この男に、あの女の所業を明かすことにデメリットはない。
そもそも私としては、何も知らないであろう百合人に全てぶちまけてやったらどんな顔をするか見てみたいという気持ちもあったのだ。
私は怒りのまま、全てを語った。八つ当たりがあったのは否定しない。本当に責められて詰られるべき人間が何も知らずにのうのうと生きている、その恨みつらみを全て百合人にぶつけてしまったようなものだから。
しかし病床の青年は、目を逸らすことも耳を塞ぐこともなく、真剣な面差しで私の話を聞き続けたのだった。
「……それは」
全てを吐き出して私が少し落ち着いたところで、彼は眉を寄せて言った。
「本当に、すまなかった」
「何が!すまなかった、なのよ!何も知らずにあんな女に優しくしてたくせに!」
「そうだな。……前に本で読んだことがある。知らなかったことは罪ではなくとも、知らなかったがゆえに許されることは何もない、と。実際、君の失われた時間は、命は、もう戻ってこないんだから」
ぎゅうう、と膝の上で毛布を握りしめる男。
「それでも、俺は……すまなかったと、君に謝ることしかできない。兄として、心から謝罪する。彼女の異変に、まったく気づけなかったのだから」
「――っ!」
なんだよ、と私は思う。
怒りの拳の、振り下ろしどころがない。その殊勝な態度が、かえって虚しさを増幅させる。
あいつは一切謝罪しないのに、なんでこいつは当たり前のように頭を下げているのだろう。
――私だって、わかってる。
百合人はずっと前に両親が離婚している上、ずっと病院で入院している。はっきり言って長年一緒に住んでいなかった妹が何をしているかなんて知らなくても無理はない。むしろ、何もかも知っていたらその方が恐ろしいだろう。
理不尽だとは思わないのか。八つ当たりだとは感じないのか。
そもそも、自分の可愛い妹を盲目的に信じようとは思ないのか――。
「あんたね……」
唸るように、私は言う。
「なんで自分が謝らなくちゃいけないんだと思わないの?自分は知らなくても当たり前なのになんで監督責任求められてんのとか思わないわけ?なんでそんな殊勝な態度なの。大体、謝ってももう取り返しなんかつかないんだよ!私は……」
私はあんなに苦しんで死んだのに。
あんなにあんなに、惨めな思いをして死んだのに。
――何もかも遅いのに。
そう思ったら、ぽろり、と涙が頬を伝った。
「大体……可愛い可愛い妹なんでしょ。妹のこと信じてやろうとか、思わないわけ?」
「そうだな。俺にとって、由美香は大事な妹だ。だから、できれば彼女からもきちんと話を聞いてちゃんと判断したいとは思うよ」
「ふん、そうなったら、妹を盲目的に信用してさ、私が言うことは嘘つきだって決めつけるんでしょ。そうに決まってる」
「そんなことはない。そもそも、君は何かを誤解している」
百合人は私をまっすぐ見つめて言った。
「本当の愛っていうのは、妄信することではないんだよ。相手が間違っていたなら、きちんと間違いを指摘して叱ることも大切だ。だから由美香が間違いを起こしたのならば、嫌われてでも止めるのが兄としての俺の役目だ。……この調子だから、兄らしいことなんて一つもしてやれなかったしね」
自嘲気味に言う彼に、私は何も言えなくなる。病気になったのは間違いなく彼のせいではないし、両親が離婚したことに関しては妹のせいでさえないのだろう。だからこそ。
「君は少なくとも、君の中で真実と思っている話をしていると思う。嘘や誤魔化しを言っている人間は、目を見ればわかる」
ただ、と彼は言う。
「当たり前だけど俺は由美香の兄だから、贔屓目があるのは否定しない。由美香がそんな酷いことをしたなんて信じたくない気持ちはある。だから、ちゃんと由美香に話をして真実を確かめたい……それは、構わないだろうか。幽霊になった君から聞いたとは言わないつもりだよ。そもそも信じて貰えないだろうしね」
「……好きにすれば」
「ありがとう。……間違いをしたなら、由美香にはちゃんと反省してもらう必要があると思う。もちろん、それを君が許す必要はない。でも俺はあの子の兄貴だから……少しでも、人の道に逸れた真似はしてほしくないし、過ちは悔んで欲しいと思っている。君だって少しでも彼女に後悔して欲しい気持ちはあるんじゃないのかい」
「……ない、とは言わないけど」
でも無理だろう、としか思わなかった。だってあの由美香なのだ。
『あたしら、いじめなんかしてないもんね。あいつが全部悪いんだもん。むしろあっちが加害者なんだから、いじめとか言われたらマジできもいと思ってたわ』
『本当に良かったね。遺書とか残されてたらめんどくさかったけど』
『何も残さず飛び降りる馬鹿で良かったー』
あの時の馬鹿どもの会話はしっかり覚えている。いくら溺愛する兄貴に諭されたからって、それで本当に反省するなんてことあるだろうか。
はっきり言ってそのビジョンがまったく見えない。
むしろ適当なことを言って誤魔化す予感しか見えないのだが。
