◆
妻が不倫をしていることを知った日、僕は驚くほど平静だった。
怒りも悲しみも、裏切られたという感覚さえ湧いてこない。
ただ、事実として認識しただけだった。
妻の携帯電話に届いたメッセージを偶然目にしてしまったのだ。
画面に浮かんだ文字列は、明らかに親密な関係を示していた。
「昨夜は楽しかった」
「また会いたい」
そんな言葉が並んでいた。
僕は携帯電話をそっと元の場所に戻した。
妻はキッチンで夕食の準備をしている。
包丁がまな板を叩く規則的な音が聞こえてくる。
僕は自分の心の中を覗き込んだ。
怒りはあるか。
ない。
悲しみは。
それもない。
妻を愛しているか。
愛している。
この矛盾が、僕には理解できなかった。
夕食の席で、妻はいつもより口数が少なかった。
箸を持つ手がかすかに震えている。
僕は黙々と味噌汁を啜った。
豆腐が舌の上で崩れていく感触を確かめながら、自分の無感動さを分析していた。
人間の感情というものは、どこから生まれるのだろう。
脳内の化学物質の働きによるものなのか。
それとも、もっと別の何かがあるのか。
「昨日は遅かったね」
僕は何気ない調子で言った。
妻の箸が止まった。
「会社の飲み会があって」
声が少し上ずっている。
嘘をついているときの妻の癖だ。
結婚して七年、僕は妻のすべてを知っている。
少なくともそう思っていた。
「そう」
僕はただそれだけ答えた。
妻の顔に困惑の色が浮かぶ。
もっと追及してくるものと思っていたのだろう。
しかし僕には、そんな気持ちは微塵も起きなかった。
その夜、妻は寝室で泣いていた。
声を殺して、布団に顔を埋めて。
僕は隣で天井を見つめていた。
暗闇の中で、妻の震える背中が見える。
手を伸ばせば届く距離。
でも僕は動かなかった。
妻の苦しみを、まるで実験室のガラス越しに観察するように眺めていた。
これは正常な反応なのだろうか。
愛する人が苦しんでいるのに、何も感じない。
いや、正確には感じているのかもしれない。
ただ、その感情に名前がつけられないだけで。
翌朝、妻の目は腫れていた。
「大丈夫?」
僕は朝食の準備をしながら聞いた。
「う、うん」
妻は慌てて顔を洗いに行った。
僕はトーストにバターを塗りながら考えた。
なぜ僕は、妻の不倫に対して何も感じないのか。
愛が冷めたわけではない。
今でも妻の仕草の一つ一つが愛おしい。
朝の光に透ける髪も、コーヒーを飲むときの唇の形も。
すべてが僕の一部のように感じられる。
それなのに。
数日が過ぎた。
妻はますます苦しそうだった。
僕が何も言わないことが、逆に彼女を追い詰めているようだった。
ある夜、僕は決めた。
確認しよう。
誤解だったら申し訳ないから。
そして何より、妻が望んでいるから。
「ねえ」
リビングのソファで、僕は切り出した。
「最近、誰かと会ったりしてる?」
妻の体が硬直した。
手に持っていたマグカップが、かたかたと音を立てる。
「どうして……」
「いや、ただ聞いてみただけ」
僕の声は驚くほど平坦だった。
「不倫とかしてたりする?」
妻の顔から血の気が引いた。
マグカップを置く手が震えている。
長い沈黙。
時計の秒針が、規則正しく時を刻む。
「……してる」
消え入りそうな声だった。
僕は頷いた。
「そう」
それだけだった。
怒鳴りもしない、泣きもしない、問い詰めもしない。
妻は僕の顔を見つめた。
信じられないという表情で。
「怒らないの?」
「怒る理由がわからない」
本心だった。
「でも、私、あなたを裏切って……」
「うん」
「あなたは私を愛してるって言ってくれてたのに」
「今でも愛してるよ」
妻の目に涙が溜まった。
「わからない」
彼女は首を振った。
「あなたが何を考えてるのか、全然わからない」
僕にもわからなかった。
だから観察している。
妻を観察し、自分を観察し、この奇妙な状況を観察している。
「相手は誰?」
僕は聞いた。
純粋な好奇心から。
「会社の……上司」
「どうして?」
妻は俯いた。
「飲み会で、飲みすぎて……気がついたら」
ありふれた話だった。
酒に酔い、判断力を失い、流されてしまう。
人間の弱さの典型的な例。
「それで?」
「それだけ」
「続いてるの?」
「……わからない」
妻は顔を上げた。
長い沈黙の後、妻は震える声で聞いた。
