その日、埃の積もった古い書庫の扉を開け放つと同時に、エリザベス・グリーンは小さく息を吐き出した。秋の訪れを告げる涼やかな風が、カーテンの隙間からひゅう、とかすめていく。外は爽やかな晴天で、時折遠くから小鳥のさえずりが聞こえてくる。
もっとも、この伯爵家の書庫を訪れる者は滅多にいない。書庫に入り浸っているのは、好奇心と知識欲旺盛なエリザベスくらいだ。彼女は古びた書物に手を伸ばし、すでに何度も読み返しているはずの分厚い政治史の本を取り出した。
――ここはグリーン伯爵家。かつては広大な領地を誇り、財政的にも潤っていた名家だった。しかし先代当主の散財や、天候不順による度重なる飢饉、隣国との小競り合いなどの悪条件が重なった結果、現在では財政が逼迫し、屋敷を維持するのがやっとの状況に追い込まれている。
当主であるエリザベスの父・ロベルト・グリーン伯爵は、書斎からほとんど出てこず、常に逼迫した家の台所事情に頭を抱えていた。母は病弱で、ほとんどベッドの上から動けない。そのため、幼いころからエリザベスは、この屋敷の事実上の切り盛りを執事やメイドたちと協力して行ってきたのである。
エリザベスには兄弟姉妹はいない。かつては次期当主として英才教育を受ける兄がいたが、病を患ったのちに若くしてこの世を去ってしまった。さらに、同じ頃に母の体調も深刻化し、彼女が自由に動けるようになることはなかった。
そのような状況にあって、エリザベスは自分なりに家を支えようと必死だった。文字の読めない使用人に読み書きを教えたり、古い道具を修繕して転売したり、時には領内の商人や農民たちに助言をしたりもした。知性と行動力を併せ持ち、しかも美しいときているので、領内の人々は一目置く存在である。
もっとも、貴族としての風格や華やかさを兼ね備えている一方、出世欲や名誉欲とは距離を置いた考えを持つ。穏やかで慎ましく、しかし芯の強さを決して失わない。そんな彼女の人柄を慕う者は多かった。領民の間では「グリーン伯爵家が苦しいのは気の毒だが、エリザベスお嬢様がいれば、いつかきっと立て直せるだろう」という噂すらあったほどだ。
だが、ここ数年の財政状況はさらに悪化し、とうとう危機的な状況に陥っていた。納税もままならず、屋敷の管理も行き届かない。古参の使用人たちが次々と去っていく中、必死に留まってくれた者たちの給金すらままならない。兄が残した莫大な借金も、まだ返し終わっていない。
エリザベスは先ほどまで、そんな暗澹たる現実からしばし目を背けるように、書庫へ逃げ込んでいたのだ。歴史書に目を通している瞬間だけは、自分が置かれた立場を忘れることができた。だが、そういつまでも現実逃避はできないと彼女自身が一番分かっている。
書庫の扉が開いた。足音を聞くより早く、埃っぽい空気の流れに気づいたエリザベスは振り返る。そこに立っていたのは、家令兼執事のメイソン・スチュワートだった。彼は初老に差しかかった落ち着きのある紳士で、端正な口ひげを整えた姿が印象的である。
「お嬢様。旦那様がお呼びでございます」
メイソンの声は低く、穏やかながらも何かを含んでいるように聞こえた。エリザベスはその言葉に一瞬身構える。
父は、彼女を直接呼びつけるようなことは滅多にしない。よほどの要件であるに違いない。まして、最近は母の治療費や領民の生活の面倒など、多方面から資金が必要だ。父が何を切り出すか、エリザベスはほぼ理解していた。
「分かりました。すぐに向かいます」
そして本をそっと閉じ、埃をはたくと、エリザベスはメイソンとともに書斎へと向かった。
書斎の扉を開くと、そこは重苦しい空気に包まれていた。分厚いカーテンが閉じられ、部屋の中は昼間とは思えないほど薄暗い。机の上には大量の書類が散乱し、蝋燭の灯火がちらちらと瞬いている。
大きなデスクの向こう側には、ロベルト・グリーン伯爵がやつれた様子で座り込んでいた。彼は以前に比べ、随分と老け込んだように見える。その顔には疲労と悲壮感が濃く刻まれ、目の下には深いクマがある。
