ローザ・ガードナーが、自らの運命を大きく変える一日を迎えたのは、初夏の穏やかな午後だった。青空に白雲が流れ、柔らかな陽射しが庭園の花々を鮮やかに照らしている。貴族街の奥まった場所に立つガードナー伯爵家。その広大な屋敷の客間には、まもなく結婚を控えたローザと、婚約者である侯爵子息アルフレッド・ウェインライト、それに双方の家族が一堂に会していた。
ガードナー伯爵家は古くから続く貴族の家系で、特に庭師としての才能を持つ者が代々多かったと伝えられている。しかし近年は当主である父ラグナルド伯爵が政治的手腕を発揮し、王都でもそれなりの地位と財力を得るようになり、庭づくりの伝統はややかすんでいた。ローザの亡き母は“花の伯爵夫人”と呼ばれたほど植物を愛し、庭の手入れを欠かさなかった人物だったが、ローザが幼い頃に病で他界している。そのため、ローザ自身は母の教えを断片的にしか知らないまま、大人になりかけていた。
そんな伯爵家の令嬢として育ったローザは、幼少期から「花のように美しいお嬢様」と周囲に言われ続けてきた。だが、本人には貴族的な華々しさを好む気質は薄く、むしろ花壇や鉢植えの前で、まるで母が遺した知識を求めるかのように黙々と植物を観察したり、自室で植物図鑑を開きながら好奇心を満たすことを好んでいた。それでも当主である父は、娘を“華やかな場所でこそ輝く存在”として見ていたし、ローザ自身も父を心から敬っていたので、社交界でそれなりに淑女としての教養を磨いてきたのである。
アルフレッド・ウェインライトは若くして侯爵位を継ぐことが約束された有望株だった。金髪碧眼の典型的な美男子で、優雅な物腰と雄弁な話術を駆使し、王都でも人気の貴公子として社交界を賑わせている。ローザとアルフレッドの婚約は、父親同士の意向もあり、ほぼ政略結婚といって差し支えない形で決められた。とはいえ、ローザ自身もアルフレッドの外見や落ち着いた態度には好感を抱いており、将来の夫として悪くはないと考えていたのだ。
――だが、その日、客間で開かれた顔合わせの席で告げられたのは、婚約を解消するという一方的な宣告であった。
「アルフレッド様、それはどういう……?」
急に立ち上がったアルフレッドは、苦々しい表情でローザを睨みつけ、まるで裏切り者を見ているかのように口を開く。
「ローザ、君があの平民の男と逢瀬を重ねていた証拠がある。これ以上、君との婚約を続けることは僕の家名に泥を塗る行為だ」
その場に居合わせた全員が驚きに息を呑んだ。とりわけ、ローザの父ラグナルド伯爵は娘を信じているのか、顔を真っ赤にして声を荒げる。
「ば、馬鹿な! うちのローザがそのような真似をするはずがないだろう! ウェインライト卿、これは何かの誤解ではないのか?」
しかし、アルフレッドは用意してきたように数通の手紙を取り出す。それは「ローザからの送信」とされる内容を示していた。そこには“愛する貴方へ”“会いたくてたまらない”といった、甘い言葉が並んでいるではないか。しかも相手は確かに貴族ではなく、某商家の使用人――平民の名で宛てられていた。
「まさか……こんなもの、私が書くはずがない!」
ローザは、息が詰まる思いで否定する。それも当然だ。彼女には全く身に覚えがない。しかし目の前の証拠とされる手紙には、たしかに彼女の筆跡に酷似した文字がつづられている。だが、その筆跡はどこかぎこちなく、よく見れば素人目にも違和感があるものだった。しかし緊迫した場面では、そんな指摘はなかなか通用しない。アルフレッドは周到に準備を整えてきたのだろう。
「筆跡鑑定も出してある。間違いなく君のものだ。どれほど君が取り繕おうと、もう遅い」
アルフレッドが冷たく言い放つと、父ラグナルドは視線を落とし、怒りとも困惑ともつかない震える声でローザを呼んだ。
「ローザ……まさか、本当に……?」
「お父様、信じてください! そんなことはしていません!」
ローザは激しく否定するが、アルフレッドは容赦なく言葉を重ねる。
