「お嬢様、ルシアナお嬢様」
いつだったか、聞き覚えがある女性の声が、ルシアナの名を呼ぶ。
(お嬢様と呼ばれるなんて、何年ぶりかしら? 随分と懐かしい声だけど一体誰?)
それより、自分は確か胸を刺されたはずだと思って、自分の胸のあたりを触って違和感を感じ取る。
胸の傷が無いというより、胸がなかった。
豊満とは言わないまでも、平均程度にあったはずの胸がまっ平になっている。
「お嬢様、どうなさったのですか?」
「え?」
顔を上げると、そこにいたのは、かつてヴォーカス公爵家に仕えていたステラ侍従長だった。
ルシアナが七歳の時に、生まれた孫の世話をすると言って娘のいる田舎に帰ったはずだった。
「どうしてここにあなたがいるのですか?」
「お嬢様がお庭の散歩をしたいと仰ったから庭に来たのですよ」
「え?」
庭と言われて、ようやくルシアナは現在どこにいるか気付いた。
彼女がいまいたのは、ヴォーカス公爵家の薔薇園だった。
「え? どういうこと? 私、いつの間に」
そう言ってルシアナは立ち上がろうとし、そして気付いた。
自分の体があまりにも小さいことに。
よく見ると、侍従長の姿も十年前と全く変わっていない。
「侍従長、いま、何年の何月何日?」
「アセリア歴五百十年三月十五日ですが」
「アセリア歴五百十年っ!? 十三年前……私はまだ七歳の……」
それが事実であるのなら、庭のこの様子も、侍従長がこの場にいるのも説明がつく。
ルシアナが七歳の頃の姿で十三年前の公爵邸にいる説明にはならないが。
「お嬢様、本当にどうなさったのですか?」
侍従長が心配するように尋ねた。
「待って、三月十五日って言った!?」
「はい、そう申し上げましたが」
アセリア歴五百十年年三月十五は、ルシアナの父である、アーノル・マクラス・ヴォーカス公爵が死ぬ日であった。
ルシアナの中でこの現象のすべてが纏まったわけではない。
いま、自分が過去にいるのか、それとも死ぬ前に見ている幻なのか、はたまたただの悪夢なのか。
それでも、彼女は動かずにいられなかった。
だが、ここでルシアナが父の死を語ったところで、信じてくれる人はいない。
いや、一人だけいることに気付いた。
ルシアナは彼の待っているところに向かって走った。
「お嬢様、どちらへ!?」
ここで、侍従長に追ってこられたら困ると、ルシアナは近道をするついでに、狭い場所を選んで移動し、屋敷の裏にある厩へと向かった。
(やっぱり、馬車が一台ない。お父様が乗っていた馬車が)
公爵家には馬車が二台あったのだが、そのうちの一台が無くなっていた。
「おや、お嬢様。どうなさったのですか?」
そういって、五十歳くらいの男が声をかけた。
彼はトーマス、この屋敷に昔から仕える元冒険者の男で、この時間は必ず馬の世話をしていた。
「トーマスさん! お願い、私を北の平原に連れて行って! お父様が危険なのです!」
「どういうことですか、お嬢様。落ち着いて下さい」
「夢の中で聖クリスト様がおっしゃったの。お父様が賊に襲われて命を落とすって。私なら助けられるって」
「聖クリスト様が? いや、いくらなんでも――」
聖クリストとは、神話に出てくる聖人であり、予知の力があったと言われている。
そして、その力を使い、未来の人間に予知で見えた光景を見せ、その者を破滅から守ることがあると言い伝えられている。
「トーマスさん、あなた、若いころに恋人を別の男に取られて、その腹いせに男の家の庭に、毎晩、発情期の猫を連れて行っていたそうね」
「な、なんでそのことをお嬢様がっ!? 誰にも話したことがないのに。というか、その時お嬢様はまだ生まれていない――まさか――」
