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第4話 : 愛が芽生える新たな生活



 レオナルドを公衆の面前で追い詰めてから、しばらく時が経った。あの晩餐会で「この結婚は利害のためだけのものだ」と吹聴し、エリザベスを貶めようとしたレオナルドは、アレクサンダーが突きつけた数々の不正の証拠により、貴族社会にいられなくなった。

 その後、当局の捜査の手が伸びる前に海外への逃亡を図ったものの、クロフト家の縁者や弁務官らの協力によって王国の国境で捕えられたという報せが届いた。違法な高利貸し行為や、地下組織との繋がりを疑われていた彼に、もはや逃げ場はなかったのだ。かつては堂々とした態度を誇っていたレオナルドも、今や失意のどん底に突き落とされたに違いない。

 エリザベスにとっては痛快な“ざまあ”とも言える結末だが、それよりも大きかったのは、アレクサンダーが公の場で自分を守り抜き、「お前は私にとって何よりも大切な存在だ」と宣言してくれたことだった。

 確かに、政略結婚から始まった二人の縁。最初は互いの“利害”を重んじただけだったし、挙式を済ませた後も、アレクサンダーの多忙さや不器用さが原因で溝を感じることが少なくなかった。けれど、あの夜の出来事を境に、二人ははっきりと「夫婦」としての絆を認め合うようになったのだ。


 それから幾日か、王都からクロフト家の本邸へと戻ったエリザベスは、いつになく忙しい日々を過ごしていた。

 アレクサンダーが領内視察に出る際には同行することも増え、彼不在のときは書類整理や財務面の取り仕切りを率先して行う。もともとグリーン伯爵家の財政を立て直すべく動いていた経験があったとはいえ、クロフト公爵家ほどの大規模となると、やはり学ぶことは多い。

 だが、エリザベスはそれを苦に感じるどころか、充実感を持って取り組んでいた。広大な領地の現状を知り、必要な箇所に助力を届けられる喜び――そこには、「自分は役に立っている」という実感があったからだ。

 何より、アレクサンダーとの関係が変化したことで、仕事をするモチベーションも高まる。彼のやり方や方針を理解し、自分なりにサポートする手段を考えることが、今ではエリザベスにとって“夫婦としての務め”の一部になっている。


 ある日の朝、エリザベスは中庭のテラスで朝食を摂りながら、長いテーブルの向こうに座るアレクサンダーと目が合うと、自然に微笑み合った。

 「あまり遅くならずに戻ってこられてよかったですね。昨日の視察は、順調だったのですか?」

 そう問いかけるエリザベスに、アレクサンダーは軽く頷いてみせる。朝の柔らかな光が彼の漆黒の髪を照らし、いつになく穏やかな雰囲気を作り出していた。

 「問題はなかった。……むしろ、このところお前が事前に情報をまとめてくれるおかげで、現地での交渉や点検が効率よく進んでいると家臣が喜んでいたぞ」

 低い声だが、その中には一抹の照れや感謝の念がこもっているようで、エリザベスの胸はじんわりと温かくなる。

 「そう言っていただけるなら、私も頑張った甲斐がありました。今後も必要とあらば、いつでも言ってくださいね」

 エリザベスが微笑を返すと、アレクサンダーは短く「助かる」と呟いた。かつての彼なら、その言葉すら出さずに“冷徹な公爵”の仮面を崩さなかっただろう。今、こうして穏やかな会話が成立していること自体が、二人の関係の大きな変化を物語っている。


 食事を終えると、アレクサンダーは執務室へ向かった。エリザベスもほどなくして後を追い、彼の仕事を手伝うべく、机のサイドに控える。

 山積みになった書類の束が何種類もあり、それらを仕分けするだけでもかなりの労力だ。しかし、アレクサンダーはここ数日で「使用人と妻に仕事を適切に振り分ける」という芸当を覚えつつあるらしい。かつては全てを自分で確認しなければ気が済まないと言わんばかりだったが、今は「この件はお前に任せる」「ここは家臣に指示してくれ」などと、少しずつ周囲に頼るようになってきた。

 そして――それに伴い、仕事の合間にお互いを気遣う時間も増えた。例えば、長時間机に向かっているアレクサンダーに、エリザベスが軽食や温かい飲み物を差し出すと、彼は少し微笑んで「ありがとう」と言う。たったそれだけのことで、エリザベスは心が弾む自分に気づく。

 (そう、これが“夫婦”というものなんだわ……)

 初めはただの利害で結ばれただけだった関係が、今やこんなに自然にお互いを想い合い、支え合える関係へと変わっている。エリザベスは穏やかな幸福感に包まれながら、アレクサンダーの役に立てることを喜んでいた。


