二人の会話で、おおよそ状況は掴めた。
「お母さん、心配してたわ。最近お兄ちゃんの具合が悪いって。大丈夫なの?お父さんはちゃんとお見舞いに来てる?」
「ああ、大丈夫だよ由美香。最近はこれでもだいぶ調子がいいんだ。父さんも仕事が忙しいのに毎週来てくれているし」
「それならいいけど……」
どうやら、兄である百合人と妹の由美香の両親は離婚しているらしい。言葉から察するに、父に引き取られたのが百合人で母に引き取られたのが由美香だったということなのだろう。
兄の顔色はあまり良くない。ただ、彼らの会話から察するに、これでも最近は具合が良い方だという。どうやら百合人は重い心臓の病があって入院しており、由美香が頻繁にお見舞いに来ているということのようだ。
――何だよ。
私は思わず唇を噛みしめる。
――あんた、私を虐めてる時とはえらい態度が違うじゃないの……。
由美香は兄の前では完全に猫を被っている様子だった。ここだけ切り取って見れば、兄の心配をする献身的で優しい妹に見えるかもしれない。お見舞いの品も兄が好きなものを取り揃えようとしているのがうかがえるし、兄を楽しませるためなのか大学での明るい話題ばかりをチョイスしている。
正直、とても同じ人間には見えなかった。私を虐めていた時は虫けらでも見るような冷たい目か、害虫を踏みつぶして喜ぶ悪意味満ちた笑顔ばかり見せていたくせに、と。
「音楽、本当に楽しいの。あたし、もっともっと練習してベース上手くなりたいなって!」
「そうか。今度俺も聞いてみたいな」
「聞かせてあげる!あ、ベースだからメロディやらなくて地味だけど……」
「それでもいいよ。是非聞いてみたい」
「ほんと!?じゃあ練習マジで頑張る!」
段々と分かってきた。この女は、兄のことが大好きでたまらないのだと。本気で好きな相手には、こんな顔を見せるのだと。
――すっごい裏表あるじゃない。
百合人はきっと、妹の腐った本性なんか知らないのだろう。離婚して別々の両親に引き取られた上、長期入院しているとあっては知らないのも無理はない。妹もきっと都合の良い話しか兄にはしないのだろうから。
それでも忌々しいと思う。妹が大学でどれほど残酷でゴミクズのような真似をしたのか、全てぶち撒けてやりたい、と。残念ながら自分の姿は誰にも見えないので、そんな願望さえ叶えることはできないのだが。
――それにしても、こんなゴミ女にはもったいないお兄さんだな。
私は彼の顔をまじまじと見て言う。見れば見るほど、妹と似ていない。妹は健康的な肌の色をしているし、男女の差もあるから多少仕方ないのだろうが。
どちらかが母親似でどちらかが父親似なのだろうと結論付ける。八つ当たり気味に「きっと、由美香に似ている方の親はこいつと同じように性格がゴミなんだろうな」とも。もしそれが母親の方なら、教育不足も指摘してやりたい。親がきちんと見ていないから、娘がこんな外道に育つんだと。
――でもって……ムカつくくらい綺麗な顔。
やや童顔なのもあるかもしれない。秘密の花園にいるような薄幸の美青年とはまさにこんなかんじなのだろう。車いすに乗って花畑にいたらものすごく絵になりそうだ。思うところのある私でさえ、見つめているとドキドキしてしまう。
と、その時唐突に百合人がある話題を口にした。
「そうだ……由美香。実は、ニュースで見たんだけど」
この部屋にテレビはないが、談話室などにはあるのかもしれない。あと、スマホも使えるなら、そちらで番組を見ることもできるだろう。
「由美香の大学で……自殺した人がいたんだって?何かあったの?」
「!」
兄がそれを口にした途端、一瞬由美香の顔色が変わった。私がよく知っている、他人を貶めても平気という悪魔の苛立った顔。だが、その変化は本当に一瞬のことだったので、百合人が気付いたかどうかはわからない。
「……まあ、ね」
由美香はすぐに笑顔を取り繕ってみせた。
「あたしも全然知らない子だから、よくわかんないの。何かトラブルでもあったのかもね。怖いわー」
「……そう」
「そんなことよりお兄ちゃん、明日なんだけどさ、実は……」
妹は、力業で話題を逸らした。なんて無理やりなんだ、と見ていた私が呆れたほどに。
果たしてどこまで兄は察したのやら。しばらく無関係な雑談をした後で、面会時間終了のタイミングとなり、由美香は帰っていった。
本当にいい気なものだ、と思う。何が「知らない子だから」だ。自分がいじめて自殺に追い込んだくせに。
――そうだ。
由美香を追いかけず、私は病室でしばし思案する。
――今の表情、今の様子。……この兄貴に何かあれば、あの女は死ぬほどショックを受けるはず。
むくむくと頭の中に暗い感情が過ぎる。
百合人に自分が何かをされたわけではない。だが、この様子だと由美香は頻繁にお見舞いに来ている。それなのに、妹がやらかしたことをこいつは何も知らず、のうのうと優しく振る舞っているわけだ。なら、こいつにも一定、責任を問うてもいいのではないだろうか。だって、私はこんなに苦しんで死んだのに、あいつときたらこの男と一緒にいるだけであんなにも幸せそうなのである。こんな馬鹿なこと、許されるはずがないであはないか。
――そうだよ。こいつが死ねば……それだけであの女を死ぬほど苦しめられるはずだ。
私は虐め抜かれて尊厳を踏みにじられ、死ぬほど苦しんで死んだのだ。ならば、あの女だってものすごく苦しむべきではないか。私が何もかもを奪われたように、あの女だって一番大切なものを奪われて死ぬべきだろう。
見たところ、百合人の体は相当深刻な状態にある。さっきの会話からして、子供の頃から持病があったのが、高校生の時に悪化して以来えんえんと入院し続けているということらしい。不治の病なのかもしれない。これだけ弱った体ならば、由美香を呪い殺すより簡単に――それこそ赤子の腕をひねるように殺すこともできそうだ。
――イケメンだろうが、病人だろうが関係ない。あのゴミ女に優しくした時点で、あんたも同罪なんだから……!