「えぇ、聖クリスト様から聞いたの。こう言えば、あなたは信じてくれると」
当然嘘である。
この話は、ルシアナが婚約破棄されて傷心のまま馬車に乗せられて修道院に連れていかれたとき、その馬車を操縦していたトーマスが話していたものだ。
誰にも話したことのない自分の恥ずかしい話を聞かせて、婚約破棄くらい恥ずかしくもなんともないと彼は言いたかったのだろう。
ルシアナを慰めようとしていたことは彼女にも理解できたが、話題の選択はどうなのかと思った。
ただ、今にして思えば、トーマスはルシアナの味方ではなかったが、彼女に同情してくれている数少ない人間であった。
「わかりました。では、早速警備に連絡して部隊を――」
「いいえ、私たちだけで行きます」
「そんな、いまの私は戦えませんよ」
「大丈夫です。戦いにはなりません。私を連れて行ってくださればなんとかなります」
ルシアナが聞いた話では、賊に襲われたアーノルは護衛の兵と一緒に戦い、賊を撃退した。
だが、その時に賊から受けた傷が致命傷となり、回復魔法が間に合わずにこの世を去ったと。
事は急を要する。
回復魔法なら、ルシアナにも使えるはずだ。
「そのお嬢様らしからぬ口調もクリスト様の啓示を受けたからですか? わかりました、覚悟を決めます。ですが、お嬢様はそのままだと目立ちます。せめて、外套を被ってください」
「ありがとうございます」
そう言って、トーマスはルシアナに外套を被せて抱えて馬に乗り、裏門から飛び出した。
王都の北門を出た。
街道沿いを北上し、暫く進んだところで街道から離れて川沿いを北に進むようにトーマスに命令をした。
(お父様はなんでこんなところに馬車で?)
疑問は他にもある。
一緒にいた護衛も重傷を負ったが、殺されたのはアーノルただ一人だった。
本来、護衛対象であるアーノルが自ら前に出て戦う理由はない。
貴族の中には、自らの武力で成り上がり、その力を誇示するために自ら前に出て戦う貴族もいるが、アーノルは剣の訓練は行っていたが、しかしながら本質は戦闘貴族とは異なる。
それに、護衛として連れて行った人数も少ない。
昔から公爵家に仕えていた護衛の五人だけだった。まるで、信用のおける人間しか連れて行けないかのような人選だ。
「いたっ!」
川を北上したところで、賊に襲われている馬車を見つけた。
草地のぬかるみに車輪を取られてしまったようだ。
「本当に襲われているっ!」
賊らしき人間は全員倒されていたが、馬が殺され、そして護衛たちも何人か、傷が原因で起き上がれずにいる。
その護衛の一人が、馬を見つけた。
「誰だっ!?」
「私だ、トーマスだ」
「トーマス? なんでここに――」
護衛の一人が尋ねたところで、ルシアナは馬から飛び降り、アーノルの元へ駆け寄った。
その勢いで、外套が頭からずれ、その金色の髪が露わになる。
「ルシアナお嬢様!?」
護衛が驚き声を上げたが、ルシアナはそれを無視して、アーノルの手を握る。
「傷が内臓にまで達している……回復魔法を使います」
ルシアナはそう言ったが、しかしながら気づいていた。
回復魔法で助かる見込みは薄いと。
傷が内臓にまで達している。
血も多く失っていて、このままでは間に合わないと。
それでも、彼女は一縷の望みに縋るかのように、回復魔法を使った。
「グレーターヒール!」
「お嬢様が中級回復魔法をっ!?」
護衛が驚き、声を上げたが、驚いたのは彼らだけではない。
ルシアナ自身も驚いていた。
回復魔法の性能が、死ぬ前と比べ、段違いに上がっていたのだ。
(どういうこと? もしかして、一度死を体験したから?)
