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ヴァイスベルク侯爵家の朝食の間。
大きな窓から見える庭園では、秋薔薇が最後の輝きを放っている。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルクは、いつもより神妙な面持ちで両親の前に座っていた。
「父上、母上、相談があります」
侯爵夫妻は顔を見合わせた。
息子がこのような改まった態度を取るのは、新しい魔術理論を発見した時くらいだ。
「どうしたの、エルンスト?」
母のマルガレーテは、優しく微笑んだ。
蜂蜜色の髪を緩やかに結い上げた彼女は、息子とは正反対ののんびりとした雰囲気を纏っている。
「セシリア嬢へのプレゼントについてです」
エルンストは真剣な表情で続けた。
「我々の『愛の実証的研究』において、贈り物の交換は重要な要素となります」
父のゲオルクは、新聞から顔を上げた。
「ほう、プレゼントか」
銀髪に柔和な笑みを浮かべる侯爵は、息子の言葉に興味を示した。
「しかし、何を贈るべきか判断基準が」
エルンストは困惑していた。
「通常の魔術研究なら、必要な資材や文献は明確ですが」
「あら、難しく考えすぎよ」
マルガレーテは紅茶を一口飲んだ。
「相手が喜ぶものを贈ればいいのよ」
「相手が喜ぶもの」
エルンストは考え込んだ。
「セシリア嬢の好みは、古代魔術文献と甘いもの、特に蜂蜜菓子です」
「じゃあ、それを贈れば?」
ゲオルクがのんびりと提案した。
「いえ、それでは単純すぎます」
エルンストは首を振った。
「プレゼントには、贈り主の意思と労力が反映されるべきでは」
夫妻は再び顔を見合わせ、くすりと笑った。
「やっぱりこの子は私たちの息子ね」
マルガレーテが呟く。
「どういう意味ですか、母上」
「いいえ、何でもないわ」
彼女は微笑みを深めた。
「ゲオルク、あなたが私にくれた最初のプレゼントを覚えている?」
「ああ、もちろん」
侯爵の目が優しく細められた。
「『星霜術式大全』の完全手写本だった」
「三ヶ月かけて、一文字一文字写してくれたのよね」
マルガレーテの頬がほんのりと赤らんだ。
「魔術陣も全て、寸分違わず」
エルンストは両親を見つめた。
普段はのんびりしている二人だが、王国屈指の魔術師でもある。
その二人が若い頃に交わした愛の形を、今初めて知った。
「写本」
彼は呟いた。
「それだ」
突然立ち上がったエルンストに、両親は驚いた。
「どうしたの?」
「禁書庫にある『古代共鳴理論』」
彼の灰色の瞳が輝いた。
「セシリア嬢が探していた文献です。門外不出ですが、手写しなら」
ゲオルクは苦笑した。
「あれは300ページを超える大著だぞ」
「問題ありません」
エルンストは自信に満ちていた。
「私の並列思考術式なら、効率的に」
「まあ、好きにしなさい。渡す相手もセシリア嬢ならば問題はないだろう」
侯爵は肩をすくめた。
エルンストは一礼すると、すぐに書斎へ向かった。
残された夫妻は、温かな眼差しで息子の背中を見送った。
「あの子も、ようやく」
マルガレーテが呟く。
「ああ、愛を知り始めたようだ」
ゲオルクは妻の手を優しく握った。
◆
ヴァイスベルク侯爵家の禁書庫は、屋敷の最深部に位置していた。
幾重もの魔術結界に守られたその場所には、数世紀にわたる秘伝書が眠っている。
エルンストは、目当ての書物を慎重に取り出した。
革装丁の表紙には、古代文字で『共鳴理論』と刻まれている。
書見台に本を置くと、彼は深呼吸をした。
「並列思考展開」
詠唱と共に持参してきた50本のペンが浮遊し──それぞれが独立した意思を持つかのように、羊皮紙の上で踊り始めた。
通常、写本は一文字一文字を丁寧に書き写す地道な作業だ。
しかしエルンストは違った。
彼の並列思考術式は、50の思考を同時に稼働させることができる。
各ペンは彼の意識の一部であり、完璧な連携を保ちながら文字を紡いでいく。
古代の術式図も、複雑な注釈も、全てが正確に再現されていく。
インクが乾く間もなく、次のページが書き上げられていく。
この光景を見た者がいれば、まさに神業と評しただろう。
しかしこれほどの高等技術を用いても、作業は困難を極めた。
並列思考の維持には膨大な集中力が必要となるし、並列思考中にインプットされた情報の処理も大変な頭脳労働だ。
基本的に貴族は例外なく魔術をたしなむが、エルンストと同年代の貴族子弟で彼と同じ事をやってのけるものはいない。
それどころか、大人であってもエルンストに及ぶ魔術師など滅多にいなかった。
その彼をして、この作業は困難を極める。
ただ文字を書き写すだけならばともかく、この『共鳴理論』という書は読むだけで精神を削る“力のある文字”で書かれているからだ。
常人ならば一頁目を目にしただけで廃人となるほどに。
禁書庫におさめられている書というのは、おおむねそういった“有害性”を持つ事が多い。
ゆえにここへ立ち入る事ができる者はエルンストとその両親だけである。
そうして書き写す事数時間──額に汗が滲み、指先が震え始めてもエルンストは手を止めなかった。
彼の脳裏にはセシリアの笑顔が浮かんでいた。
古代文献を前にした時の、あの知的好奇心に満ちた表情。
それを思い出すだけで疲労が吹き飛んでいく。
そうして夕暮れ時、エルンストは完成した写本を前に深い満足感に浸っていた。
300ページ全てが完璧に書き写されている。
古代の知恵が新しい命を得て羊皮紙の上に蘇った。
「これでセシリア嬢の研究が飛躍的に進むはずだ」
慎重に写本を革装丁で綴じるエルンスト。
表紙には金箔で『セシリアへ』と記されてある。
ふと窓の外を見ると、王都に夜の帳が下りようとしていた。