 そんな二人の姿を、クロフト家の家臣たちは温かいまなざしで見守っている。

 「公爵様が、あんなふうに笑うのを見るのは初めてですよ」

 「公爵夫人はとても聡明で、私たちにも気遣いをしてくださる。公爵様の負担がずいぶん軽くなったようだ」

 使用人たちの間で交わされるそんな会話は、エリザベスの耳にも届くことがある。彼らの言葉に含まれる感謝と安堵の色を感じ取り、エリザベスはこっそりと胸を撫で下ろす。

 (アレクサンダーの強大な権威にのみ頼るだけでなく、私自身が力を発揮して、家臣や領民たちと協力していく……。その形こそ、私が目指す“理想の夫婦”かもしれない)


 もちろん、いつも順風満帆というわけではない。広い領地の問題は尽きず、王都や他の貴族との折衝も多い。アレクサンダーが慣れない“周囲に頼る”という行為を続けていく中で、時にはミスコミュニケーションも起こるだろう。エリザベス自身が思うように動けずに苦しむこともあるかもしれない。

 それでも、二人は一歩ずつ前へ進む。まだ形にならない部分も多いが、確かなことは、「お互いを想い合い、支え合うことで問題を解決しよう」という意志が二人の間で共有されているということだ。


 季節はゆっくりと移ろい、初夏の爽やかな風が屋敷のカーテンを揺らし始める頃、エリザベスは久しぶりにグリーン伯爵家の屋敷を訪れることになった。

 体調が思わしくなかった母の容態が安定し、ある程度落ち着いたとの連絡を受けたからだ。アレクサンダーもその日程を調整してくれ、一緒に行くと言ってくれたが、あいにく急ぎの公務が入り、当日は断念せざるを得なくなった。

 「ごめん。母君によろしく伝えてくれ。落ち着いたら、今度改めて挨拶に行く」

 彼の残念そうな表情に、エリザベスも胸を痛めながら、「どうか気にしないでください」と返す。無理をさせても仕方がないし、母の容態が良くなったところで、またいずれ機会は作れるはずだ。

 結局、メイドや侍女を数名連れて馬車を仕立て、エリザベスは単独で出発することになった。クロフト家の門を出る直前、アレクサンダーが馬車の窓際まで来て、短い言葉で別れを告げる。

 「行ってこい。またすぐ帰ってくるんだろう?」

 硬い口調だが、その瞳には名残惜しさがにじんでいた。エリザベスは笑って頷く。

 「ええ、数日で戻ります。それまでどうか、お仕事はほどほどになさってくださいね」

 その言葉に、アレクサンダーは小さな苦笑を浮かべ、「善処する」とだけ答えた。別れを告げる際、彼はさり気なくエリザベスの手に触れる。――まだ慣れない愛情表現だが、その想いはしっかりと伝わった。


 グリーン伯爵家の屋敷に到着すると、出迎えてくれたのは家令のメイソンや使用人たちだった。かつて多くを失って廃れていた屋敷も、クロフト家からの援助や、エリザベス自身がかき集めた資金によって、少しずつ修繕が進んでいる。外壁の塗り替えも終わり、荒れ果てていた庭も見違えるように整えられていた。

 「お嬢様、お帰りなさいませ。……いえ、今となっては“公爵夫人”とお呼びするべきなのですが、つい昔の癖が抜けません」

 メイソンは恐縮しながら頭を下げる。だが、エリザベスは首を振って、「昔と同じ呼び方で構いません」と微笑む。メイソンはそれに安堵したようで、深々と礼をする。

 母の部屋へ向かうと、そこには病床に横たわる母と、それを看病する看護師の姿があった。エリザベスの姿を見つけた母は、少しやつれた表情ながらも、嬉しそうに笑みを浮かべる。