原因はわからないが、今、魔法を使った感じだと、さらに上の回復魔法が使えるかもしれないと、ルシアナはアーノルの手を強く握り、一度も成功したことがない、その魔法の名前を告げた。
「エクストラヒール!」
眩い光がアーノルを包み込む。
そして、光が収まったときにはアーノルの出血がピタリと止まり、そしてその顔には生気が戻っているようだった。
よかった、これならば助かるとルシアナが安堵した。
あと、死んだと思われていた馬も重傷ではあったが、かろうじて生きていたので、回復魔法で治療した。
その時だ。
「……馬車の中にいるお方を……お助け」
アーノルは僅かに意識を取り戻し、そう告げると、再び気絶した。
強力な回復魔法で体力を消耗しているのかもしれない。
自己治癒を促すように、睡眠補助を掛けた。
そしてルシアナは護衛たちを見て尋ねる。
「中に誰かいるのですか?」
「ええと……」
「いるのですね」
ルシアナは護衛が言い淀んだ理由、そしてアーノルが自ら前に出て戦っていた理由を考え、恐らく、馬車の中には本来この場所にいてはいけない人物がいるのであろうと推測した。
ルシアナが馬車を開けると、そこにいたのは、彼女と同じか、少し年下と思われる金色の髪の少年だった。
倒れている。
どこかに頭をぶつけたらしく、額のところに傷があったが、命には別状なさそうだ。
(……誰かしら?)
会ったことがない人物だ。
他国の貴族、もしくは――
「うっ、貴様は一体――」
「私は冒険者よ。あなたを治療するわ」
死ぬ前に出会った剣士の言葉を思い出し、ルシアナはそう嘘を吐いた。
小さな子供が上級回復魔法を使えることを、たとえ子供であっても要人に知られるのはよくないと思った。
「よく頑張ったわね――ヒール」
初級回復魔法をかけて頭の傷を癒し、ルシアナは優しく彼の頭を撫でた。
見た目の年齢は変わりないが、ルシアナの精神年齢は二十歳であり、目の前の少年は遥か年下の子供にしか見えなかった。
「大丈夫、外の人も無事よ。私が回復魔法で全員治しておくから、あなたは安心して眠りなさい」
そっと睡眠補助の魔法も発動させ、ルシアナは少年を眠りにつかせた。
馬車から降りて、他の護衛達の治療もする。
そして――護衛達にも回復魔法をかけて治療する。
「凄い、お嬢様がこんな魔法を使えるなんて――」
「ありがとうございます。おかげ様で皆、助かりました。しかし、お嬢様が何故ここに?」
「それは、聖クリスト様の導きです」
ルシアナは、トーマスに言ったのと同じ嘘を吐いた。
俄かには信じがたいだろうが、しかし、それ以外に説明が付かないため、護衛達は己を納得させるように神に祈るために眉間に指を当てる。
「それで、あなたたちにお願いがあります。ここに私がいたこと、私が回復魔法を使ったことを他言しないと約束してください。お父様と、中にいる少年には、旅の冒険者が助け、名前も告げずに去ったと言って下されば結構です。これも、聖クリスト様からのお告げによるものです」
聖クリスト様の名前を乱用することに対して罪悪感が積もっていくルシアナだったが、強力な回復魔法を使えることをアーノルに知られるわけにはいかないと、彼女は思った。
何故なら、ルシアナはこの時、既に決めていた。
もしも、ここが過去の世界だとしたら、この後、ルシアナはシャルド殿下と婚約することになる。しかし、いつか婚約破棄され、公爵家を追放される。
そうしたら、今度は修道院ではなく、冒険者になる。
できることならば、死ぬ前に出会った、朧げな記憶の中にいる、あの冒険者と一緒に旅をしたい。
(私に利用価値があるって思われたら、私は公爵家を追放されなくなってしまう)
そのためには、回復魔法を使えることはあまり知られてはいけない。
護衛達がどこまで黙っていてくれるかはわからないが、ルシアナは恩人であるし、聖クリスト様の言葉に従わない者はいないだろう。