「君は僕の留守中、密かに平民の男に会っていたのだろう? いくら貴族だからといって、これは許される行為ではない。僕の家との縁談は白紙に戻させてもらう。加えて、この国の掟に従い、不貞の疑いを晴らせない以上、ローザ・ガードナーには追放処分が相当だろう」
「追放……ですって……?」
ローザは耳を疑った。婚約破棄だけでもショックだというのに、まさか追放まで言い渡されるとは。アルフレッドは完全に彼女を陥れるつもりなのだろうか。だが、ここで家名のために騒ぎを大きくしたくないという思惑が働いたのか、ラグナルド伯爵は苦渋の表情で娘を見つめる。
「……ガードナー家としては、これ以上のスキャンダルは避けたい。ローザ、お前はしばらく王都を離れろ。正式に処罰を言い渡される前に、地方へ……そうだな、確か伯爵領の外れに没落した別荘があったはずだ。そこへ赴き、しばらく身を隠しておけ」
「お父様……私を、信じては……」
「これ以上は何も言うな! お前が何をしようと、アルフレッド殿はもう婚約を破棄すると決めた。無実を証明できないのなら、さっさと出て行くしかあるまい!」
いつもは穏やかな父が初めて見せる取り乱した怒声。ローザは胸が裂けるような苦しみを感じた。表面上は“しばらく身を隠せ”という言い方だが、実質的には“名家からの追放”と変わらない。そんな辛辣なやり取りの中、アルフレッドは勝ち誇ったような笑みを漏らし、ローザに近づいてささやく。
「君が貴族の面目を失墜させた事実を広めたくはない。だから、追放されるという形で終わりにしてやる。僕はもう二度と君の顔など見たくない。いいな?」
彼がなぜこんなことをするのか、ローザには皆目見当がつかなかった。だが、一つだけ言えるのは――ここまで徹底して彼が動いている以上、よほど何かの思惑があるのだろう、ということ。そして、彼女には何を言っても聞き入れられない現実があるということだ。
その日、ローザは伯爵家を出ていくための支度を命じられた。父は最後まで顔を背け、ローザに何も言葉をかけてはくれなかった。屋敷の使用人たちも口々に「お嬢様がそんなことをするはずないのに……」と噂をしていたが、誰ひとりとして公に弁護してくれる者はいなかった。これは名家のために彼女が犠牲となるしかない――そう考えるのが、使用人たちにとっても得策なのだろう。
ローザはわずかな荷物だけをまとめ、小さな馬車に乗せられた。彼女を送り出す者はおらず、玄関の扉が冷たく閉ざされる音が、絶望を強く打ち鳴らすかのように響いた。
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2. 王都からの旅路
伯爵家を出発してすぐ、ローザは王都の大通りを馬車で抜ける際、自分がどこへ行くのか、どこでどう暮らせばよいのかまったくわからないまま、不安と悲しみに押し潰されそうになった。これから向かう場所は、ガードナー伯爵家が所持する領地の片隅。辺境にある寂れた村だという。伯爵家にとっては“あるだけの領地”という程度の感覚で、もはやほとんど管理らしい管理もしていない場所らしい。
「お嬢様……いえ、今はもう“お嬢様”ではないのでしょうか……」
馬車を操る御者は、かつてローザが屋敷で花の世話をしている時によく手伝ってくれた老年の使用人だった。ほかに名乗り出る者もいなかったのか、あるいはその使用人だけがローザを最後まで気遣ってくれたのか。彼は小さく独り言のように呟くと、申し訳なさそうにローザを振り返った。
「私は最後まで、お嬢様の無実を信じています。ですが、ここから先は私が一緒について行くわけにもいきません。伯爵様からも“もう戻ってくる必要はない”ときつく申し渡されています。私は今、ただの運び手としてここにいるだけなのです」
その言葉を聞いて、ローザは改めて追放の重みを痛感する。さすがに長年仕えてくれたこの男に恨みを向けるつもりはなかった。むしろ、自分のためにこうして馬車を出してくれるだけでも、彼の本心の優しさがうかがえる。だからこそ、ローザは感謝の気持ちと罪悪感が入り混じり、涙がにじんだ瞳を伏せていた。