 「……エリザベス……久しぶりね。ごめんなさいね、なかなかお顔が見られなくて……」

 弱々しく声を出す母に、エリザベスはそっと手を重ねた。

 「何をおっしゃいますの。お体が大変なときは、無理をなさらないでください。私こそ、もっと早く会いに来たかったのですが……」

 エリザベスがそう言うと、母は首を横に振る。

 「いいのよ……あなたはクロフト家の公爵夫人。向こうでの務めがあるのでしょう? 私はただ……あなたが幸せになってくれればそれでいいわ」


 母はかすかに涙ぐみながら、エリザベスの手を握りしめる。

 「それで……公爵様とは、うまくいっているの?」

 遠慮がちに尋ねるその声に、エリザベスは少し頬を染めて微笑んだ。

 「はい。おかげさまで……。最初はぎこちなかったですけれど、今はとても大切にしていただいています」

 詳細を語るつもりはなかったが、母には伝わってしまうのか、彼女は安堵の表情を浮かべて小さく頷いた。

 「そう……よかった……。あなたが家のために犠牲になるのではないかと、そればかり心配していたの。けれど、そんな心配はもう必要ないみたいね」

 「ええ。私も最初はそう思っていましたが、今は違います。閣下は、私を……その、すごく大切に想ってくれているんです」

 口に出して言うと、なんとも甘美な気分になる。まだまだ二人の間には照れくささや不器用さが残っているが、確かに心を通わせ始めているという実感がある。

 母はその言葉に満足したのか、少し疲れたように目を閉じる。

 「そう……ならば安心したわ。あなたが本当に愛されているなら、それ以上に望むことはないの……。クロフト公爵様にも、よろしくお伝えしてね」

 「もちろんです。母様も、どうかご無理なさらずに」


 穏やかな会話の中で、エリザベスは自分が“嫁ぐ”という決断をしたあの日から随分と時が流れ、状況が大きく変わったことを感じた。

 あの頃は、「家のために結婚する」「愛なんて期待してはいけない」と覚悟していた。ところが今は、その“愛”らしきものが確かに存在している。色づく世界はどこか温かい。苦しいこともあるが、それを補って余りある喜びがあるのだ。


 グリーン伯爵家に滞在した数日間、エリザベスは屋敷の様子を一通り見回り、改修の状況を確認したり、使用人たちと再会を喜んだりして、慌ただしく過ごした。

 伯爵家を取り巻く財政難の問題は、クロフト家の支援と、エリザベス自身が努力してきた商業ネットワークの整備によって、なんとか危機を脱しつつある。道半ばではあるが、これまでの苦しかった時期を思うと、まさに“光”が差し込んでいる状態だ。

 「お嬢様……じゃなかった、公爵夫人。私たち、もうすぐ給金が少しだけ上がりそうなのですよ」

 あるメイドが恥ずかしげに報告してきたとき、エリザベスは思わず胸が熱くなった。かつては給金すらまともに払えず、メイドたちが離れていくことも多かったのに、今は少しずつ改善の兆しが見えている。

 これもアレクサンダーが支援を申し出てくれたおかげだし、それを実務面で受け止めたエリザベスや、伯爵家の使用人たちの努力の賜物でもある。ちょっとした成功かもしれないが、こういう積み重ねが大切なのだとエリザベスは再確認する。


 母の容態も落ち着いていると分かり、エリザベスは胸を撫で下ろした。後ろ髪を引かれる思いはあるが、クロフト家での務めが待っている。アレクサンダーも、そろそろ領地での視察を終えて戻ってくる頃だろう。

 ――名残惜しくも、エリザベスは伯爵家の屋敷を後にする。メイソンや使用人たちに見送られながら馬車に乗り込むと、彼女は小さく呟いた。

 「また、来ますから。母のこと、よろしくお願い致します」

 「はい。お気をつけてお帰りくださいませ、旦那様にもよろしく」

 そうして馬車は動き出した。道中、エリザベスはかつて慣れ親しんだ風景を窓から眺めながら、「今はもう、あの家がすべてというわけではないのだな……」と寂しさ半分、誇らしさ半分の思いを抱く。自分には、もうひとつ帰る場所があるのだ――アレクサンダーのいるクロフト家が。


 クロフト家の屋敷へ戻ったエリザベスは、玄関先で意外な光景を目にする。

 中庭に面した回廊の辺りに、複数の使用人と騎士たちが忙しそうに立ち働いており、その中心にはアレクサンダーがいた。

 「お帰りなさい、エリザベス様」

 屋敷の執事がすぐに駆け寄り、エリザベスを出迎える。アレクサンダーも、その物々しい雰囲気の中で彼女に気づき、足早に近づいてくる。

 「無事戻ったか。……悪いな、少し騒がしいだろう?」

 「いえ、どうかしたのですか?」

 エリザベスが問いかけると、アレクサンダーは静かに眉をひそめる。

 「実は、レオナルドの取り巻きだった連中の一部が、我が家に嫌がらせの手紙を送りつけてきたらしくてな。安全上の懸念があるから、騎士たちと執事が警戒を強めているんだ」

 聞けば、レオナルド本人はすでに拘束され王都に連行されたが、その周囲にいたならず者が散り散りになって逃げ回っているらしい。一人二人は捕捉されたが、完全に一網打尽にはできておらず、行き場を失った連中が“逆恨み”でクロフト家を狙う可能性があるという。