「お呼びでしょうか、父様」
エリザベスはデスクの前で恭しく頭を下げる。ロベルトは生気のない目で彼女を見やると、返す言葉に迷うように視線を落とした。
「……エリザベス。すまない。お前を巻き込む形になってしまう」
彼は掠れた声で言った。その一言で、エリザベスは自分が呼び出された理由を一層強く確信する。「巻き込む」とは、つまり嫁入りの話しか政略結婚しかないだろう。財政難を打開するための縁談。それしか道は残されていないと。
「グリーン伯爵家は、もはや先が長くない。もはや……余裕などないのだ」
ロベルトの声には自責の念がにじむ。もとより、エリザベスにとって父は、理想的な存在ではなかった。財政を悪化させた原因のひとつは先代である祖父だが、ロベルトも決して無関係ではない。領内の管理を怠り、裕福だったころの勢いそのままに浪費していた時期があった。
とはいえ、父は母の看病や葬儀費用などを背負い、失意の中で借金返済に追われ続ける苦境に立たされてきた。この数年、夜な夜な書斎にこもり、なんとか解決策を模索していたのも知っている。
だが、結局、ここに至っては「娘をよき家に嫁がせるしか手段がない」という結論に達したのだろう。
「……どのような話でしょう」
エリザベスは静かに言葉を発しながら、心の底で冷たい何かが広がっていくのを感じた。望みもしない結婚、愛などない縁談に身を捧げることになるのだと、覚悟しながら。
ロベルトは書類の山をかき分け、奥から一枚の公文書のようなものを取り出した。エリザベスへ渡されたそれには、王国の正式な印章が押されていた。
「――クロフト公爵家から縁談が舞い込んできた。相手はアレクサンダー・クロフト公爵閣下。ご存知の通り、あちらはかなりの大貴族だ」
父の声は震えていた。相手が“あの”クロフト公爵家であることは、エリザベスも予想の範疇だった。グリーン伯爵家を支援してくれるだけの財力と、政治的影響力を持つ家は、そう多くない。
アレクサンダー・クロフト――若くして現当主の座を継ぎ、冷徹無比の手腕で膨大な領地を治めている、とうわさの人物だ。領民からは慕われているという話もあるが、貴族社会ではその冷酷さや妥協のない交渉態度から恐れられている。
「父様のおっしゃることは、よく分かりました。……お受けするしかないのですね?」
エリザベスは淡々とした口調で言った。その一方で、胸の奥に重たい痛みが生じるのを感じる。
「すまない……。お前をこんな形で送り出すことになるなんて……私には、これ以上の選択肢が見いだせない。どうか許してくれ」
父の肩は小刻みに震えている。彼もまた、やりきれない思いに苛まれているのだろう。その姿を見て、エリザベスの中にある複雑な感情がさらにかき乱される。
だが、そんな動揺を表に出すわけにはいかない。長年にわたって、父の代わりに領地や家のことを取り仕切ってきた。今さら泣き崩れたり、拒絶したりしても何も変わらないのは分かっている。
「いいえ。謝らないでください、父様。私も……分かっていましたから」
エリザベスは丁寧に礼をすると、その場から静かに立ち去った。背後で聞こえた父のすすり泣きの音が、どこか遠くで響いているように感じた。
部屋を出ると、廊下の奥で待っていたメイソンが心配そうにこちらを見つめていた。
「お嬢様……」
「大丈夫です。私が決めたことですから」
エリザベスはそう言ったが、声はやや震えていたかもしれない。苦々しい決断だったが、今の家の状況を考えると、それしかなかった。自分が犠牲になることで、グリーン伯爵家が助かるなら――そう思うしかない。
もとより、自分の幸せなど二の次にしてきた。家族や領民たちを守るために何をするかが、自分の人生における第一義なのだと、エリザベスは考えている。しかし、それにしても政略結婚はあまりに厳しい道のりだ。
公爵家の令嬢たちが華やかな社交界でデビューし、優雅に舞踏会に興じ、ロマンスを楽しみながら結婚相手を探す――そんな夢物語とは真逆の境遇にある自分を、少しだけ哀れにも思う。それでも、心の奥底では「この程度でくじけてはならない」と、強い意志が芽生えていた。