「ありがとう……。せめて、こうして運んでいただいて……。本当に感謝しています」
小さな声でそう伝えると、老人は短くうなずき、黙々と馬車を走らせた。王都のにぎやかな喧噪は、次第に遠ざかっていく。その騒々しさから離れ、緑の多い街道を進むうちに、ローザは少しずつ冷静さを取り戻し始めた。しかし、心の奥底にはどうしようもない悲しみと、アルフレッドへの怒りが渦巻いている。
(なぜ……。なぜ、あの人はわたしを陥れたの? わたしが邪魔だったの? それとも――)
何度考えても答えは出ない。いずれにしても、今は王都を離れるしかない現実がある。ローザは拳をぎゅっと握りしめ、ぐらつく馬車の中でまっすぐ前を見据えようとした。涙を流すのはもう終わりにしたい。せめて、新たな土地では自分の足でしっかりと立とう――そう心に誓うしかなかった。
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3. 辺境の村との出会い
王都を出発して二日後、馬車は伯爵領の北端に位置する小さな村へ到着した。石造りの家々がまばらに並び、道行く人々もどこか閑散とした雰囲気を漂わせている。村の中心に近づくと、露店が数軒だけ立ち並び、野菜や獣肉を売っていた。王都の喧騒を知る者からすれば、まるで時が止まったかのような静かさだ。
御者は村のはずれにある古い屋敷へと馬車を進める。屋敷といっても、今は荒れ果てたかつての別荘で、外観は蔦が張り付き、窓ガラスがところどころ割れている。門も錆びつき、庭と呼べる場所は雑草が伸び放題で荒れ地のようだった。二階建ての石造りの建物は、かろうじて崩れずに残っているが、とても住める状態かどうか怪しい。
「ここがガードナー伯爵家の持ち物であることは確かなのです。昔、お嬢様のご母堂――奥方様がご存命の頃は、季節ごとに花を咲かせる美しい庭園だったと聞いておりますが……。今では見る影もありませんな」
御者がそう言って馬車を止めると、ローザはどこか懐かしいような、それでいて痛ましい気持ちを抱えながら馬車を降りる。母がどこかでこの屋敷に訪れたことがあるかもしれない――そう思うだけで、胸の奥に温かい痛みが走った。建物へ足を踏み入れると、埃まみれで、誰も長らく人の手が入れていないことは一目瞭然だ。家具らしきものは当時のままらしく、薄汚れた椅子や棚が散らばっており、床には割れた陶器のかけらが落ちている。
(ここで、今日から暮らすの……?)
果たして寝る場所はあるのか。屋根から雨漏りはしないのか。さまざまな不安が一度に押し寄せる。けれど、追放された自分にはもう行き場がない。ここで暮らすしか道はないのだ。御者はそんなローザの背中を見ながら荷物を降ろし、最後に彼女のもとへと近づいてきた。
「私はここで失礼いたします。伯爵様からは、これで役目は果たしたと言われておりますもので……。くれぐれもご自愛ください。もしどうしても助けが必要になったら、村の人々に尋ねてみるといいでしょう。噂には聞きますが、ここは……正直、裕福な土地柄ではありません。ですが、心優しい方もきっといらっしゃるはずですから」
御者は深々と頭を下げ、ローザに小さな袋を手渡した。中には乾パンのような保存食や、少しばかりの硬貨が入っている。
「本当に、ありがとうございます。お名前を教えていただけますか……?」
「私は執事見習いの頃からガードナー家に仕えていた者で、名前は――」
彼が名乗ろうとした瞬間、どこからか一陣の風が吹き、屋敷の扉がギギィと軋んだ。御者はかすかに微笑み、首を横に振った。
「いえ、名乗るほどの者ではありません。私が言えるのは、どうかお元気で、ということだけ。失礼いたします」
そう言い残すと、彼は馬車に乗り込み、来た道をゆっくりと引き返していく。その姿が遠ざかり、完全に見えなくなるまで、ローザは何も言えずに立ち尽くしていた。王都の喧騒から切り離された、まるで世界から忘れられたようなこの場所で、自分は一人きりになったのだ。