「あなた、私のこと、もう愛してないの?」
意外な質問だった。
「愛してるって言ったよ」
「でも」
妻は首を振った。
「私が他の男と寝たのに、何も感じてない。それって、もう私に関心がないってことじゃない?」
興味深い推論だった。
「愛してる」
僕は繰り返した。
「じゃあ、私のどこが好きなの?」
妻の目には、絶望的な光があった。
「本当に愛してるなら、言えるはずでしょう?」
僕は少し考えてから、話し始めた。
「君の髪が好きだ」
ゆっくりと、一つずつ言葉を紡いでいく。
「特に朝日に透けるとき、茶色が金色に見える瞬間が好きだ」
妻の表情が変わった。
「君の手が好きだ。料理をするときの手つき、本のページをめくるときの指の動き、眠っているときに僕の服の裾を無意識に握る、その小さな手が好きだ」
妻の目が潤み始めた。
「君の声が好きだ。朝の寝ぼけた声も、仕事の電話をしているときの凛とした声も、猫を見つけたときの嬉しそうな声も」
言葉は次々と溢れてきた。
「君の歩き方が好きだ。少し内股で、でも背筋は真っすぐで、自信と遠慮が混ざったような歩き方」
妻は唇を噛んだ。
「君の笑い方が好きだ。最初は控えめに微笑んで、本当に面白いときは肩を震わせて笑う。そのときに目尻にできる小さな皺も好きだ」
僕は妻の顔を見つめながら続けた。
「君の泣き方も好きだ。悲しいときは声を殺して泣くけど、感動したときは素直に涙を流す。その違いも全部好きだ」
妻の頬を涙が伝った。
「君の怒り方も好きだ。本当に怒ったときは黙り込んで、でも三十分もすると自分から話しかけてくる。その優しさが好きだ」
まだ終わらなかった。
「君の食べ方が好きだ。美味しいものを食べるときの幸せそうな顔、苦手なものを我慢して食べるときの微妙な表情、全部好きだ」
妻は顔を両手で覆った。
「君の眠り方が好きだ。最初は行儀よく寝てるのに、深く眠ると手足を大きく広げる。その無防備さが好きだ」
僕の声は変わらず平坦だった。
しかし、言葉は真実だった。
「君の考え方が好きだ。人に優しくて、でも芯は強くて、正しいと思ったことは曲げない。その真っすぐさが好きだ」
妻は嗚咽を漏らし始めた。
「君の不器用さも好きだ。裁縫が苦手で、ボタンをつけるのに三十分かかる。でも諦めずに最後までやり遂げる」
僕は一度息を吸った。
「君のすべてが好きだ。完璧じゃないところも、弱いところも、全部含めて愛してる」
妻は泣きながら首を振った。
「やめて」
震える声で懇願した。
「お願いだから、やめて」
「どうして?」
僕は純粋に疑問だった。
「だって」
妻は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら言った。
「あなたがそんなに私を愛してるのに、私は裏切って……それなのにあなたは何も感じてない」
声が途切れた。
「この矛盾が、私を壊しそう」
妻はソファから立ち上がり、よろめきながら寝室に向かった。
扉が静かに閉まる音が聞こえた。
僕は一人残されたリビングで、また天井を見上げた。
妻への愛は本物だ。
それは疑いようがない。
しかし、なぜ僕は彼女の裏切りに何も感じないのか。
僕は考えた。
もし僕に嫉妬や怒りという感情が生まれれば、妻は少しは楽になるのかもしれない。
それが彼女の求める「普通の愛」なのだろう。
僕は妻を愛している。
だからこそ、彼女が求める形の愛を持ちたいと思う。
理屈としては、そうあるべきなのだ。
しかし、感情は理屈では生まれない。
だから僕は観察を続ける。
いつか、僕の中に人間らしい感情が芽生えることを期待しながら。
その夜、妻はまた泣いていた。
僕は相変わらず天井を見つめていた。
妻の苦しみを観察しながら、自分の心の動きを探っていた。
何か、ほんの小さな変化でもいい。
妻のために、僕は変わりたいと思った。
翌日から、妻の様子はさらに変わった。
僕が自分を深く愛していることを知ってしまったことが、彼女の罪悪感をより深いものにしていた。
食事もろくに喉を通らず、夜も眠れない様子だった。
それでも僕は変わらなかった。
変わりたいと思いながらも、変われない自分を観察し続けた。
ある夜、妻が言った。
「私も、あなたを愛してる」
唐突な告白だった。
僕たちはベッドに横たわっていた。
「裏切ったのに。それでもあなたを愛してる」