 エリザベスは少し表情を硬くしながらも、深いため息をつく。

 「そうですか……。やはり、そう簡単には終わらないのですね。何か私にもできることはありますか?」

 そう尋ねると、アレクサンダーは首を横に振る。

 「心配するな。お前は普段通り過ごしていればいい。いざというときは騎士団が動くし、私もすぐ駆けつける。……お前の身に危険が及ばないよう、私は最大限の対策を講じるつもりだ」

 頼もしげな言葉だが、その横顔には微かな疲労の色が見える。領地管理や外の仕事だけでなく、こうした警護の問題にも奔走しているのだ。


 その夜、エリザベスは執務室でまだ仕事を続けているアレクサンダーを案じて、メイド長のステラと軽い夜食を用意する。スープや温かいハーブティーを盆に載せ、扉をノックして中へ入ると、アレクサンダーは大量の書類を抱えて渋面を作っていた。

 「アレクサンダー、少し休憩しませんか?」

 そう声をかけると、彼は手元の書類から視線を上げ、わずかに表情を緩める。

 「……ありがたい。少し喉が渇いていたところだ」

 エリザベスは机の隅に夜食を置き、一杯のハーブティーを差し出す。すると、アレクサンダーはそれを口に含んでホッとしたような息を吐く。

 「忙しそうですね。レオナルドの残党への対策も、あなたが指揮を執っているのですか?」

 エリザベスが椅子を寄せ、隣で彼の顔を覗き込む。アレクサンダーは苦笑混じりに書類を指しながら言った。

 「ほとんどは騎士団長や弁務官が進めている。私は最終的な判断を任されているだけだ。……だが、こういう輩はしぶとい。万が一、屋敷に潜り込むなどという事態が起これば……」

 「私なら大丈夫ですよ。絶対に負けません」

 真剣な表情でそう返すエリザベスに、アレクサンダーは呆れたように笑う。

 「それは心強いが、あまり無茶はするな。……もしお前に何かあったら、私は……」

 そこで言葉を止め、アレクサンダーはかすかに目を伏せた。その気持ちは痛いほど伝わってくる――自分の身に危険が及ぶかもしれないことが、彼にとって大きな不安要素なのだ。

 エリザベスはそっとアレクサンダーの手に触れ、柔らかな声で言う。

 「分かっています。あなたが私を守ると言ってくれた。でも、私だって何もできないわけじゃない。あなたの足手まといにはならないように気をつけますから、どうかそんなに心配しないで……ね?」

 無理に強がるつもりはないが、もう“守られるだけ”でいるのは嫌なのだ。そうやってアレクサンダーの顔を見つめると、彼は眉をひそめたまま小さく頷いた。

 「お前は、本当に強い女性だな。……以前なら、そういう言葉を受け入れられなかったかもしれないが、今は素直にそう思う。……俺のためにも、無事でいろ」

 「ええ、分かりました。あなたこそ倒れないでくださいね。休息を忘れないように」


 そう言ってエリザベスは小さな微笑を浮かべる。アレクサンダーは恐縮したように視線をそらし、それからハーブティーを最後まで飲み干した。部屋の中に残る静寂には、二人の息遣いと、落ち着いた拍子のような心音だけが響いている。

 ――かつての距離感が嘘のようだ。今はもう、手を伸ばせばそこに相手がいて、言葉を交わし合える。互いを気遣う気持ちが、確かに通じ合っている。それがエリザベスにとって、何よりの幸せだった。


 やがて、クロフト家周辺を騒がせたレオナルドの残党も、一人また一人と捉えられ、王都の弁務官によって裁かれる運びとなった。

 屋敷に嫌がらせの手紙を送った者も、結局は隠れ家を突き止められ、あえなく逮捕。大きな衝突は起こらず、最悪の事態を回避できた。

 それらの報告を聞き終えたある日、エリザベスはアレクサンダーと共に、ちょっとした小旅行を兼ねた視察に出かけることになった。広大な領地の一角――山あいに位置する小さな村で、川の水位調整や林道の整備などが進んでいるとのことで、その最終確認を行うためである。

 普段ならアレクサンダー単独、もしくは家臣を連れて最低限の人数で赴くところだが、今回ばかりはエリザベスも同行を申し出た。領地の事情をさらに深く理解するためにも、外の風景を見ておきたかったからだ。

