どうしたいのか。
改めてそう問われると、返答に困る。確かなことがあるとすれば、それは一つだけだった。
「……やっぱり、許せない」
ひょっとしたら自分にも問題があったのかもしれない、とは思う。けれどだからといって、いじめに走ったのは間違いなく由美香の咎であるはずだ。例え多少サークルの雰囲気を悪くしていたとしても、何も犯罪に走ったとか誰かを殴ったとかそういう行為をしたわけではない。それなのに、あんな風に虐め殺されなければいけないでは道理が通らないはずではないか。
「貴方には、申し訳ないけど。私はやっぱりあの女に……報いを受けて、欲しい」
「そうだよね」
百合人は、私の返答を分かっていたようだった。やがて大きく息を吸って、そして言ったのである。
「でも、君は由美香を直接呪うのは難しいんだよね?まだ幽霊になって日が浅いから。時間を過ぎればそれなりの力を手にするかもしれないけど、君は何年も由美香が平穏に生きるのを良しとはできない……そうだろう?」
「うん。……待てる自信、ない」
「それに、あまり長いことこの世に留まると、君は悪霊になってしまうかもしれない。悪霊になった存在を何度か見たけど、酷いものだよ。自分の苦痛に囚われてそこから抜け出せない。自分で自分を虐め続けてしまっている。俺は、君そうなってほしくはない」
それから、と彼は続けた。
「恐らく誰かを呪い殺したら、その時点で君は悪霊に堕ちてしまう可能性が高い。……本当に、その覚悟はあるの?」
そう言われると、なんと言えばいいのかわからない。正直、納得できることでもなかった。
一番悪いのは由美香であるはずだ。それなのに、私の方が苦痛の縄に縛られて苦しめられ続けるなんて、そんなの理解したいことでもない。私はもう十分苦しんで苦しんで、それで死んだはずだというのに。
「……でも、だからって、許せるわけない」
問題はそこに尽きる。
由美香はその罪を一切問われないままなのか。せめて社会的制裁くらいは受けるべきではないのか、という気持ちが強い。
ゆえに。
「例え、悪霊になっても私は……あいつを、なんとかして苦しめたい」
「そうか。じゃあ、それを覚悟の上で俺を呪い殺してみる?」
「それは……」
そう、現在わかっている、唯一彼女を苦しめられる方法。それは、由美香が溺愛しているこの兄を呪殺することだと知っている。心臓病で長期入院している百合人を殺すだけならば、幽霊になって日が浅い自分にさえ造作もないことなのだから。最愛の兄が死ねば、彼女はきっと恐ろしく悲しみ、苦しむことだろう。
でも。
――そのつもり、だったのに。
今は、それは嫌だと思ってしまっている。だって、本当に悪いのは由美香であって百合人ではない。由美香の罪の代償を、百合人に払わせるのは、あまりにも道理が通らないことだ。それくらい、本当は最初からわかっていることである。
何より。
――なんで。
この人がいなくなる。もうお話できなくなる。そう思っただけで、どうしてもう動いてないはずの自分の心臓が握りつぶされそうになるのだろう。
――初めて、私のこと、わかってくれた人。……この人と、生きてる間に出会いたかったって思ってしまった。
幽霊になった後一緒にいられる可能性は低い。だってきっとこの人はすぐ天国に行く。そうでなくても、幽霊になった後バラバラになってしまう者は少なくないと知っている。目覚めてすぐのころ、近くにいた浮遊霊からそういう話を聞いているのだから。
死んだら、きっともう二度と会えない。
そう思ったら、ああ、急に。
「大丈夫だよ」
そして、百合人は。
「君が、俺を呪い殺す必要は、ないんだ」
「え」
「あとちょこっとだけ待ってくれればいい」
彼は寂しそうに笑って言ったのだった。
「俺、もうすぐ死ぬんだよ。本当は、だいぶまえに余命宣告されてるからさ」
何を、言っているのかわからなかった。
喉からかひゅっ、と掠れたような音が漏れる。声に出そうとして失敗した音だった。おかしなことだ、この体は魂だけで、本当に肉体があるわけでもないというのに。
「なに、言って、る、の」
「由美香にも家族にも言えなかったんだ。あまりにも申し訳なくてね」
最近元気だから、みたいなことを由美香に行っていた百合人。しかしそれにしては顔色が悪いなと思っていたのだ。
どうやら、本当は相当よくなかったらしい。それでもどうにか誤魔化して、妹の前では気丈に振る舞っていたということか。
「あと何回由美香と会えるかもわからない。ただ、由美香とああいう会話をして……それで俺が死んだらきっと、由美香は俺の最後の言葉を真剣に考えてくれると思うんだ。なんなら遺言を残してもいい。何にせよ、由美香は俺を失って、それなりに苦しむことになる。……君があと少し待てば、そうなる。君が手を汚す必要はないんだ」