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4. 廃屋の探索
埃っぽい室内に一人残されたローザは、まずは生活の基盤を整える必要性を感じていた。家具の配置や掃除、食事の確保など、やるべきことはいくらでもある。しかしこの日は旅の疲れと精神的な疲労が重なり、すぐに本格的な作業を始める気力はなかった。
それでも何か落ち着ける場所を探そうと、ローザは一階の部屋をいくつか回ってみた。大広間は家具が少なく、床の一部が抜けかけている。食堂らしき部屋は壁紙が剥がれ、テーブルは脚が折れ、椅子は壊れていた。厨房は水道管が使えず、調理器具もほとんど朽ちている状態だ。
しかし、その中でも割とマシだったのは、かつて書斎として使われていたと思しき部屋だった。部屋の隅には木製の机と椅子があり、窓ガラスこそ一部割れてはいるものの、外の光が程よく差し込んでくる。埃まみれとはいえ、本棚があって、ところどころに古い書物が残されていた。
「ここなら……少しは落ち着けるかもしれない」
ローザは自分の荷物をその部屋に運び込み、床の埃を粗くはらってから一息つく。母の形見である小さな櫛や、王都を離れる直前に自室から急いで持ち出した植物図鑑をそっと広げてみると、脳裏に母との淡い思い出が蘇る。
(お母様……今の私を、どう思うかしら)
問いかけても返事はない。ただ、植物の挿絵が丁寧に描かれた図鑑をめくっていると、自然と心が少しだけ安らいでいくのを感じた。母が遺してくれた庭づくりの精神――「花や緑は、手をかけた分だけ応えてくれる」という言葉を思い出す。追放された今、頼れるのは自分だけ。ならば、母の好きだった植物をもう一度、この荒れた庭に咲かせられないだろうか……。そう思うだけで、かすかな希望が胸に芽生え始めた。
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5. 村の人々との邂逅
翌朝、眠りの浅いままに夜明けを迎えたローザは、まず水と食べ物を手に入れなくてはと考え、村の方へと足を向ける。金銭の余裕はほとんどない。けれど、何もせずにこの屋敷で飢えるわけにはいかなかった。
村の中心部に行くと、朝早くから露店を開いている人が数名いた。野菜や果物、パンなどを売っているが、品揃えは正直寂しい。店主らしき女性に声をかけ、わずかな硬貨で干し肉とパンの切れ端を分けてもらう。すると、女性は珍しそうにローザをまじまじと見てから、怪訝そうに尋ねてきた。
「見かけない顔だけど、あんたここに来たのかい? あの廃屋に泊まっているって噂を聞いたけど……」
ローザが「ええ、しばらくあそこを使わせてもらうことになって……」と返すと、女性は「ほう」と言いながらこちらを値踏みするような目で見つめる。村人にとって、ガードナー伯爵家の存在は遠い昔の話なのかもしれない。まして、領主が直接この村に来たという話など、誰も覚えていないに違いない。
すると、店先にいた壮年の男が苦笑して口を挟んだ。
「やめとけやめとけ。あそこは幽霊が出るって、村じゃ有名なんだぞ」
「幽霊……?」
ローザは思わず言葉を失う。男の話によると、かつてこの屋敷で火事が起きて亡くなった使用人の魂が、夜な夜なさまよい歩いているという噂が絶えないそうだ。もっとも、真偽のほどは定かではないが、荒れ果てているのは事実なので、村の者も近寄らないらしい。
(この村の人々は、あの屋敷をもう諦めているのね)
ローザは胸の内でそう思い、なんともいえない孤立感を覚えた。だが、干し肉とパンを手にし、頭を下げて屋敷へ帰ろうとすると、一人の老人がぽつりと声をかけてきた。
「……まぁ、もし何か困ったことがあれば、うちの井戸から水を汲んでいくくらいは構わんぞ」