* * *
数日後、エリザベスの元に正式な婚約の打診が到着した。クロフト公爵家からの使者は馬車でやってきて、仰々しく公爵家の威光を示す書類を差し出す。
その書面には、アレクサンダー・クロフト自身が署名した文面があった。つまるところ「貴家の令嬢を妻として迎えたい。これは互いの利益となるものと確信している」という、なんとも味気ない内容である。やはり“愛”など欠片も感じさせない。
エリザベスはその文章を読み、心の奥底で淡い失望を味わった。しかし仕方ない。本来、このような形で結婚を決める貴族は珍しくないので、形式としてはおかしなことではない。
それに、相手がどのような人物であろうと、今のグリーン伯爵家には選択肢がない。エリザベスは使用人たちや領民たちの生活を守るため、そして母や父を苦しめないためにも、この婚約を受け入れるしかない。
「お嬢様は、アレクサンダー・クロフト閣下のご人柄について、どうお考えですか」
メイソンが問う。彼はエリザベスにとって、使用人でありながらも父親代わりのような存在でもある。その言葉には、ただの興味ではなく、深い憂慮が含まれていることを、エリザベスは知っていた。
「……残念ですが、私は直接お会いしたことがありませんので」
そう答えながら、エリザベスは机の上に広げられた地図へと視線を落とす。クロフト公爵家は、王国の中でも豊かな地域を治めていると聞く。領民は比較的豊かである一方、アレクサンダーは容赦のない徴税と徹底した統治で他貴族からは“冷血”と陰口を叩かれることもあるという。
「ただ、噂話に左右されるのは得策ではありません。実際に会ってみなければ分からないことも多いはずです。噂が全て真実とは限りませんから」
エリザベスは表向きにそう回答しているが、心の奥で「噂が真実だったらどうしよう」という不安が微かに疼く。冷酷非情な夫との結婚生活を想像するだけで、暗い影が心に落ちるようだった。
それでも、彼女は自分に言い聞かせる。自分には家を守る義務がある。たとえどんな道であれ、歩まねばならない。
* * *
婚約が正式に決まってから、エリザベスは一度だけアレクサンダーと文通を交わす機会を得た。正式には“挨拶状”として送られてきた手紙に、エリザベスが礼を述べた返事を書いたのだ。
彼の書簡は、端的で簡潔だった。「貴家との縁組を喜ばしく思う。挙式前にいくつか段取りを確認したい」――そんな事務的な文面で、優美な言葉や気遣いの文句は一切なかった。
エリザベスの返事は貴族の習わしにのっとり、丁寧な敬辞を並べたが、それに対する返書はなかった。どうやら彼は人と深く交流することにあまり興味がない性格らしいという、ある種の確信を得るに至った。
(……きっと、私は彼にとって数多くの“取引先”の一つに過ぎないのだわ)
既にこの結婚は、クロフト家とグリーン家の利害関係を埋め合わせるための政略的契約であるという事実を、エリザベスは噛み締めていた。
挙式は早々に執り行われることが決まった。何しろグリーン伯爵家は一刻を争うほどに切羽詰まっている。あちらの公爵家がその事情を汲んでくれたのか、それとも純粋に面倒を早く片付けたいだけなのか――いずれにせよ、結婚までの猶予はわずかであった。
* * *
そして婚約成立から数週間後。アレクサンダー・クロフト公爵本人が、グリーン伯爵家を訪れることになった。
挙式前の顔合わせという形だが、実際には“屋敷の状況確認”の要素が強い。アレクサンダーにとっては、これから縁組む伯爵家がどういう状態なのかを把握しておきたいのだろう。
当日、朝からエリザベスは身支度や屋敷の掃除の指示で大忙しだった。来客のために、最低限のもてなしはしなければならない。長年使われていなかった迎賓用のサロンをなんとか整え、床の敷物を新調こそできないまでも、しっかりと清掃して埃を払い、古びてはいるが品のある調度品を配置する。限られた予算で用意した花を飾り、祖母の代から伝わる食器を磨き上げる。
