なんでそこで怒りだすのだろう。訳がわからず、混乱する私。
「わ、私が何を思おうが、あんたには関係ないじゃない……!」
「そうだね、でも、俺が言いたいのはそういうことじゃない」
百合人は少し悲しそうに眼を細めて言う。
「生きていても意味がない人なんて、いない。君も……君にとっては不本意だろうけれど、君が憎くてたまらない由美香も」
「あなたにとってはそうでも、私は私なんかいなくなった方が良かったと思ってるし!由美香だって、あんな人を傷つけて平気な奴に生きてる価値なんかないでしょ!」
「それでも、誰かに望まれて生まれて来たんだよ。……こうして、ベッドの上で寝てばっかりの、一番役立たずな俺だって」
「!」
そこでようやく、彼の状況を思い出す。
今の言葉。本当は、彼自身がずっと思っていたことではないのだろうか。自分は生まれてくるべきではなかったのではないか、誰の役にも立てないのではないか、と。
「ご、ごめんなさい、あんたを詰ったつもりじゃ……」
流石にこれは申し訳ないと思い、謝意を口にした。すると百合人は「いいよ」と首を横に振る。
「でも、俺のことに想いを馳せてくれる余裕があるなら聞いてほしい。……俺もさ、昔から空気読め、空気読めって言われていじめられるタイプだったから想像つくんだよ」
「え」
「体が弱くてできないことが多かったのは確かだけどそれだけじゃない。みんなに置いて行かれるのが嫌で無理に遊びに加わったら足を引っ張るし、掃除の時間もみんなのやってほしいことがわからなくてオロオロするしね。そういう特性があるタイプだったみたいだけど、でも子供達はそんなことわかんないだろ?あいつは空気読めない変なやつだってずっと言われてきたよ。そのくせ壊れものみたいに大人が扱うんじゃ、そりゃ孤立しても仕方ないというか」
本当にね、と彼は苦笑する。
「空気なんて、目に見えないものどうやって読めばいいっていうんだろうね。それで指示を毎回求めたら『自分で考えろ』って言われて、自分で考えて動いたら『余計なことするな』って言われるだろ?本当にどうすりゃいいのって思って……まあ小学校の時は一時期不登校になったよ」
「あんたも……」
それは、まさに私が悩んでいたことだった。
いつも人に見張られているような場所で、誰かと足並みをそろえて作業するのが苦手だった。軽音部ならそこまでのことはないだろうと思ったらそんなこともなくて、作業や掃除のたびに戸惑ってしまった。
誰かに指示を仰げばうっとおしいと言われ、誰かと同じ作業をしようとすれば他のことをやれと言われ、休んでいるので自分も休んでいいのかと思って休んでいたらサボっていると何故だか言われる。
空気、空気、空気、空気。
きっと由美香はそういうのに苛立ったのだろうが、それでも私からすると思ってしまうのだ。じゃあどうすればよかったの、と。
「そのくせ、俺はこんな体で、本当に誰の役にも立てやしない。でもね。……それでも、俺に逢いにきてくれる人達は、いつも笑顔なんだよ。作り笑いかもしれないけど、でも……その人達を笑顔にできると思ったら、少しでも俺は自分は生きていてよかったんだと思えるんだ。君の両親だって、そうだったんじゃないのかい?君と一緒にいて、笑顔になってくれた瞬間はたくさんあったんだろう?」
「……親は、そうだけど。でも、友達は……」
「親でいいんだよ。世界で一人、たった一人でも自分を必要としてくれる人がいるなら……自分自信を、蔑ろにしちゃいけないんだ。君がここにいる時点で、俺は確信してるし」
困ったように笑う、百合人。
「君は、俺が死んだら由美香が苦しむと思ったから、俺を呪い殺そうと思ってここにいるんじゃないのかい?」
まったくもって、その通りではある。
彼が死ねば、由美香が悲しむ。それはつまり、百合人が愛されていたことの証明に他ならないだろう。
「死んでしまったことは、取り返しがつかないことかもしれない。でも、君はお葬式もやってもらえたし、両親は君の死できっと泣いたはずだ。それは、君に価値があったことに他ならない」
何より、と彼は続ける。
「自分が苦しかった分、自分も音楽で誰かを励ましたい。そう思える人に、価値がないなんて俺はまったく思わないよ」
「……何で」
そんなこと。
そんな優しいこと――言ってくれた人なんて、過去に一度もなかった。気づけばぼろぼろと、涙が頬を伝っていくのがわかる。
悔しくてたまらない。何でこの人は、大嫌いな女の兄なのだろう。なんで、自分は。
「何でいまさら、そういうこと、言うの……」
どうしてこの人が、私の友達ではななかったのだろう。
なんで死んだ後で、出会ってしまったのだろう。
「私は、もう、死んでるのに。何もかも、遅いのに」
「遅いことも多いけど、それだけじゃないだろう。君は成仏して、またきっと生まれ変われる。生まれ変わったら、もっと素敵な人生が待ってるかもしれないじゃないか。今の気持ちも、後悔も、きっとその糧になると思うけどな」
「うう、ううっ」