 村へ着くまでの道のりは馬車で数時間。簡易的な食事を挟みながらの長旅になるが、エリザベスは疲れるどころか、夫と二人きりで過ごす時間に心弾ませていた。森を抜ける山道では、アレクサンダーが安全のために馬車を降り、騎士たちと周囲の警戒にあたる場面もあったが、それすらも頼もしさを感じる光景である。

 「あなたって、本当に領地の至るところを把握しているのですね。林道の様子を見ただけで『ここはもう少し木を間引いた方がいい』なんて、素人目には分からないわ」

 エリザベスが感心して声をかけると、アレクサンダーは少し照れ臭そうに肩をすくめた。

 「昔から、多少自分でもやりすぎだと思うくらい現場を回っているからな。おかげで周囲からは“仕事熱心というより、過労知らずの鬼”だなんて呼ばれ方もしていた」

 「ふふ、それは納得してしまうかも。でも、そんなあなたを慕う人がたくさんいるのも分かります。貴族として自ら現地へ足を運び、直接目で見て判断するのですもの、領民たちも安心できるでしょうね」

 率直に褒められ、アレクサンダーはばつの悪そうな表情を浮かべるが、その瞳にはどこか嬉しそうな光が宿っているように見えた。


 村へ着くと、簡素な建物が並び、緑豊かな環境が広がっていた。整備されつつある林道を歩き、川の近くまで行くと、村人たちが懸命に作業をしている姿が見える。アレクサンダーは手慣れた様子で村長や現場責任者と話をし、工程の進捗を確認していた。

 一方のエリザベスは、現地の女性たちや子どもたちから声をかけられ、自然と談笑が始まる。彼女の上品な見た目や優しい物腰がすぐに評判になり、「これがクロフト公爵夫人様か」と興味津々の様子だった。

 「奥方様は、とってもお綺麗ですね……。しかも、私たちのような田舎者にまで優しく接してくださるなんて」

 そんな言葉にエリザベスは恐縮しながら、「とんでもありません。私もいろいろ勉強させていただいているんです」と返す。どこか緊張していた女性たちも、彼女の気さくな態度に安心したのか、次第に打ち解けて様々な話を聞かせてくれた。

 すると、作業を終えたアレクサンダーが戻ってきて、そんな光景を目に留め、少し驚いたように目を見張る。普段は自分が現地で情報を集め、村人に直接指示を出していたが、エリザベスはまた違う形で村人たちから生の声を集めているのだ。

 「……彼女たちは、お前に何を話していたんだ?」

 馬車へ戻る途中、アレクサンダーが控えめに聞いてきた。エリザベスは笑みを浮かべながら答える。

 「最近川の水量が安定しているから、畑で採れる作物の質が向上しているそうです。あと、子どもたちがおやつ代わりに摘む山菜がとても美味しいらしくて……。とても活気があって、いい村だと感じました」

 そう言うエリザベスに、アレクサンダーは僅かに目を丸くして、それから柔らかな笑みを浮かべる。

 「なるほどな……。俺はいつも作物の収量や輸送効率、それに関わる費用対効果ばかり気にしていたが、お前の話を聞くと“そこで暮らす人々の喜び”に目が向く。……それも大切な情報だな」

 ふと珍しく柔和な表情を見せるアレクサンダーに、エリザベスの心は温かくなった。村で聞いた声は、確かに書類には載らない生きた情報であり、そこには“人々の生活の満足度”が映し出されている。

 「私も、あなたに教えられてばかりですよ。こうしてあなたと一緒に視察に来るたび、貴族として何ができるかを学んでいるんです。それに……あなたの領民を思う姿勢は、私の誇りでもあります」

 素直にそう伝えると、アレクサンダーはわずかに照れたような苦笑を浮かべ、馬車へ先に乗り込んだ。

 馬車の中では長旅の疲れを癒すように、エリザベスが用意した軽い食事を取りながら、二人で領地のこれからについて話し合う。まだ具体的な計画は多く、問題も山積みだが、二人ならきっと乗り越えられる。そんな確信が芽生えていた。


 視察を終えて屋敷に戻り、日常業務に追われる中、ある晩エリザベスが執務室を訪れると、アレクサンダーがソファに腰掛けて一息ついていた。机の上には閉じられた書類が積まれており、どうやらすべて目を通し終えた様子だ。

 「今日もお疲れさまです。もう遅いですから、休まれてはいかがですか?」

 そう声をかけると、アレクサンダーは静かに頭を振る。

 「もう少し、ここで休ませてくれ。……疲れたが、いろいろ考えたいことがあるんだ」

 エリザベスは彼の隣に腰掛ける。執務室に置かれたソファは、来客用としては堅いが、二人で座るにはほどよい大きさだ。ふと窓の外を見上げれば、月明かりがかすかな光を落としている。