使用人たちは必死に頑張ってくれた。それでも、豪華絢爛とは程遠い。クロフト公爵家から見れば、粗末なもてなしに映るかもしれないが、これがグリーン伯爵家の現状だった。
「急ごしらえではありますが……。お嬢様、いかがでしょう」
メイド長のステラが、サロンの最後の確認を終えて振り返った。彼女の服はすでに埃まみれだ。しかし、その表情にはやり遂げたという安堵の色が浮かんでいる。
「ありがとう、ステラ。皆のおかげで、これだけ整えば十分だと思います。立派ですわ」
エリザベスが微笑むと、ステラはうっすら涙ぐみながら頭を下げた。
「いえ……お嬢様のために、これくらい当然ですわ」
その言葉にエリザベスは胸が熱くなる。本来なら使用人たちに十分な給金を払えていないのに、こうして尽力してくれるのだから、感謝の念は尽きない。
やがて正午を少し回った頃、クロフト家の馬車が到着したとの報せが入った。急いでサロンに戻ったエリザベスは、緊張で胸が高鳴るのを感じる。部屋のドアの前にはメイソンが控えている。
「お嬢様、ご準備はよろしいですか」
「……はい。落ち着いて対面しようと思います」
エリザベスは大きく息を吐き、背筋を伸ばした。貴族として堂々としていなければならない。相手がどれほど冷徹であろうと、卑屈な姿を見せることは誇りに反する。彼女はドアノブに手をかけ、サロンの扉を開けた。
サロンの中央には、一人の男性が立っていた。黒い髪を短めにまとめ、整った顔立ちをしている。背は高く、細身ながら引き締まった体つきだ。厳格な面差しで周囲を冷ややかに見回すその姿は、噂通りの“冷たさ”を漂わせているといえた。
「グリーン伯爵家のエリザベスです。ようこそ、お越しくださいました」
彼女が優雅にドレスの裾をつまみ、礼をする。それに対して、アレクサンダー・クロフトはわずかに頭を下げるにとどめた。貴族社会ではもう少し気取った挨拶があるものだが、彼は形式的な礼儀しか示さないようだ。
「アレクサンダー・クロフトだ。今回の縁組について、いくつか確認させてもらうことがある」
低く響く声には、自身の立場に揺るぎない自信が窺える。彼は右手を軽く上げる仕草をした。すると従者の一人が恭しく頭を下げ、アレクサンダーの後ろに下がる。
「こちらへどうぞ。お飲み物をお出しします」
エリザベスは冷静を装いながら、サロンの一角に用意した席を示した。アレクサンダーは何も言わずに座る。エリザベスも向かい側に腰掛けたが、まるで殺伐とした商談の場のような空気が漂っているのを感じる。
サロンに置かれた時計が、小さく時を刻む音だけが響く。遠くからは鳩の鳴き声が聞こえてくるが、部屋の中は妙に静まり返っていた。
やがてメイドが紅茶を運んできた。エリザベスが「どうぞ」と勧めると、アレクサンダーは一口口に含む。
「……なるほど」
そう呟いたきり、感想らしき言葉は何もない。決してまずい紅茶ではないはずだが、彼は味をどう評価したのか分からない。エリザベスは内心でため息をつきそうになるが、微笑を保つ。
するとアレクサンダーは静かに口を開いた。
「先に断っておくが、私はこの結婚を純粋な愛のために望んでいるわけではない。そちらも承知のうえだろう」
単刀直入すぎる言い方に、エリザベスは胸が少し痛んだが、すぐに微笑を浮かべて応じる。
「ええ。存じております。これは家同士の縁組。私も、そういうものだと割り切っておりますわ」
彼女は毅然として答えた。自分が弱々しい態度を見せれば、相手に付け込まれるかもしれない。何より、グリーン家の面目のためにも強い意志を示さなければならない。
「それなら構わん。挙式の日程については――」
アレクサンダーは懐から小さなメモを取り出し、既に準備していたのだろう、日取りや場所、参列者の人数などを一方的に伝えてきた。
(やはり、全て彼のペースなのね)
エリザベスはそのことを実感する。こちらの希望は一応尋ねられたが、それはおざなりな形式的なものに過ぎず、実際には彼の方がすでに大筋を決めているようだ。
