長い沈黙の後。由美香は目に涙を浮かべながら、絞り出すように言ったのだった。
「……じゃあ」
それはさながら、自分が被害者であるかのような顔。
「じゃあどうすれば良かったの。お兄ちゃん、あの場所いなかったからわからないのよ。あいつがどれだけ、どれだけみんなに迷惑かけてたか。お兄ちゃんは自分もそうだったとか言うけど絶対違う。本当の本当に、比較にならないくらい困った人だったの」
「由美香……」
「あたしだってやりたくてやったわけじゃないわ。普通にサークル活動したかっただけ。でも、本当に、あの人が演奏に混じるだけでへたくそすぎて不協和音が酷かったし……せめて掃除とか片付けとか雑用頑張ろうとするなら評価もしたけど、そういうのも全然気が利かないし。飲み会に行っても、本人が飲まないのはいいとしても全然先輩にお酌とかしないのよ?グラスあいてても気づきもしない。空気読んで動けって何度も注意してるのに被害者ヅラして泣きそうな顔するばっか……本当にイライラする!」
「空気、ね」
「ええ、わかってるわ。具体的に指示しなかったのって思うんでしょ。でも、具体的に全部指示しなきゃいけないのも疲れるっていうか無理なの!一つ言ったらそこから学べばいいのに全然学ばない人に、なんで毎回毎回毎回1から10まで教えないといけないの?一緒にいるだけで疲れるし、雑談しててもみんなが全然興味ない話題しか振ってこないし、本当の本当の非愉快で!」
それが、彼女の偽らざる本音だったのだろう。多分、私を露悪的に見せようとする意図さえないのだ。本人は本当に、自分が被害者の側だと思っているからこその言動。
――私だって。
ぎゅうう、と私は拳を握りしめる。
――なんとかしたいって思ったよ。みんなに合わせたいって。全部指示を仰ぐの申し訳ないって。でも……でもどうすればいいのかわかんないの。
数学なら、特定の公式に当てはめれば必ず解決できるだろう。でも人間関係はそうはいかない。
前にチョコをプレゼントして喜んでくれた人が毎回チョコをあげれば喜んでくれるわけじゃない。前に褒めて笑ってくれた人が、いつもどんな時でもその褒め言葉で機嫌が上向くわけじゃない。
本能的に、そういうものをうまく拾える人と拾えない人がいるのは想像がつく。きっと由美香はできる人で、私はできない人だったのだろう。その壁の隔たりは、簡単に超えられるものじゃない。
――でも、それでも、だからって……。
泣きたいのは、こっちだ。
――私は、みんなに嫌われていじめられて、自殺させられなきゃいけないほど罪を犯したの?私は、犯罪者だったの?違うでしょ?
他に方法はなかったのだろうか。
そう思ってしまうのは間違ったことではないはずだ。
「いつもいつも嫌な気持ちになって、段々音楽も楽しめなくなってた。あの人がいる限りずっとこんなキモチなんだっておもった。あたしは……あたし達はその不快感からどうにか身を守ろうとしただけだもん!」
由美香は泣きながら叫ぶ。
「あたし達だって、その前に退部して欲しいってことは遠まわしに伝えた。でも、あいつは傷つきましたって顔するだけで退部しないし、ていうか多分意図伝わってないし!強制力がないと思ってタカをくくってたのかしれないけど全然ダメで、これじゃ自分の方が壊れると思って……だからちょっとだけ嫌な思いしてもらっただけよ!実際写真ばら撒いたわけじゃないんだから犯罪なんかしてないじゃない、同性同士だし……」
次の瞬間。
パンッ!と乾いた音が鳴った。思わず私はぎょっとして固まってしまう。
まさかのまさかだ。なんと、百合人が由美香の頬に平手を食らわせたのである。
「……きっと」
苦痛をかみつぶしたような顔で、百合人は言った。
「きっと、由美香も苦しかったんだろう。それはわかった。でもさ。……そうやって一生懸命自己弁護を並べている時点で、君は気づいているね?そうやって自分を守らなければ非難されるようなことをしてしまったのだと」
「あ、あた、あたしは……」
「昔の由美香は、他人の気持ちがわかる子だったよ。……それは由美香の言う〝空気を読む〟スキルが優れていたからかもしれない。それは凄いことだと思う。でもね。君ができることが、誰もにできると思ってはいけない。国語ができない子は算数ができるかもしれない。算数が出来ない子はかけっこが得意かもしれない。由美香が1パーセントの努力で出来ることが、他の人には50パーセント努力しないとできないことかもしれないし、120パーセント努力してもできないことかもしれない。俺が、由美香と同じように走り回れないようにね」
「……っ」
わなわなと震えて、叩かれた頬を触る由美香。百合人は続ける。
「はっきり言うよ。どんな理由があってもだ。……由美香、君がしたことは犯罪だ。仮に、彼女にどうしようもない非があったとしてもだ」
その言葉に、由美香は心底ショックを受けた顔になる。だが、彼は追撃の手を止めない。
「由美香は、女の子相手なら恥ずかしい写真撮られても平気?ネットにバラ撒かれていなくても、いつかはばら撒かれるかもしれないと思っていて本当に怖くないの?知り合いに便器の水飲めって言われてできるなら、今からそれやってきなよ」
「お、お兄ちゃん」
