葉を交わしたクラスメイトの石井隆が首をつっている。首が脱臼したのか伸びているように見える。
人が人でなくなった……。目の前にあるのは肉の塊だ。それが縄につるされて揺れている。怖い、痛ましい、なのに目が吸い寄せられて離れない。あまりの驚きで体だけでなく思考まで固まってしまったのか? 紗南美の瞳孔は開ききり、信じられないという表情で、固まったまま動かない。胸に突き刺さるような衝撃が、全身を駆け巡る。冷たい風が、紗南美の頬を撫でるが、その冷たさは、彼女の心の凍り付くような恐怖に比べれば、些細なものだった。
どのくらい眺めていただろう?じめっとした空気と共に失禁による異臭が鼻をついたことで我に返った。同時に怖さが足下から毛を逆立てるようにぞわぞわと這い上がってくる。風に乗って夜の暗闇から赤ん坊の泣き声、犬の吠える声が聞こえてくる。 満月の光が、静寂に包まれた学校の中庭を白く照らしていた。紗南美は徐々に落ち着きを取り戻してきた。そうだ。こうなることはわかっていた。わかっていて、私はこの場に来たんじゃないか。無様に取り乱している暇なんかないはずだ。そう自分を叱責する。改めて見る石井隆の顔は、青ざめていて、生命の息吹を感じさせない。紗南美の脳裏に、一週間前に交わした石井隆との会話がフラッシュバックする。そのとき紗南美は石井隆からの告白を受け入れ、直後に一週間後に自殺する覚悟を聞かされた。そして、変わり果てた自分を見てほしいと。
「これで終わりじゃない」
紗南美は自分に言い聞かせるように言うと、手袋をはめて石井隆の右足の靴を脱がせた。
続いて靴下を脱がせて裸足にする。
自分の呼吸が荒くなってきているのがわかった。
落ち着かないといけない。
「落ち着け…… 誰かが来る前にやらないと……成すべきことを成さないと」
背負っていたリュックを地面に置いて、中から容器とカッターナイフを取り出した。
周囲を見回しても人影は見えない。
夜空を照らす月だけが紗南美を見ていた。
「石井君、ごめん」
そう言うと紗南美は石井隆の右足の裏を十字に切り裂いた。
ぱっくりと開いた十字から黒い液体が流れ出た。
月明かりの下で見る血は赤ではなく黒いということを紗南美は初めて知った。
死体から流れ出る血を一滴も無駄にしないように持参した容器で受ける。
その間も誰か来ないか周囲に目をやる。
さきほどの自分の悲鳴が悔やまれてならない。
幸いにも人を呼び寄せるようなことにはならなかったが、あの悲鳴を誰も聞いていないという保証はない。
誰かが耳にして、今この瞬間にも何事かとこちらへ向かっているかもしれない。
重要な仕事をしているときに気が急くような原因を作ってしまった自分に腹が立った。
徐々に風が強くなってきた。
背後から圧を感じる。
この場には自分以外に誰もいないとわかっている紗南美は、どんどん増してくる背後からの圧を感じながら、石井隆の傷口から流れ出る血を回収した。
容器のふたを閉めたときに、後ろの首筋に冷たい感触が走りビクッとした。
冷たい指に触れられたような気がした。
しかし誰もいない。この場にいる「生きた人間」は最初から最後まで紗南美だけだ。
全てを終えた紗南美は、自分の一部始終を見ていた月を見上げた。
もうすっかり落ち着いている。
さっきまで感じていた圧もいつの間にか消えていた。
最後に石井隆の姿を目に焼き付けると、その場を後にした。
恐ろしいほどの静寂の中に残ったのは、石井隆の死体だけだった。