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第8話 家族



 契約で一樹と付き合い始めてから一か月がたった。



 一樹に「実家に一緒に来てくれ」と言われた。「そろそろ身を固めたらどうだ」と、母親がうるさいから、安心させたいということだった。



「お母さんに嘘ついていいんですか?」


 私が尋ねると一樹は困ったような顔で微笑んだ。


「……まあ、しかたないでしょう?」


 一樹は飲めもしないブラックコーヒーを自販機で買って、一口飲んで顔をしかめた。


 嘘なんてつけないくせに、と私は思った。



 一樹の家は千葉にあった。


 見た感じは、よくある住宅街だ。


 民家が並んでいて、辛うじてコンビニがあって、若い人が少ない。


「ここが実家」


「……へえ」


 ちょっと古ぼけた、二階建ての一軒家だった。




 一樹がインターフォンを鳴らす。


 ちょっと待つと、女性の声で返事があった。


「はい、どちら様ですか?」


「母さん、僕だよ。一樹」


「今開けるから、ちょっと待ってて」


 玄関のドアが開き、老人というには若い女性が中から現れた。



「ひさしぶりね、一樹。……そちらのお嬢さんが、電話で話してた……?」


「うん、お付き合いしてる七海さん」


「はじめまして、一樹の母です。一樹がお世話になっています」


 女性が頭を下げた。私もあわててお辞儀をする。


「いえ、こちらこそ一樹さんにはお世話になっていて……」


「母さんも七海さんも、中に入らない? こんなところで話していても仕方ないでしょう?」


「ああ、そうね。気が利かなくてごめんなさい」



 一樹の母親は玄関から応接間に一樹と私を通すと「ちょっと待っててね」と言って部屋を出て行った。


「一樹さん、私、何を話せばいいの?」


「うーん、母さんは話したがりだから、静かに聞いてくれれば大丈夫だと思う」


「分かった」


 応接間の扉が開いた。



 グラスが三つ、机に置かれた。


「よかったらどうぞ」


 一樹の母親から勧められたので、私はグラスを持ち上げた。よく冷えている。


 一口飲んだ。おいしい麦茶だ。横目で一樹を見ると、一樹は微笑んでいた。



「改めて紹介するね。こちら、酒井七海さん。お付き合いさせてもらってる」


「酒井七海です。はじめまして」


 私は緊張しながらも、微笑んで挨拶をした。


「一樹の母です。まあ、こんなかわいらしい方が……。一樹とはどこで知り合ったんですか?」


「バーだよ、母さん。七海さんはバーテンダーなんだ」


「まあ、すごい」


 一樹の母親は、驚いた顔が一樹に似ていて、私はなんだか感心してしまった。




「あの、まだ見習いです」


「水商売は、大変よね」


「ええ、まあ……」


「私も少しだけ夜の仕事をしたことがあったけど……あまり良い思い出はないわね」


「そうなの? 母さん、知らなかったよ」


「言ってないもの」


 一樹の母親はふふふと笑って、麦茶を飲んだ。



「一樹は世間知らずでしょう?」


「えっと……まあ」


 おもわず私が素直に答えると、一樹は、んんっと咳払いをした。


「急にお金持ちになっちゃったから、悪い人に騙されてないか心配だったけど……あなたみたいなしっかりしたお嬢さんがいっしょなら、心強いわ」


 一樹の母親は私に微笑みかけた。人懐こい笑顔がやっぱり一樹に似ている。


「母さん、僕は大丈夫だから! 騙されたりしないって!」



 焦る一樹を横目に、私は麦茶を飲む。


 私は酔っぱらって大金を投げだした一樹を思い出して、苦笑した。



「ところで夕飯はどうするの? みんなで一緒に食べる? 出前とろうか?」


 一樹の母親が腰を浮かせたところで、一樹が言った。


「母さん、今日はもう、これで帰るよ」


「……そう……」


 少し寂しそうに笑う一樹の母に、私は思わず声をかけた。


「また、おじゃましてもいいですか?」


「ええ! もちろん!」


 一樹の母親の顔がパッと明るくなる。



「それじゃ、これで帰るね。母さんも、もう若くないんだから、無理しないでね」


 玄関で一樹が母親に声をかけた。


「はいはい。それなら早く……私を安心させて欲しいわ」


 意味ありげな視線で、一樹の母親は私と一樹を交互に見つめる。


「母さん!」


「はいはい」


 一樹は赤い顔をして、まったく、とつぶやいた。



「おじゃましました」


「おもてなしもできずに、ごめんなさいね」


「いいえ」


「それじゃ、母さん、またね」


「一樹、七海さんを大切にしなさいよ」


「……うん」



 一樹と電車に乗り、東京に帰る。


 右隣に座った一樹の体温が、心地よい。


「母さん、マイペースで……ごめんね」


「ううん。素敵なお母さんだね」


「うん」


 一樹は素直に頷いた。



「一人で僕を育ててくれたんだ。……大事な人なんだ」


「うん……」


 帰ってきた一樹を見た時の、嬉しそうな彼女の顔を思い出して、私の胸がちくりと痛んだ。


「良いお母さんだね」


「……うん」



 電車は川を渡り、千葉から東京へと進んでいく。


「東京に、呼ばないの? お母さん」


「……実家から離れたくないって、お父さんを置いて行きたくないって、言われた」


「……そっか」


 目をつむると電車の振動と一樹の温かさで眠くなってきた。



「そろそろ、東京だよ」


「あ……私、寝てた?」


「ちょっとね」



 一樹は優しい笑顔で私を見つめていた。



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