そう言ってくれた老人に、ローザは深く頭を下げ、「ありがとうございます」とだけ伝えた。まばらな人々の視線が、好奇心とも警戒ともつかない空気をまとってローザに注がれていた。だが、それでも中にはこうして手を差し伸べてくれる人がいる。それがほんの少しだけ、救いだった。
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6. 母の遺した図面
購入してきたパンと干し肉を食べ、何とか空腹をしのいだローザは、屋敷の中の整理を少しずつ始める。といっても、埃や蜘蛛の巣を払い、壊れた家具を外に運び出すだけでも半日がかりだ。休み休み作業をしていると、昼過ぎには身体がくたくたになった。
(ここは一体、どれだけ手つかずだったのだろう……? まるで何十年も放置されていたみたい)
そう思いつつ、屋敷の奥へ足を踏み入れる。そこに小さな物置部屋があり、埃を払ってドアを開けると、段ボールのような木箱が積まれていた。中には書類の山が無造作に詰め込まれている。物色してみると、そこには古い領地の地図や、昔ここに住んでいた使用人の名簿らしきものまで混ざっていた。
「あ……何か、庭の図面……?」
その中で、特にローザの目を引いたのは、一冊の古びたノートだった。表紙には植物のスケッチのような落書きがあり、めくってみると広大な庭園のレイアウト図が丁寧に描かれている。そこには、季節ごとの花壇の配置、中央の噴水の設計、薔薇を中心とした植栽プラン――まさに一つの壮麗な庭が設計されていた。
(こんなに立派な庭が、昔はあったのね……)
ページをめくると、筆跡が変わっている箇所があり、そこには母の名前――“イザベラ・ガードナー”が記されていた。母が若い頃、この別荘の庭を一度訪れ、庭づくりに協力していたのかもしれない。簡単なメモが残されている。
> ここは土壌がやや酸性に傾きがち。雨季には排水を確保すること。薔薇は数種類を植え替え、根付かせる。日照と水はけをうまく調整し、美しい庭を再現したい……。
その走り書きが、どこか懐かしい。ローザはそれを読み進めるうちに、無性にこの庭を復活させたい衝動に駆られた。母は早くに亡くなり、ローザは庭づくりの英才教育を受けたわけでもない。だが、幼い頃から母のやることを眺めては、植物を触るのが好きだった記憶がある。追放された今、こんな荒れた別荘で一人きりだとしても、庭を甦らせることができれば、母との思い出にもう一度触れられる気がした。
「……そうだわ。やってみよう。誰に邪魔されるわけでもない今の私なら、思いきり時間を使える」
そう自分に言い聞かせるように呟き、ローザは庭へと足を向けた。長い間放置されていたせいで雑草が腰の高さまで伸びている。かつて噴水があったであろう場所は泥と枯れ葉で埋め尽くされ、石像の一部は崩れていた。だが、それでもよく見ると、バラアーチの跡らしき鉄製の骨組みが辛うじて残っているし、庭の外周を囲む生垣も跡形はある。手を尽くせば、再生の余地は大いにあるはずだ。
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7. 絶望と決意
庭の状況を一通り確認すると、思った以上に大仕事になることがわかった。少なくとも一人でやるには相当の時間がかかるし、道具も資金も圧倒的に不足している。だが、ローザには今、他にすべきこともないし、何より「ここで生き抜く」ためには、自分を奮い立たせるものが必要だった。
屋敷に戻る途中、ふと視線の先に小さな野薔薇が咲いているのを見つけた。ほとんど雑草に埋もれるようにして咲いている白い花は、細い茎を風に揺らしながら、それでもひっそりと存在感を放っている。花びらは薄く、どこか儚げだが、その姿は“生きる意志”を感じさせた。
「あなたは……こんな荒れ地でも、ちゃんと咲いているのね」
ローザはそっとかがみ込み、一輪の野薔薇を摘み取る。母の残した図面には、もっと色とりどりの薔薇が描かれていたけれど、この小さな白い薔薇が、今のローザには何より強く胸を打つ存在だった。雑草の中でも、誰にも見向きされなくても、自らの力で花開く。そのたくましさを、ローザは自分自身に重ね合わせるように見つめていた。