妻は震える声で続けた。
「あなたは、それを信じる?」
興味深い質問だった。
僕は少し考えてから答えた。
「信じるよ」
「どうして?」
妻は暗闇の中で僕の方を向いた。
「理由はたくさんある」
僕は天井を見つめたまま話し始めた。
「まず、君は毎朝僕より先に起きて、コーヒーを淹れてくれる。僕が砂糖を一つ、ミルクを少しだけ入れるのを覚えていて、いつも完璧な温度で出してくれる」
妻は黙って聞いていた。
「君は僕の誕生日に、いつも手作りのケーキを焼く。去年は失敗して少し焦げたけど、それでも一生懸命作ってくれた」
記憶を一つずつ紐解いていく。
「僕が残業で遅くなるとき、君は必ず起きて待っている。眠そうな顔をしながら『おかえり』と言ってくれる」
妻の呼吸が不規則になった。
泣いているのだろう。
「君は僕の好きな作家の新刊が出ると、黙って買っておいてくれる。僕の本棚の並び順も把握していて、正しい場所に置いてくれる」
些細なことの積み重ね。
それが愛の証明だと僕は思う。
「僕が風邪をひいたとき、君は仕事を休んで看病してくれた。三十分ごとに熱を測り、薬の時間を忘れないようにメモを取っていた」
妻は声を殺して泣いていた。
「それから」
僕は続けた。
「君は僕の母の命日を覚えていて、毎年一緒に墓参りに行ってくれる。母が好きだった白い菊を必ず持って」
愛は言葉ではなく、行動に現れる。
「君は僕が落ち込んでいるとき、何も聞かずにただ隣にいてくれる。無理に励まそうとせず、ただ手を握ってくれる」
妻の手が、暗闇の中で僕の手を探した。
僕はその手を優しく握った。
「これらすべてが、君が僕を愛している証拠だ」
「でも、私は裏切った」
妻は嗚咽の間から言葉を絞り出した。
「それでも君は僕を愛している」
僕は断言した。
「人間は矛盾した生き物だから。愛していても過ちを犯すことがある」
妻は僕に寄り添ってきた。
震える体が、僕の温もりを求めている。
僕は妻を抱きしめながら考えた。
この腕の中にいる女性を、僕は確かに愛している。
だからこそ、彼女が求める愛の形に近づきたい。
怒りや嫉妬を感じることができれば、彼女は少しは安心するだろう。
でも、どうすればそんな感情が生まれるのか。
僕にはわからなかった。
日々は奇妙な均衡の中で過ぎていった。
妻は僕の愛を疑わなくなった。
同時に、僕の無感動さも受け入れざるを得なかった。
二つの矛盾した事実の間で、彼女は宙吊りになっていた。
ある朝、妻が言った。
「あなたは、私が苦しんでいるのを見て、何か感じる?」
僕たちは朝食を食べていた。
窓から差し込む光が、テーブルの上に模様を作っている。
「観察している」
僕は正直に答えた。
「感じるというより、観察している」
「なぜ?」
「自分の中に、何か変化が起きるかもしれないから」
僕は一度言葉を切った。
「君のために、僕は変わりたいと思っている」
妻の箸が止まった。
「私のために?」
「そう。君が求める愛の形に近づきたい」
僕は妻の目を見た。
「嫉妬や怒りを感じることができれば、それは君にとって安心できる愛の証明になるだろう」
妻の目に複雑な感情が浮かんだ。
「でも、それって本当の感情じゃない」
「今はそうだ」
僕は認めた。
「でも、いつか本当の感情になるかもしれない。だから観察している」
妻は小さくため息をついた。
「私は実験動物みたいなもの?」
「違う」
僕は首を振った。
「君は僕の愛する人だ。君を愛しているからこそ、君が苦しまない愛の形を見つけたい」
妻は窓の外を見ながら言った。
「あなたの愛は、普通の愛とは違うのよ」
「どう違う?」
「所有欲がない」
妻は僕の目を見た。
「嫉妬もない。独占欲もない。ただ純粋に、私という存在を愛している」
なるほど、と僕は思った。
妻の分析は的確かもしれない。
「それは愛じゃないのかもしれない」
妻は続けた。
「もっと別の、名前のない感情」
「かもしれない」
僕は同意した。
「でも僕にとっては、これが愛なんだ。そして君のために、もっと普通の愛に近づきたいと思っている」
妻は複雑な表情を浮かべた。
悲しみと、諦めと、そして奇妙な優しさが混ざったような。
時間が経つにつれて、妻の苦悩は質を変えていった。
激しい罪悪感から、慢性的な違和感へ。
彼女は相変わらず苦しんでいたが、その苦しみに慣れ始めていた。