 「……お前と結婚してから、俺は随分と変わったと思う」

 アレクサンダーがぽつりと漏らす。エリザベスは彼を振り返りながら、「変わった……というと?」と首を傾げる。すると、彼はやや戸惑いを含んだ口調で続けた。

 「以前の俺は、すべてを自分でやらなければ気が済まなかった。仕事熱心などと聞こえはいいが、実際には“人を信じる”ということをしてこなかったんだ。だが、今はお前を始め、家臣たちに任せるべきことを任せるようになった。領民の声にも、もっと目を向けるようになった。……それはお前がいたからこそだと思っている」

 アレクサンダーの声には、感謝と少しの驚きが混ざっていた。自分でも意識しないうちに変化していたということだろう。

 「君が私を変えたんだ」――そう言わんばかりの彼の視線が、エリザベスに向けられる。エリザベスは一瞬胸が高鳴り、言葉を失いかけるが、深呼吸してから穏やかに笑みを返す。

 「私も、最初はあなたとの結婚を“利害だけ”だと思っていました。家を救うための手段でしかないと。でも、今ではあなたといることが、心から幸せだと感じています。……私も変わりました。あなたのおかげで」

 思い切ってそう打ち明けると、アレクサンダーは少し驚いたように瞳を見開く。エリザベスはさらに言葉を続ける。

 「あなたが家臣や領民に慕われる理由を、実際に見て知ったからでしょうか。単に冷たいだけの貴族ではなく、誰よりも行動し、責任を負う姿を見てきました。……そんなあなたと一緒に歩んでいけるなら、私はどんなに辛いことでも頑張れます」


 その告白に、アレクサンダーは無言のままエリザベスを見つめている。蝋燭の灯りが揺れ、彼の瞳に揺れる光が映る。その瞳の奥底には、かつての冷徹な光ではなく、柔らかい感情が浮かんでいるように見えた。

 「……お前は強いな。知性も行動力もある。本当に、こんな俺なんかでいいのか?」

 低い声で問う彼に、エリザベスは一瞬戸惑うが、すぐに首を横に振る。

 「いいえ、そんなことありません。私はあなたがいいんです。あなたでなくては……きっとこんなふうには思えない」

 思えば、初めは政略結婚だったからこそスタート地点に立つことができた。もしそれがなければ、アレクサンダーと深く関わる機会などなかっただろう。だが、偽りの縁をきっかけに本物の“愛”を得たのだとしたら、それは決して悲しいことでも薄っぺらなことでもない。

 会話が途切れ、二人の間には静寂が訪れる。だが、それは居心地の悪い沈黙ではなかった。お互いの言葉を噛みしめ、確かめ合うための時間だ。

 やがて、アレクサンダーはそっとエリザベスの手を取り、自分の胸元へ引き寄せる。その仕草はぎこちなく、けれども真摯な思いが滲んでいた。

 「……私はお前を守る。そのためなら、どんな手段をとっても構わないと思える。お前さえいれば、どれだけ仕事が増えようが、人にどう思われようが問題ない」

 「アレクサンダー……」

 彼の言葉に応えるように、エリザベスは彼の手をしっかりと握り返す。心の底から湧き上がる愛しさが、言葉にならないまま胸を満たしていく。

 しばし互いの温もりを感じ合い、さらに近づいた距離のまま見つめ合った。二人の間には、もはや昔のような遠慮や壁はほとんど存在しない。


 やがて、アレクサンダーは意を決したようにエリザベスを引き寄せ、抱きしめた。エリザベスの背中へ回された腕は力強く、そして優しい。思わず彼女はその胸に顔をうずめ、そっと目を閉じる。

 「……お前がいなければ、俺は相変わらず独りで突っ走り、疲れ果てていたかもしれない。お前がいてくれるからこそ、これから先も、俺は変わり続けられるだろう……」

 低くかすれた声が耳元に響き、エリザベスは胸が切なくなるほどの幸福感を覚える。アレクサンダーは不器用だが、それゆえに誠実だ。今この瞬間、全身全霊で気持ちを伝えてくれようとしている。

 「私も、あなたと共に生きていきます。どんな困難があっても、あなたとなら乗り越えてみせます」

 返されたその言葉に、アレクサンダーは抱きしめる力を少しだけ緩め、エリザベスと目を合わせる。二人はそっと唇を重ね、静かな夜の中で初めて“心から愛し合う夫婦”となったことを確認し合った。