胸が熱くなる。無実の罪を着せられて追放され、父にも見放され、今はこんな寂れた場所で一人ぼっち。それでも母のノートを手にし、この野薔薇を目にした瞬間、何かがローザの中で燃え上がった気がする。
「もう泣くのはやめよう。私はここで生きていくしかないの。だったら、やることは決まっているわ」
ローザは小さく震える手で野薔薇の花を握りしめ、静かに決意を口にする。母の庭の再生――誰にも期待されていないかもしれない。アルフレッドや伯爵家の人々にとっては、追放したローザがどうなろうが構わないだろう。けれど、ローザは自分にとって大切なものをここに見出した。母が築き上げた“花と緑の世界”。その遺志を継ぎ、今度は自分の力だけで蘇らせてみせる。
「これが私の新しい人生の第一歩……絶対に、あきらめたりなんかしない」
その言葉を呟いた瞬間、軽やかな風がローザの髪をそっと揺らした。まるで母が遠いどこかから、彼女の決心を後押ししてくれているかのように。空は深い青を湛え、日差しはまだ強い。雑草が生い茂る庭は、果てしなく広く感じられた。けれど、ローザの胸には希望の光が灯っている。
こうしてローザ・ガードナーは、孤独と絶望のどん底でありながらも、自らの力で歩み出すことを選んだ。荒れ果てた庭と共に自分を蘇らせる――母の遺志を胸に刻みながら、彼女の新たな物語が今、ここから始まろうとしていた。
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8. 一輪の野薔薇
再び屋敷の書斎へと戻ったローザは、手にした白い野薔薇を机の上の花瓶代わりのコップに差し、しばし見つめる。そのか細い姿に、自分を重ねずにはいられない。けれど、既に彼女の瞳には少しだけ輝きが宿っていた。
遠く王都では、アルフレッドがローザを追放し、ガードナー伯爵家も面目を保つ形で一件落着ということになっているだろう。家名のために娘を犠牲にしたラグナルド伯爵は、果たしてどんな思いでいるのか。それはローザにはもう確かめるすべがない。けれど、今はもう振り返らないと決めた。自分を信じてくれなかった父を恨みたくはないが、愛情を注いでくれた母の思い出は大切にしていたい。そんな複雑な感情の狭間で、ローザは一筋の確かな光を見出している。
ノートに描かれた庭園を思い浮かべながら、明日の作業の段取りを考える。まずは庭全体の雑草抜き。噴水の周辺を掘り起こして、水源を探す。それから母が言及していた“土壌の改良”。村の誰かに頼めば、堆肥や道具を分けてもらえるだろうか。金銭が少ない今は、手伝いをする代わりに物々交換のような形で手に入れるしかないだろう。
課題は山積みだが、ひとつずつ取り組んでいけば、いつかきっとあのノートに描かれた庭園を蘇らせられるはず。そう信じるだけの強さを、今のローザは持ち始めていた。追放は決して終わりではない。むしろこれは、新たな旅立ちなのだと、自分に言い聞かせるように何度も心の中で繰り返す。
そして、最後に視線を落としたのは、あの白い野薔薇。無垢な花びらに見とれるうちに、ローザの口元にふと微笑みが浮かんだ。
「これが私の新しい人生の第一歩……絶対に、ここから薔薇を咲かせてみせる」
そう誓った瞬間、小さく風が吹き抜け、花びらがふわりと揺れたように見えた。まるでその小さな薔薇が、彼女の決意を祝福しているかのように。心の中で小さく「ありがとう」と呟き、ローザはその夜、書斎の埃を払い、最低限の寝床を整えて目を閉じた。明日からの苦労は想像を絶するかもしれない。けれど、今の彼女なら、きっとやり遂げられると信じられるだけの理由がある。
こうして、“追放された令嬢”ローザ・ガードナーの新たな物語は幕を開けたのだった。
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