「罪を犯した人間は、それを後悔して相応の罰を受ける義務がある。その罰というのは、罪悪感にさいなまれて苦しむことも含まれていると思う。それは君も望むところだろう」
「そうだけど、あいつ、絶対反省しないと思う」
「しないかもしれないけれど俺から指摘すれば動揺するとは思う。それくらい、彼女が俺を大事にしてくれてるのは知ってるし」
「よくわかってんだね、妹のこと」
皮肉まじりに言ってやる。半分は、妹の所業を知らなかった彼へのアテツケだった。
しかしどうやら通じなかったようで、彼はやや遠くを見るような目で「どうかな」と返してくる。
「知っていたつもりだったけど、本当にそうだったかなって今思っているよ。離れて暮らした期間が長すぎたしね。ただ」
「ただ?」
「小さな頃は……少なくとも俺の目から見れば、甘えん坊の優しい子だったんだけどな」
そんな話、聞きたくもない。私は唇の端を歪める。
「その優しい子が、人の恥ずかしい写真をトイレで撮って脅迫して、トイレの水飲ませて自殺に追い込むの?」
こんな言い方がしたいわけじゃない。本当に、これじゃあ八つ当たりだ。
でも私は、あの女への恨みで死んだ幽霊。そこから感情が、どうしても抜け出せない。
「ああ、本当に。どうして、なんだろうね」
その泣きそうな顔がイライラしてたまらない。私が苦しめたいのはあの女であって彼じゃないのに、何故。
「そう言う顔やめてよ!」
思わず叫んでいた。
「あのね、私が憎たらしいのは由美香なの。あんたじゃないの!なんであんたが苦しんでますって顔するの!?おかしいでしょ、苦しむべきはあいつなのに、あんたが背負ったら意味なんかないでしょうが!!」
あれ、と言ってから思った。この言葉。これじゃあ、まるで。
「え、俺の、心配してくれるの?」
「……っ!!」
ぽかん、とした顔をする百合人。その顔がまるで子供みたいで、こっちもあっけにとられてしまう。しかも。
「そっか。……ありがとう。君は辛い思いをしたのに、優しいんだね」
「うっ……」
その笑顔は、反則だ。なまじ整った顔をしているだけに、ついついドキドキしてしまうではないか。私は百合人の微笑みが眩しすぎて視線を逸らしてしまう。おかしい。なんで、こんなに顔が熱いのか。もう体温なんてないはずなのに。
その後は誤魔化すように、雑談をいくつかしてしまった。百合人は意外にも、私自身のことを訊きたがったのである。特にどうして軽音部に入ろうとしたか、について。
「……私……『ピースメーカー』の大ファンで」
ぽつり、とこぼす一言。
「あのバンドのメンバー自体も好きなんだけど、曲が本当に好きで。子供の頃から引っ込み思案で、大人しいというか友達作るのヘタなところあったから……悩んだ時にあのバンドの曲に元気を貰ってたの。いつか、自分もあんな曲を作って、同じように悩んでる人を元気づけたいと思って」
それに、と続ける。
「軽音部って華やかなイメージじゃない?そういうのに挑戦したらさ、私ももう少し暗い自分を脱却できるかなと思ってた。楽器の経験なんて全然ないし、辛うじて楽譜読める程度のスキルしかなかったのに、何考えてたんだろね」
「別に、その動機自体は何もおかしくないと思うよ。世の中には大人になっても譜面読めない人は珍しくない。読めるだけで充分アドバンテージじゃないか。それに、自分が悩んだ分、別の誰かを元気づけたいなんて素敵だと思うし」
「そ、そう?」
なんだろう、そう言われると照れ臭くなってしまう。思わず視線をさ迷わせる私。
「でも、失敗だった」
楽しく音楽がやれる。そう思って、キラキラ輝いていた時間は本当に短いものだったのだ。
「私、初心者だから全然楽器できいないし。準備とか、掃除とか、そういう作業でも……空気読めなくって」
「空気?」
「あの軽音部、女の子しかいなかったから。余計、そういうものを重視する傾向が強かったんだと思う。指示待ち人間は、それだけで嫌われるの」
集団において、コミュニケーション能力が最も重視されるのはわかっている。空気を読んで、言われなくても一番やってほしい作業をしてくれる人間。そういう人間は誰からも愛され、重宝され、どこに行っても必要とされるのだろう。
わかっていた。私はそういう人間ではないことくらい。
それでも一生懸命やっていれば、きっと友達もできるし楽しく音楽ができると思っていたのに。
「私、昔から言われるの。お前は空気が読めてない、もっと空気を読めって。……人が何をしてほしいのか、全然わかんないの。それで、いっつも指示を仰いじゃって、うざがられるというか」
段々と、自己嫌悪の気持ちが強くなってくる。こうして見つめ直してくると――もちろん一番悪いのは由美香だという気持ちは拭えないが――孤立したのは自分にも理由があったのではという気になる。
「なんか、自殺して正解だった気がする」
はは、と乾いた笑いが口から漏れた。
「私みたいなの、生きていてもきっと邪魔になっただけ。誰の役にも立てないで、迷惑かけただけで終わった気がするし」
「文香さん」
その時初めて、彼は怒った声を出したのだった。
「そんなこと、絶対に言っちゃいけないし、思っちゃいけないよ」
と。