 その後、クロフト公爵家では形式的な夫婦から真の伴侶へと変化したエリザベスとアレクサンダーが、目覚ましい働きを続けていく。

 お互いの欠点を補い合う形で領地を管理し、使用人たちに的確な指示を送り、時には自らの足で各所を巡って現状を把握する。アレクサンダーは不器用ながらも、以前より他者を信頼し、助力を求めるのが上手になってきた。エリザベスはそれをサポートしながら、外部との交渉にも積極的に関わるようになっていく。

 「公爵夫人は、このあたりの状況をどうご覧になりますか?」

 ある家臣が尋ねてきたとき、エリザベスは迷いなく意見を返す。

 「ここは商人たちとの取引を活性化させる余地がまだあります。特に、作物の売り先を増やすなら他国の市場も視野に入れて……」

 そうした会話を“公爵が留守の間にも”行えるようになっているのだから、周囲の家臣たちも「公爵夫人が頼もしい」と感心する。もちろん、アレクサンダーもそれを肯定し、同じ目線でエリザベスを尊重してくれている。

 時にすれ違いや、小さないざこざもあるが、話し合いと気遣いで乗り越えられる。二人の間に流れる絆は確かなものであり、少々の問題で揺らぐようなものではなくなっていた。


 それからさらに幾月かが過ぎ、季節が移り変わり、日差しが少しずつ和らぐ頃、クロフト家の広大な庭で小さな宴が催されることになる。

 きっかけは、アレクサンダーの遠縁にあたる公女の誕生祝いだったが、同時に“クロフト家の業績を祝う場”でもあった。王都の有力者や周辺貴族が複数招かれ、音楽や食事を楽しむ雅やかな場となる。

 エリザベスはホールの入り口で出迎えの役を務め、アレクサンダーは要職にある貴族や王室関係者と応対を行う。表向きは豪華で楽しげな宴だが、背後にはさまざまな利害が絡んでいるのだろう。かつての自分なら、緊張で押し潰されていたかもしれない。しかし今のエリザベスは落ち着いており、堂々と振る舞っている。

 「公爵夫人、以前お会いした時よりも、さらに気品が増していらっしゃるわ」

 お世辞も含まれているだろうが、そんな言葉をかけられても笑顔で対応できる。何より、自分にはアレクサンダーという揺るぎない支えがあるのだ――その安心感が、エリザベスの心を穏やかに保っている。


 やがて宴もたけなわとなり、賓客たちが思い思いに会話を楽しむ中、エリザベスは中庭の花壇の近くでふと足を止めた。そこからは、音楽隊の奏でるやわらかな旋律が聞こえ、テーブルには豪華な料理が並んでいる。かつては見ることもできなかった華やかな光景だ。

 (あの頃は、私がこんな場を主催する側になるだなんて、夢にも思わなかった……)

 政略結婚が決まったときの、自分の暗い絶望を思い出す。愛のない結婚生活が待っていると信じて疑わなかったあの日々。その絶望が、今では信じられないほど遠い世界の記憶だ。


 「エリザベス」

 後ろから聞こえた声に振り向くと、アレクサンダーが花壇の横へ近づいてきていた。忙しく立ち回っていたはずなのに、どうやら少しの隙を見つけてエリザベスのもとへ来てくれたようだ。

 「お疲れさまです。お客様たちとのお話は一段落しましたか?」

 エリザベスが問うと、アレクサンダーはうなずき、「だいたい済んだ」と短く答える。その横顔には、いつもの厳しい表情というよりも、どこかほっとしたような安堵が浮かんでいる。

 「お前はどうだ? 疲れていないか?」

 あくまでさりげない気遣いだが、エリザベスは嬉しそうに微笑む。

 「ええ、大丈夫ですよ。思ったより来客も多いですが、皆さんが礼節を守ってくださるので、こちらとしても対応しやすいです」

 そう返しながら周囲を見渡すと、確かに複数の貴族が集まっているのが目に入る。けれど、誰もがクロフト公爵夫妻に逆らうような真似はしない。レオナルドの一件を目の当たりにした今、軽々しく敵に回す者などいないのだ。


 「あれだけの騒動があった後だが……こうして平穏に宴が開けるのはいいことだな」

 アレクサンダーは低い声で呟き、エリザベスのそばへ寄り添う。以前なら、公衆の面前でこんな距離感を取ることはしなかったはずなのに、今は自然にエリザベスをエスコートするように立っている。

