家に帰ったのは深夜二時に近かった。
両親は二階の寝室にいる。
中学生の娘が夜中に自殺しに家を抜け出し、またこうして戻ってきたことを彼等は生涯知ることはないだろう。
それに比べたら、郁子は母親をちゃんとしている。
紗南美には郁子と隆の親子関係が羨ましくあった。
真っ暗なリビングの灯をつけて冷蔵庫を開ける。
壁にかかった時計の針が刻む音だけが耳に入ってきた。
カチッ、カチッ、カチッ、カ……。
紗南美が冷えたお茶を飲み干したときに時計の針が止まった。
室内が急激に冷え込んでくる。
「…… 来たの?」
リビングの照明が点滅すると、部屋の隅に黒い影が見えた。
隆の部屋で郁子の契約は済んだ。
しかし、元は隆と自分が作り出した呪いだった。
二人の血を「あれ」に捧げた。
黒い影が紗南美の方へ近づいてきた。
蹄の音がする。
隆の部屋で見たとき、その姿を感じたときは四足で歩いていたが、今は二足歩行だ。
周りからも圧を感じる。
「あれ」の他にも大勢いる。
どんどん増えているという感じた。
「私をこの世に創り出した、おまえたちの呪いを叶えてやろう」
メッセージが体に入り込む感じは未だに慣れない。
他人の思考が自分の中に入ってくる。
紗南美にとってはそんな感じだった。
「あの女の魂と引替えに、恐怖と混乱を憎い奴らに与えてやる」
一瞬、炎が見えた。
「契約した私はほんとうに死ぬ必要がないの?」
白い息を吐きながら言った。
蹄の音が紗南美の横を通り過ぎて止まる。
「支配してみないか?」
「支配?」
「今度は憎い奴らを、奴らよりも強い力で支配するのはどうだ?思うがままに蹂躙させてやろう」
「どうやって?」
「私と同一になることは魂を捧げることと変わらない。より強い呪いになる。その力を使えば、味わったことのない世界を生きたまま堪能できる」
「私の体が欲しいの?」
楓たちを、あのクラスメイトたちを支配する。
恐怖で狂わせて、地獄に引きずり込まれる様を見るのは悪くない。
我が身に邪悪な者を受け入れれば叶うなら、紗南美は一向に構わなかった。
「いいよ」
「溜めた血を解放してみろ」
紗南美は隆の遺体から採取した血と、自分と郁子の血を混ぜた「穢れた血」の入っている容器のふたを開けた。
血液が容器の中でぐるぐると回り始めると、やがて血煙のように容器から上昇してきた。
黒い影は靄のようになり、血煙と混ざり合いながら紗南美の周りを旋回しだした。
足下からだんだんと昇ってきて、やがて鼻、口、耳のほか、毛穴などの体にある穴から中に入ってきた。
「うう……ああ……」
頭部と下腹部に激しい痛みを感じた紗南美は、呻きながらしゃがみ込んだ。
全身が強ばり、背筋に痛みがはしる。
やがて、のたうつ紗南美の呻き声に別の声が混ざり始めた。
体の中が熱い。
今まで経験したことがない熱さで、臓腑ばかりか脳まで焼かれている感覚。
血管の中の血液が沸騰して、体の内から火が噴き出すのではないかと感じた。
しかし、それも一瞬で徐々に熱さが感じなくなり、体の痛みも強ばりもなくなっていく。
床に倒れこんでいた紗南美は肩で息をしながら立ち上がった。
「なに今のは?」
突然のことで混乱している。
とにかく体の中に「あれ」が入ってきたのがわかった。
これが同一になるということか。
自分の両手足を見るが、なんの変化もない。
体の内はどうたろうか?
一寸前に比べて、今はなにも感じない。
自分の中になにか別の者がいるが、違和感のようなものはなかった。
これから郁子が魂を捧げる。
それでようやく呪いが完成する。
郁子が自分の代わりに魂を捧げることで、自分は呪いをこの目で見ることができる。
クラスメイトがどのように呪われ、狂い、死んでいくのかを。
呪いはまだ始まっていない。
どのようなものになるのか、紗南美には予想もつかない。
それだけにワクワクしてきた。
自然と低い笑い声が漏れだす。
なにかに期待して気分が高揚するなんて、紗南美にとっては久しぶりのことだった。