そうして二人の間で、ほとんど“書面上の”やり取りが繰り返された。愛を語るどころか、お互いを知ろうとする会話もほとんどない。あくまで実利を優先するアレクサンダーの態度に、エリザベスは薄い絶望を感じる。
それでも、時折アレクサンダーの従者や部下が部屋に出入りし、そのたびにエリザベスが丁寧に対応すると、彼女の知的で落ち着いた振る舞いに感心するような表情を見せる者もいた。エリザベスはそれに気づき、屋敷のもてなしが不足している点を詫びるなど、機転の利いた言葉をかけていた。
家臣たちは好感を抱いたようで、エリザベスに温かい視線を向ける。しかしアレクサンダー本人は無表情で、彼女に興味を示している様子はまるでない。
形式上の話し合いが一通り終わると、アレクサンダーは立ち上がり、屋敷を簡単に見て回ると言い出した。エリザベスは案内役を申し出るが、彼は「自分ひとりで構わない」と突き放すように応じる。
しかし貴族の礼儀として、エリザベスは黙って従うわけにもいかなかった。結局、二人で屋敷内を回ることになるものの、彼は終始無言に近かった。長い廊下を歩きながら、時折小さく鼻を鳴らすような仕草を見せる。
(……いい印象は持たれていないのかもしれないわね)
古びた床や剥げかけた壁。維持費を削るために十分な修繕もできず、華やかだった時代の面影は薄れている。アレクサンダーの目にはどう映っているのか。
やがて一通りの案内が終わると、彼は乗ってきた馬車へ戻る準備を始めた。エリザベスはサロンの入り口で見送る。
「挙式の段取りは、あちらで整えておく。こちらからは特に要望はないな?」
「……はい、特にございません」
「そうか。であれば、当日を楽しみにしているとでも言っておこう」
最後の一言が、一応の社交辞令なのか、それとも皮肉交じりなのか、エリザベスには判断がつかない。彼女が礼をしていると、アレクサンダーは踵を返し、そのまま馬車に乗り込んだ。従者たちも続々と乗り込み、やがて豪華な馬車は伯爵家の門を後にする。
静寂が降りた玄関先で、エリザベスはため息をついた。初対面は想像以上に味気なく、冷ややかだった。婚約者であるにもかかわらず、会話はほとんど成り立たず、彼の本心はまるで見えてこない。
それでも、このまま数日後には挙式を迎えることになるのだ。
(愛なんて、最初から期待してはいけない。それは分かっていたけれど……)
エリザベスは自分にそう言い聞かせる。これが政略結婚の現実なのだと。
* * *
クロフト公爵家との婚約が公になり、領内でも話題になった。領民たちの多くは、エリザベスが家を救うために大貴族へ嫁ぐと聞いて胸を痛めながらも、「お嬢様が決めたことなら仕方ない」と納得するしかない。
一方、貴族社会でも小さな騒ぎが起きていた。「あのクロフト公爵が、グリーン伯爵家の令嬢と結婚?」という話題だ。財政難の伯爵家とはいえ、エリザベス自身はそれなりに社交界で名が通っている。美しく知的で品格を持つ令嬢として評価されていたからだ。
中には面白くない顔をする者もいる。かつてエリザベスに言い寄っていた侯爵家の青年や、その取り巻きたちは、これを聞いて面白がるように噂を流し始める。「クロフト公爵は女を人形のように扱うらしい」「エリザベス嬢は道具として利用されるだけだろう」などと。
しかしエリザベスはそんな噂を聞き流す。今さら周囲の評価を気にしても仕方がない。重要なのは、グリーン伯爵家が救われるという事実。自分の想いなど、後回しでいい――そう言い聞かせる日々が続いた。
挙式の日が近づくにつれ、母の体調がさらに悪化した。ベッドから起き上がることもままならず、医師からは結婚式に参列できるかどうかも疑わしいと言われるほど。
母は弱々しい声で、「どうか幸せになりなさい」とエリザベスの手を握るが、彼女のことを心配しているのは誰の目にも明らかだった。