ただ、先ほどの少年に顔を見られた可能性があるので、見た目については、ルシアナによく似た背格好の女の子だったと証言をしてもらうことにした。
「私の言葉を信じてくださるのでしたら、契約魔法で神に誓っていただきます」
「お嬢様は契約魔法を使えるのですか?」
「ええ、使えます。すべては聖クリスト様の賜物です」
契約魔法とは、簡単にいえば約束を必ず守るという魔法だ。
遥か昔は、この国で奴隷に使っていた魔法だが、その起源を遡れば婚姻の契約に使われていたそうで、いまでも結婚に契約魔法を使うことは多い。
ルシアナは修道院で修得させてもらった。その際に契約魔法を悪用してはいけないという契約をさせられたのだが、一度死んだ今でも契約は有効かどうかは、ルシアナにもわからなかった。
今回は嘘をついてはいるが悪用には入らないので問題はないだろうと思った。
ルシアナの言葉に従うように、護衛達は一カ所に纏まった。
そして、ルシアナは「プロミス」という名前の契約魔法を唱える。
「私の言葉に続いて復唱してください。『アセリア歴五百十年三月十五日』――」
『アセリア歴五百十年三月十五日』
「『アーノル・マクラス・ヴォーカス公爵及びその関係者を回復魔法で治療したのが』――」
『アーノル・マクラス・ヴォーカス公爵及びその関係者を回復魔法で治療したのが』
「『ルシアナ・マクラスであると他言致しません』」
『ルシアナ・マクラスであると他言致しません』
護衛達が全員で復唱をした。
これで契約魔法が成立した。
もっとも、契約魔法は教会や王城で正規の手続きを踏めば簡単に解くことができるので、絶対に秘密がバレないわけではないのだが、あとは彼らを信じるしかない。
契約魔法で契約魔法を解かせないようにしたらいいのではないか? と思うが、それは禁止行為であり、そんなことをしたのがバレたら、法の裁きにより魔力を封印されて、契約魔法だけでなくすべての魔法が使えなくなってしまう。
「それでは、私は失礼します。トーマスさん」
「ええ、戻りましょう。侍従たちが心配なさってます」
「うげっ」
思わず、ルシアナはそう声を漏らす。
きっと帰ったら怒られるだろう、そう思いながら、ルシアナはトーマスに抱えられて馬に乗せられたのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ルシアナ達が去ったあと、暫くしてアーノルは意識を取り戻した。
「私は……致命傷だと思ったが、生きているのか」
上半身を起こしたアーノルは自分の胸を触り、あるはずの傷がないことに気付き、喜ぶより前に訝しんだ。
回復魔法というものは、基本、人間が持つ自己治癒能力を高めるためのものであり、その能力を超える傷は治療できない。
そして、アーノルの傷は治療できない、そう思っていた。
だが、彼の傷は完治していた。
これは、中級回復魔法では、いや、上級回復魔法でも難しい。
「旅の冒険者様が治療してくださいました」
「冒険者? 一体何という名前だ?」
「いえ、名前はわかりません。しかし、ルシアナお嬢様に少し似ている少女でした」
「ルシアナに? その冒険者は子供なのかっ!?」
護衛が話した冒険者の外見は、金色の髪の七歳前後の少女であったそうだ。
自分を冒険者だと言って、治療を施し、名前も報酬も求めずに去って行ったという。
何故、その少女を引き止めなかったのかとアーノルは部下に叱責しそうになったが、馬車の中の存在を考えて、見ず知らずの冒険者を同行させる危険性を考えると、あながち部下を責められない。
せめて、名前くらいは知りたかったが。
「――そうだ」
アーノルは馬車の扉を開け、少年の無事を確認してほっと息を吐く。
「ご無事でしたか」
「ヴォーカス公爵……迷惑をかけたな」
「いえ、こちらも賊の動きを読み切れずに――あの」
「……私は天使に出会った」
少年は微かな笑みを浮かべ、そう言った。
その言葉の意味をアーノルは理解できなかった。
だから、彼は尋ねる。
「天使とはどなたのことでしょうか、シャルド殿下」