「そ、それ、もう、本当に……」
「移植手術をすれば助かる見込みはあったんだけど、ドナー見つからないまま何年も過ぎちゃってね。その間にどんどん悪くなって、もう仮にドナー見つかっても……体力が残ってないんだ」
「そん、な」
せっかく会えたのに。まさか、もうお別れだというのか。
気づけば文香はその場に崩れ落ちていた。何か、本当に何か方法はないのか。何故由美香ではなく、こんないい人が死なないといけないのか――。
「嫌だ!」
気づけば、涙がぽろぽろと零れていた。
「なんで、なんでなんでなんで!なんで貴方なの?貴方は何も悪いことなんかしてないじゃん!」
「文香さん……」
「呪い殺すつもりだったけど、わかってた。貴方に罪はないってわかってた!何より……初めて、初めてこんなに真剣に話聞いてくれた。私に寄り添ってくれた。貴方みたいないい人、なんでこんな早く死ななきゃいけないの?何で貴方なの?何であの女じゃなくて、貴方なの、ねえ!?」
彼は由美香の兄だ。こんな言い方してはいけないとわかっていても止められなかった。
ああ、前に誰かが言っていた気がする。この世は、優しい人間や、善人ほど先に死んでいくものなのだと。
「……俺は、由美香の兄なのに。君は俺の為に泣いてくれるんだね」
「だって」
驚いたような顔をする彼に、私は思わず零していた。
「好きなの」
口にしたら、はっきり自覚した。ああ、そうだ。自分は、出会ったばかりのはずのこの人のことを――いつの間にか、本気で好きになっていたのだと。
「貴方が、好きなの。だから、死んで、ほしくない、の」
馬鹿げた話だ。
片や自殺して死んだ幽霊女。
片やいじめ加害者の兄の病人男。
最初から、結ばれる余地なんてなかったはずなのに、なんで気持ちはうまくいかないのだろう。
好きにならなければ、こんな想いまでしなくて済んだはずなのに。
「人はみんな、いつか死ぬよ。それが遅いか早いか、それだけ」
彼は、私の透けてしまっている頭をそっと撫でてくれた。感触なんてほとんどわからないだろうに、それでも。
「俺も君のこと、他人とは思えなかった。ほっとけなかった。だから、そう言って貰えて……とても嬉しい。恋なんてしたことないからさ、俺もそういう気持ちとは言えないけれど」
「……うん」
「人は死んだら、生まれ変わるっていうじゃないか。だから、君もちゃんと成仏しなよ。未練もあるかもしれない。許せないことは許せなくてもいい。でも……君が幸せになるために、気持ちを切り替える必要はきっとある。悪霊になんかなっちゃいけない。自分を、それ以上苦しめちゃいけない」
「百合人、さ……」
「来世でもう一度出会うことができたら、その時は」
真っすぐに私を見る百合人の目は、まるで宝石のように澄み切っている。
「その時は今度こそ、俺と友達になってくれないか。強く望めばきっと、叶うから」
「う、あああ、あああああああっ……」
それから、約一か月後のことだった。
百合人は発作を起こし――そのまま病院で、帰らぬ人となったのである。彼は死の直前まで、お見舞いにきた妹を説得し続けていた。結局彼の生前、自分の非を認めなかった由美香。だがしかし、その兄が亡くなったことは相当応えた様子だったのである。
「……お兄ちゃん」
兄の遺言だから、という理由なのかもしれない。
でも彼の仏壇の前に座る憔悴しきった由美香はある日、ぽつりとこう言ったのだった。
「あたし、やっぱり自分のやったことが間違いだったと思えない。でも……でも、大学には、言おうと思う。警察に言う勇気はない、けど、でも。……それが、お兄ちゃんの望みなら、あたしは……」
こいつのことは忌々しい。でも、一つだけ感謝していることがあるのは確かだ。
――あんたのおかげで、あの人に出会えたのは確かだね。
泣き濡れる由美香に背を向けた時、不思議なことに私の意識も溶けるように消えていったのである。
――ああ、もう一度……いつか、もう一度あの人に、会えるなら、私は。
***
令和十二年。
とある中学校、とある音楽室にて。
『わあああああああああ!ほ、本当に?本当に君、コントラバスやってくれるの?』
『は、はい。その、音楽ものすごく素人で……楽譜も読めないんですけど、でもやってみたくて。だから吹奏楽部に入ったんです。コントラバスの音聞いたらすごく良かったので……その、私みたいな女の子でもできますか?』
『できるできる!ありがとう、嬉しいよ。その、コントラバスパート、俺と君の二人だけしかいないんだけどさ。一生懸命教えるよ。一緒に頑張ろう!えっと、名前は……』
『あ、一年二組の、
『俺は二年一組の櫻井雪人。一緒にコントラ、がんばろうね!』