「それとも、今から俺が警察に連絡入れようか。妹がこんなことしたって白状しましたよって。悪いけど、大学じゃなくて、いきなり警察に連絡するからね。隠蔽されても困るし」
「やめて!」
ついに、由美香はその場で泣きながら崩れ落ちた。そして、悔し気に拳で床を叩く、叩く、叩く。
「お兄ちゃん、酷い、酷いよ、なんで、なんでぇ……!」
「自分は加害者だと、それをはっきり自覚しなさい」
お前の一番の罪はね、と百合人は断言した。
「こんなことになる前に……ちゃんと誰かに相談して、踏みとどまることができなかったことだよ」
***
由美香はそれ以上、ほとんど反論できなかった。言いたいことは山ほどあっただろう。疑問もあったかもしれない。でも、完全にパニックになってしまって言葉にならない様子だった。
私はそれを、ただ黙って見ていた。やがて病室には私と百合人だけになる。
「……百合人、さん」
私はそっと彼のベッドに腰掛けて言う。
「その、ありがとう……ござい、ました」
「今更敬語いいって。それに……こんなことで償いになるとは思ってない。俺も、あの子もね」
「…………」
由美香は、最後まで謝罪を口にしなかった。いや、そもそも百合人が被害者ではないのだから、彼に謝っても意味はないことなのだが。
なんとなく、わかったような気がする。由美香は、本当に自分がやったことが正しいと思っていたのだということが。本人なりに悩んだこともあったのかもしれない。苦しんだこともあったのかもしれない。そして実際、私にもある程度非はあったのかもしれない。
でも結局、出てくる言葉は一つなのだ。
「結局、どうすればよかったの」
おかしなことだ。鏡には、泣き腫らした私の顔が映っている。きっとこの姿が見えるのは、私自身だけなのだろうに。
「みんなに合わせようとした。頑張ろうとした。でも、ダメだったの。基礎問題ができても、そこから発展した応用問題ができないようなもの。……人間関係に、まともな公式なんかないから」
「うん。……わかる。君にも、俺にも、きっと反省するべき点はあったんだと思うよ」
それでもね、と百合人。
「いじめをしたらもう、いじめた側が圧倒的に悪い。そうなるんだよ。そこでブレちゃいけないんだ。そうでなければ、障害がある人間、特性が強い人間、多数と違うところがある人間ならいじめて排除していいってことになってしまうから」
「……うん」
この国は他の国以上に、協調性とコミュニケーション能力を重要視する。
ならば頑張っても人並のコミュニケーション能力が持てない人間はどうすればいいのか。存在するだけで悪だというのなら何故生まれてきたのか。そう言う話になってしまうではないか。
「さっき由美香にも言ったけど。もっと早く、誰かに相談するのが一番良かったと思う。由美香からサークルの様子は多少聞いた。彼女は部長さんをとても尊敬していて、リーダーシップのある人だと思っていた。顧問の先生もいたっていう。その人達に、どうして相談しなかったんだろうね」
「うん。……部長さんは厳しい人だったけど、ちゃんと具体的にアドバイスくれる人だったから助かってた。顧問の先生も」
「人を追い出したいなんていきなり言っても取り合ってくれないかもしれない。でも、関わり方を変えることはきっとできたはずなんだ。……それをせずに、とにかくいじめをしてでも君を追い出すのが正解だと思ってしまったのが彼女の一番の罪だろうね」
「……はい」
結局、彼が望んだとおりにならなかったのは確かだ。なんせ由美香は全然反省する気配がなかったのだから。罪悪感がゼロではなかったようだが、それでも自分は正しいことをしたと思い込もうとしているし、たとえ今私が彼女の前に現れてもきっと鼻で笑うだけだろう。
あるいは呪われるかもしれないという恐怖から、嘘っぱちの謝罪はするかもしれない。命乞いをするかもしれない。でもそれは、それでは何の意味もないのだ。
どうせ反省しないなんてわかっていて、諦めたつもりだった。それでもやっぱりモヤモヤしてしまうのは、自分がまだ何かを望んでしまっているからなのだろうか。
そもそも自分は、彼女に心から土下座してもらったら気分が晴れるのだろうか――。
――多分、そんなことも、ない。
段々とわからなくなってくる。自分は、何をどうしたいのだろう。
由美香を呪って、苦しめて殺してやれば「ざまぁ!」と笑ってやれると思っていた。でも、今の自分にはそこまでの力はない。何より、それをすれば本当に幸せになれるのかもわからない。彼女の姿を見るだけでイライラするけれど、見なくなれば本当にすっきりするのだろうか。
――ああ、そっか。
なんとなく、理解できてしまった。
――由美香もそうなのか。私がいなくなれば全部すっきりしてハッピーエンドだと思ってた。でも、本当はびびってたし、もやもやしてたから……あんな風にパニクってたんだ。
誰かを傷つけて悪意で叩きのめしても、本当に欲しいものは手に入らない。
わかっていても悪意を向けざるをえないのが人間ならば、あまりにも救いようがないではないか。
「文香さん」
そして、少し考えた後に百合人がこう切り出してくるのだ。
「君は、結局のところどうしたい?」