エリザベスとしては、母がこれ以上心労を募らせないように笑顔を見せるしかない。「大丈夫ですわ、お母様。きっと私はうまくやってみせます」と。だが、その言葉の裏には、どこか虚しさが巣食っていた。
* * *
そして迎えた挙式の前夜。クロフト公爵家の広大な屋敷に招かれたグリーン伯爵家の者たちは、緊張の面持ちで晩餐に臨んでいた。挙式は翌日、王都にある大聖堂で行われる予定で、その前祝いとしての晩餐会が盛大に催されている。
アレクサンダーはもちろん、彼の親族や家臣たちも参加し、それなりの豪華な宴席が用意されていた。だが、クロフト家の者たちとグリーン家の者たちでは、経済力や衣装の華やかさに圧倒的な差がある。グリーン伯爵であるロベルトは居心地悪そうにしており、エリザベスはそんな父を気遣いつつ、落ち着いた態度で応対していた。
会場の一角では、クロフト家の家臣がエリザベスに挨拶を交わしてくる。彼らは彼女に好感を持っているらしく、控えめながらも、「これからどうぞよろしくお願いします」と丁寧に声をかけてくれる。
エリザベスは微笑みを返しつつ、「こちらこそ、私に何かできることがあれば遠慮なくお申し付けください」と頭を下げる。その振る舞いには決して媚びがなく、かといって傲慢でもない絶妙なバランスが感じられ、家臣たちは一様に感心した様子を見せた。
しかし、当のアレクサンダーはほとんどエリザベスに近寄ろうとしない。大きなテーブルの主座に腰掛け、淡々と食事を進めながら、時折家臣からの報告を聞いているようだ。婚約者に視線を向けることすらほとんどしない。
(まあ、今さら驚くことでもないか)
エリザベスはちらりと彼の横顔を見て、そう思った。明日の挙式が済めば、形式上は夫婦となる。しかし彼は自分に興味を持っていない。エリザベスも、それ以上の情を向けるつもりはなかった。
宴もたけなわの頃、突然、アレクサンダーが席を立ち上がった。周囲が一瞬、視線を彼に集める。彼は持っていたグラスをテーブルに置き、冷ややかな眼差しで出席者を見回した。
「今日は諸君、ご苦労だった。明日の挙式に備え、私も少し早めに部屋に下がるとする。……では、失礼する」
それだけ言うと、アレクサンダーは淡々と宴会場を後にした。何人かが慌てて「おやすみなさいませ」と声をかけるが、本人は特に返事をするでもなく、背中を向けたまま廊下へ消えていく。
取り残されたエリザベスは、ややきまり悪い気持ちになった。新婦となる自分を置いて、さっさと退席するなど失礼ではないのかと周囲から思われていないだろうか。
だが、クロフト家の家臣たちは慣れたもので、彼らは「公爵様はいつもお忙しくていらっしゃる」と声を揃えてフォローを入れてきた。あくまで政務優先なのだ、と。
(これが彼のやり方……か)
エリザベスは胸中で苦い思いを抱えながらも、なんとかその場を取り繕った。
晩餐会が終わると、エリザベスは割り当てられた客室へ戻った。そこはクロフト家の客用の部屋だが、広く美しい調度品に溢れ、天蓋付きのベッドには高級なカーテンがかかっている。伯爵家の屋敷とは比較にならない豪華さだ。
窓からは月光が差し込み、仄白い光が床に影を作っていた。エリザベスは窓辺まで歩み寄り、外の夜空を眺める。
(明日、私はクロフト公爵夫人になるのね)
しんとした夜の静寂の中で、彼女は自問する。これで本当に良いのだろうか。自分は家を救うために嫁ぐ。クロフト家からの援助があれば、グリーン伯爵家は破産を免れる。使用人たちや領民たちを路頭に迷わせずに済む。
だが、一方で将来の伴侶となる人物には、愛など微塵も感じられない。政略結婚は珍しいことではないが、こんなにも冷たく事務的な相手と、どうやって夫婦として暮らしていけばよいのか。
どんなに強がっても、不安は拭えなかった。しかし今さら逃げることなどできない。
「……私は、大丈夫」
自分にそう言い聞かせて、エリザベスは窓を閉じた。冷たい夜風が、頬をかすめる。心の奥には、結婚に対する不安と諦念が混ざり合う複雑な思いが渦巻いていた。
だが、彼女はあくまでも凛としている。それが貴族としての誇りであり、家を守る責任を負った娘としての宿命なのだから。