 やわらかな音楽が流れる庭で、エリザベスは小さく微笑んだ。

 「本当に……。こうしてみると、私たち、いろいろあったのが嘘みたいですね。でも、その度にあなたが私を守ってくれたから、今があるんだと思います」

 アレクサンダーはその言葉に、少し照れくさそうに目を伏せる。しかし同時に、穏やかな声音で応じた。

 「お前を守るのは、俺の使命でもあるが、今はそれだけじゃない。お前がいないと、俺は……もう、満足に前へ進めないかもしれない。だから……お前が傍にいてくれて嬉しい」

 不器用な愛の告白。その言葉を聞いたエリザベスは、胸が熱くなるのを感じた。自分の存在が、彼の人生にとって必要なものになっている――それをはっきりと示してくれているのだ。

 「私も、あなたとこうしていられるだけで幸せです。最初は利害だけの関係だと思っていたけれど、今ではあなたがいてくれることが、私の人生を大きく変えてくれました」

 言いながら、エリザベスはかすかに笑みを深める。すると、アレクサンダーもそれに呼応するように、わずかだが確かな笑みを返してくる。公衆の場でこんな笑顔を見せる彼は、本当に珍しい。いや、もしかすると誰も見たことがないかもしれない。


 そんな二人の様子に、近くにいた使用人たちはこっそりと目を細め、まるで微笑ましい光景を見守るかのようにそっと視線を外した。夫婦のプライベートな瞬間に余計な邪魔をしない――彼らなりの気遣いである。


 「今は、形式的な結婚ではなく、心から愛し合う夫婦になれたと思っています」

 エリザベスは手袋をはめたままの指先を、そっとアレクサンダーの腕に触れさせる。彼も、僅かにその手を取り、エスコートするように組み合わせた。庭を彩る花々や、夕暮れの空にかかる一番星が、二人を祝福しているかのようだ。


 やがて時が過ぎ、宴も終わりに近づく。貴族たちが次々に帰っていくのを見送った後、エリザベスはほっと息をつき、アレクサンダーに向かって微笑む。

 「もう誰にも、私たちを引き裂かせないわ」

 その言葉は、かつての苦労や陰謀を乗り越えたからこそ言える決意の表れだった。どれほど大きな利害が絡もうとも、どんな敵意が向けられようとも、今の二人を裂くことは難しい。

 アレクサンダーはその言葉を聞き、静かに頷く。

 「ああ。……俺もそう思う。お前を傷つける者があれば、何としてでも排除するし、お前とならどんな試練も乗り越えていけると信じている」

 互いの瞳を見つめ合う。そこには揺るぎない絆が確かに存在していた。今までは“政略”という味気ない契約でしかなかったはずなのに、いつの間にか二人の間に芽生えた愛情が、何ものにも代えがたい宝物となっている。


 そして、そのままエリザベスは花の香りが漂う庭の道をアレクサンダーと共に歩く。ランタンの優しい明かりが夜の闇を薄め、二人の足元を照らしていた。

 ひとつ、またひとつと、困難を超えるたびに深まる愛。それは不器用な貴族と、強い意志を持つ令嬢の出会いが生んだ奇跡だ。エリザベスは微かな笑みを浮かべながら、手を握ってくれているアレクサンダーの方へ視線を向ける。

 (もう誰にも私たちを壊させない。私たちは本当の夫婦になれたのだから……)


 ――夜空を見上げると、月の光が柔らかく照らしていた。こんなにも心安らかな夜を、かつてのエリザベスは想像すらできなかった。けれど今、彼女は確かに幸せを感じている。

 この先、まだ試練が訪れたとしても、二人なら乗り越えられるだろう。お互いを支え合う“愛”はもう、揺るぎない形となって胸の中に根づいているのだから。

 そうして、エリザベスはこれからの日々を思い描く。いつか子をなし、クロフト家の領地をよりよい場所へと導き、家臣や領民が誇れる主となれるように。アレクサンダーもまた、変わり続けることを恐れず、彼女と共に歩んでくれるはずだ。


 風がそよぎ、庭の花がかすかに揺れる。エリザベスはアレクサンダーの腕を取ったまま、静かに呟く。

 「もう誰にも私たちを引き裂かせない」

 笑みをたたえたその横顔を見て、アレクサンダーもまた頷く。二人の強く温かな決意を象徴するかのように、周囲を彩る夜の光が、彼らを優しく包み込んでいた。


 ――こうして、政略結婚から始まった二人は、真の夫婦として生きる道を切り拓いていく。どんな苦難も、どんな陰謀も、今の二人ならばきっと乗り越えられるだろう。何故なら、すでに“偽り”ではなく、心からの愛が彼らを繋いでいるのだから――。



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