僕は相変わらず観察を続けた。
妻の微細な変化を記録し、分析し、理解しようと試みた。
同時に自分の内面も監視し続けた。
妻のために変わりたいという願いを抱きながら。
「私、あの人とはもう会ってない」
ある夜、妻が唐突に言った。
「そう」
僕は本を読む手を止めずに答えた。
「あなたには関係ないかもしれないけど」
「関係あるよ」
僕は本を閉じて、妻の方を向いた。
「君に関することはすべて、僕には関係がある」
妻は苦笑した。
「でも、感情は動かない」
「今のところは」
僕は言った。
「でも、いつか動くかもしれない。君のために」
妻の目に涙が浮かんだ。
「あなたは、私のためにそんなことまで」
「君を愛しているから」
僕は単純に答えた。
「君が苦しんでいるのを見るのは、僕にとっても辛い。感情的な辛さではないけれど、理性的に辛い」
妻は首を振った。
「変よ、それも」
「そうかもしれない」
僕は認めた。
「でも、これが僕の愛し方なんだ」
ある日、妻は決心したように言った。
「私、決めた」
僕たちは夕食後の皿を洗っていた。
妻が洗い、僕が拭く。
いつもの共同作業。
「何を?」
「このまま、あなたと生きていく」
妻の手は止まらなかった。
規則正しく皿を洗い続ける。
「苦しいけど、それでもあなたといる」
「どうして?」
僕は聞いた。
心からの疑問だった。
「あなたの愛が本物だから」
妻は振り返った。
「それに、あなたが私のために変わろうとしてくれてることも知ってるから」
意外な答えだった。
「変われないかもしれない」
僕は正直に言った。
「それでもいい」
妻は微笑んだ。
疲れた、でも優しい笑顔だった。
「努力してくれてることが嬉しい」
「それに」
妻は続けた。
「あなたが私を観察し続けるなら、私もあなたを観察する」
興味深い提案だった。
「何を観察する?」
「あなたの変化」
妻の目に、小さな光が宿っていた。
「いつか、あなたの中に人間らしい感情が生まれる瞬間を、私は見逃さない」
それは挑戦のようでもあり、希望のようでもあった。
「生まれなかったら?」
「それでも観察し続ける」
妻は僕の言葉を返した。
「あなたがそうするように。そして、あなたが私のために努力してることも、ちゃんと見ている」
こうして、僕たちの奇妙な共同生活は新しい段階に入った。
互いを観察し合う、奇妙な夫婦。
僕は妻の苦悩を観察し、同時に自分を変えようと努力する。
妻は僕の無感動を観察し、同時に僕の努力を見守る。
どちらかに変化が訪れるのを待ちながら。
夜、ベッドに横たわりながら、僕たちは時々語り合った。
日常のことも、深遠なことも。
「今日、スーパーで君の好きな桃が売ってたよ」
「買ってきてくれた?」
「もちろん」
「ありがとう」
こんな些細な会話の中にも、僕は愛を感じる。
変わらない日常の中にある、小さな思いやり。
「ねえ」
妻が暗闇の中で言った。
「もし、あなたに嫉妬心が生まれたら、私を責める?」
「わからない」
僕は正直に答えた。
「そのときにならないと」
「私は、少し期待してる」
妻の声は不思議な響きを持っていた。
「あなたが私を責める日を」
「なぜ?」
「それが、普通の愛の形だから」
僕は考えた。
「でも、今は君のためにそうなりたいと思っている」
妻の手が、暗闇の中で僕の手を探した。
「知ってる」
彼女は僕の手を握った。
「だから、私はここにいる」
普通。
その言葉の意味を、僕は考えた。
僕の愛は確かに普通ではないのかもしれない。
でも、妻のために普通に近づこうとする努力も、また愛の形なのかもしれない。
「でも」
妻は続けた。
「今のあなたも好きかも」
意外な言葉だった。
「苦しいけど、でも、私のために変わろうとしてくれるあなたも含めて、全部があなただから」
妻の手が、僕の手を強く握った。
温かく、少し湿った手。
生きている証拠。
窓の外で風が吹いた。
カーテンが揺れ、月光が一瞬部屋を照らす。
妻の横顔が青白く浮かび上がった。
美しい、と僕は思った。
苦悩に満ちていてもやはり美しい。
「私たち、最後はどうなるのかな」
妻がつぶやいた。
「わからない」
僕は答えた。
「でも、一緒にいることは確かだ。多分最後の最期まで」
「そうね」
「お墓は別々がいい?」
「一緒がいいな」
妻は僕の手を強く握る。
(了)