* * *
こうしてエリザベスとアレクサンダーの婚約期間は、あっという間に終わりを迎えようとしていた。お互いのことをほとんど知る機会もなく、ただ契約書に書かれた条件をこなすだけの日々。
愛のない政略結婚。エリザベスは冷静さを装いながらも、その胸中にはどうしようもない焦燥感と虚しさが巣食っている。そして明日の挙式を経て、名実ともに彼の妻となるのだ。
(もし、この先、何年もこのままの状態が続くのなら、私は本当にそれに耐えられるのかしら……)
そう思わずにはいられない。けれど、彼女にはもう選択肢は残されていない。後戻りすることはできないのだから。
この夜、エリザベスはなかなか寝付けなかった。素晴らしく柔らかなベッドも、豪華な部屋も、却って落ち着きを失わせる。
――そして、深夜。
薄暗い部屋の中で目を閉じていると、かすかな足音が廊下から聞こえた。誰かが急ぎ足で通り過ぎるような気配。こんな時間に屋敷内を動き回る者はいったい誰だろう。
彼女は耳を澄ませるが、すぐに音は遠ざかってしまった。大きな屋敷には夜勤の使用人もいるから、特に不思議なことではないかもしれない。
(……気にしすぎかもしれないわね)
自分でそう納得させ、再び目を閉じた。けれど、心のどこかで妙な胸騒ぎが残る。
――明日以降、自分はどんな人生を歩むのだろう。
不安に苛まれながらも、エリザベスはそれを誰にも打ち明けることなく、ただじっと堪えるしかなかった。
こうして迎える“政略結婚”の朝は、果たして彼女の運命をどう変えていくのか――。
エリザベスには、それを知る由もなかった。愛のない結婚生活を余儀なくされるのか、あるいは思いも寄らない未来が待ち受けているのか。
しかし、彼女はこのとき、ある一つの決意を胸に秘めていた。
「私にできることがあるなら、どんな手段を使ってでも、グリーン伯爵家を守り抜いてみせる。そして、たとえ夫となる人が冷徹であろうとも、私の意志だけは決して曲げない」
それはエリザベス・グリーンという女性の、不屈の精神を象徴する言葉だった。
深い夜が明け、朝陽が差す頃。彼女は鏡の前で自分を見つめ、静かに微笑む。どこか儚げでありながら、瞳の奥には決して消えない強い光が宿っていた。
愛を期待してはいけない――と自分に言い聞かせながらも、彼女は微かな希望を胸の片隅に感じていたのかもしれない。どんなに冷徹な相手であろうとも、一緒に暮らしていくうちに、心が通じ合うことがあるかもしれない。
もしそうでないならば、せめて自分だけは誇りを捨てず、耐え抜くしかない。いつの日か、この結婚の意味を見出せるようになる――そう信じるしかなかった。
新しい一日の始まりを知らせる鐘の音が、屋敷の外から聞こえてくる。エリザベスは少しだけ緊張した面持ちでドアを開ける。今日は挙式の当日。これを境に、自分の人生は大きく転換するだろう。
廊下の先には、すでにメイドたちが待機していた。彼女のウェディングドレスはクロフト家側が用意したもので、純白のシルクが惜しみなく使われた見事なものだった。母の体調が悪化し、今朝は来られなかったが、かわりに執事のメイソンがグリーン伯爵家からの立会人として同行してくれることになっている。
「お嬢様、どうか……お幸せに」
メイドたちはそう言いながら、涙ぐむ者もいた。エリザベスは彼女たちに笑顔を向け、「ありがとう。みんなにも必ず良い知らせを届けますね」と返す。
今は感傷に浸っている暇はない。挙式が終われば、すぐにクロフト公爵家の夫人としての務めが始まる。もしかしたら早速、領地へ赴く必要があるかもしれない。休んでいる暇などないだろう。
だからこそエリザベスは、心を強く持たなければならない。父や母、領民たちが自分を頼りにしているのだ――そう思えば、どれほど厳しい運命でも乗り越えられるはずだ。
「政略結婚。たとえそこに愛がなくても、私は自分の道を見失わない」
そう胸中で呟くエリザベスの表情は、どこか清々しく、決意に満ちたものだった。