今すぐ手を伸ばし、少し負のエネルギーを注ぎこんでやればいい。そうすればこいつの脆い心臓はあっけなく止まるはず――。
「そこの君」
唐突に、百合人が声を発してきた。ん?と私は思わず周囲を見回す。病室に、他に人はいない。さっき確認したところ、手前のベッドに寝ていたもう一人の入院患者は今はいない様子だった。出かけているとかそういうことだろうか。
「そこの君だよ。今、窓によりかかっている、女性」
「!?」
私はぎょっとして彼を見た。まさに今、私は窓によりかかって考え事をしていたからである。
「あ、あなた……私が、見えてたの?」
思わずひっくり返った声を出す。すると彼は、明らかに反応して頷いたのだった。
「ああ。……由美香に取り憑いてここまで来ただろう。最近死んだ幽霊さん、だよね?ひょっとして、大学で自殺したっていう女の子かな?」
「…………っ」
どう答えればいいか、悩む。そもそも私は、彼を呪い殺してやろうと思っていたところだったのだ。正直に言って、追い払われるのは非常に困る。幽霊になりたての私に大した力なんてないのだ。
それこそ拝み屋でも呼ばれたらひとたまりもない。なんなら、幽霊が見えている時点でこの男自体が霊能力者ということもあるのではないか――。
「さっきね」
私が答えずにいると、百合人は出入口のドアの方を見て言った。
「大学で亡くなった人がいる、って話をした時。ニュースにはもう少し細かい情報が書かれていたんだ。その人が
「……カマ、かけたってこと?」
「うん。そしたらその話を出した途端、由美香の顔色が変わった。何かあるなって思ったんだ」
彼は私を振り返ると、真剣なまなざしを向けてきた。
「由美香、君に何かしたんじゃないの?でもって……君は由美香に復讐するために、この病室に残ってる。俺をどうこうすれば由美香を苦しめられると思ったから。……違う?」
「……あんた」
流石に、ここまで看破されていては誤魔化せない。私は呻くように告げた。
「そこまで気づいてて、なんで私が怖くないの。自分が祟り殺されるかもしれないとか、そうは思わないわけ?」
幽霊や精霊がどれくらいの力を持っているか、というのは生きている人間にはそうそうわからないはずである。この体になってから、この世界には結構見えない存在が浮遊しているということに気づいていたが――そいつらが『強い』か『弱い』かが見てわかるのは、自分が死んでいるからこそだということも理解しているつもりだ。
生きた人間であるこいつに、それがわかるとは思えないのだが。
「別にいいよ。……由美香がそこまでのことをしたなら、それは兄である俺の責任でもある。あの子の変化に気づけなかったわけだから」
彼は自嘲するように口元を歪めた。
「それに、俺にとって幽霊が見えるっていうのはわりと日常的なことなんだ。幼い頃からそうだった。自分の体が急激にボロボロになっていった原因も、そういう悪い気に当てられたのが原因だしね。まあ、こんなこと話しても信じて貰えないだろうと思って、妹にも両親にも話したことはないんだけど」
「……あっそ。それで、何が言いたいの?」
看護師さんが来る様子はない。私が人目を気にする気配を見せると、「心配いらない」と彼は首を横に振った。
「そんなに巡回は来ないよ。小声で喋っていれば部屋の外には聞こえない。それに、同室の子は今一時帰宅しているから、この部屋には俺一人だけだ。長話していても問題ないさ」
だから教えてほしい、と百合人。
「もし妹に罪があるなら、知りたい。彼女が何をしてしまったのか、君に何があったのか……全てを俺に、教えてくれないだろうか」