ああ、もし。
もし死ぬ前にこの人に出会っていたら。この人が傍にいてくれたら何かは変わったのだろうか。なんて、そんな前提破綻しているにもほどがあるけれど。
「誰だって得意なことと苦手なことはある。一番ダメなのは、自分と違う人を全部否定して、悪だと決めつけてしまうことだと思う。……これも、妹にきちんと話をしないといけないな」
うん、と彼はメモを取るような仕草をする。多分だが彼は、頭の中できちんと言いたいことをまとめているのだろう。
「多分来週、また由美香はここに来るから。その時に、ちゃんと話をしようと思うよ。君も、同席したかったらそうすればいい」
その上で、と彼は言う。
「どうしても納得できないことになったら、その時俺をどうするか考えてくれないだろうか。どうせ俺は、君に何をされても抵抗できないし、簡単に死ぬだろうしね」
***
どんなに優しい言葉をかけてくれても、どんなに綺麗な顔をしていても、結局のところ彼は由美香の兄でしかない。少しほだされてしまったけれど、相手は病人で自分は幽霊。一時点と線で交わっただけの関係なのだ。どうせ、妹に泣きながら訴えられたらころっと態度を変えるに決まっている。私を悪者にするに決まっているのだ。
だから、気にしてはいけない、むしろきちんと恨み続けなければいけないと思っていた。
そう、思っていたというのに。
「……なんで」
翌週。
兄に私の自殺について問われた由美香は、わかりやすいほど真っ青な顔をして言った。看護師から人の噂と通じて聞いた、というの彼の言葉をすっかり信じこんだようだ。
「お兄ちゃん、何、言ってんの?あ、あたしが……そんなことするはず、ないじゃない」
「そんなこと?」
「い、いじめみたいな真似するわけないじゃん!た、確かに、死んだその人のことは本当は知ってたけど、知ってたって言ったら根掘り葉掘り聞かれそうで嫌だったから誤魔化しただけだもん!」
案の定、由美香は自分を正当化しにかかった。
「す、鈴木さんは確かに死んじゃったけど、全然仲良くなかったし。確かに軽音部で孤立してたけど、それはあの人が全然空気読めなかったからで!本人が完全に悪いの、へたくそなのにギターもっと教えてほしいとか言って先輩の練習邪魔するし、片付けとかおろおろしてばっかりで何もしないし時々勝手に休んでサボってるし!少し強い言葉で叱るといつも自分が被害者みたいな顔して!……だからサークル、やめてほしいって思ってた。でも、本当にあの人のせいで雰囲気悪くなってたんだから、いなくなってほしいって思うのは当然でしょ!?」
ああ、それはわからないではない。
でも、私にだって言い分はある。ダメなところがあるなら、ぼんやりした言葉で「空気読め」となじるのではなくて、具体的にどうすればいいか教えてくれればよかったではないか。言うべきことも言わずにイライラをため込んで、対策も取らなかったくせに追い出して解決しようなんておかしなことではないか。
しかも追い出すために、あんな動画や写真まで取って、便器の水まで飲ませるなんて、そんなこと。
「……確かに、場の空気を悪くしてしまうタイプの人がいるのはわかる。実際、俺もそうだったからね。子供の頃、みんなに申し訳ないと思ってたんだよ。俺も全然〝空気読めない〟タイプだったから」
「ちょ、お兄ちゃんはあの女とは違うわ!あれは、お兄ちゃんに無理強いさせる周りの奴らが悪かっただけで……!」
「そういうことなんだよ、文香。物事は、視点を変えるだけでひっくり返る。俺はずっと、空気読めってぼんやりした言葉で責められて辛かった。叱るなら、具体的に何をしてほしいか指示して欲しかったし……何より言葉を選んでほしかったよ。尊厳とか、人格を否定する言葉は、ただ相手を傷つけるだけで何も生み出さない。まあ、相手を苦しめたいなら別だけど。文香、そう言う言葉を彼女に言わなかったのかい?」
「だから、お兄ちゃんとあいつは違うし、あたしはっ!」
「何も違わない。仮にサークルをやめてもらなければいけないとしても、他に方法があったんじゃないか。由美香。なんで由美香は俺のことは俺の立場になってものを考えようとしてくれるのに、その人の子とは考えることができないの?」
「だって本当に迷惑だったから!」
完全に話は平行線。
そんな由美香に、百合人は悲し気に言う。
「多分きっと、由美香も嫌な思いをしたんだと思う。薫さんにまったく非がなかったわけではないかもしれない、でも」
俺の目を見て教えてくれ、と百合人は真剣なまなざしを由美香に向ける。
「君は、いじめみたいな真似はしてない、と言った。つまり、恥ずかしい写真を撮ったり便器の水を飲ませる行為はいじめに該当する行為、だと理解しているわけだね」
「そ、それは」
「由美香。俺の目を見て。……本当にそんな行為、君はしていないのかい?」
「…………っ!」
最愛の兄にこの話をされるのは、流石の由美香も堪えたたしい。彼女は完全に口ごもった。
そしてほんの少しの間、病室には沈黙が落ちたのである。