君を迎えに来たよと、風の中から私を誘う男が現れてから、三十五年が経った。
今日、私はこの大陸世界に唯一屹立する魔道の学府〈魔術師の塔〉を去る。
魔術師にも、定年退職はあるのだ。
一抹の寂しさが、私に遠く去った在りし日の思い出を運んだ。
三十五年前、私は三十歳の誕生日を迎えたあの日に、魔法使いとなった。
なりたくて、なったわけではない。
ただ、縁がなかった。
思春期に肉欲の炎が燻り、やがてそれは地獄の業火の如きに膨れ上がるも……。
縁が、なかったのだ。
行きどころのない私の力は、やがて肉体から溢れ出し、それは制御の効かない危険な力の発露となった。
魔法。いや、そのときはまだ、〝法〟はない。
学びを得ない無秩序な力は、ただの嵐に過ぎなかった。
鎮める方法は、たったのひとつ。
――分かっていた。知識だけは、あったのだから。
周りの男たちも、皆分かっていた。
次々に、私の友人たちは無秩序な力の制御を覚えていった。
実践を経て。
愛しい女を得る男、生涯の伴侶を、あるいは金で贖う者、男の尻を求める者も。
――引き換えに、彼らは等しく、魔の力を失った。
私とて、知っていた。
だが、私はこの力を手放すのが、怖かった。
ひとたび踏み越えてしまえば、私はただの凡夫に堕ちるのではないか。
だからこそ。
肉欲の滾りを放ち、思うままに欲望を貪りたい衝動を、私はねじ伏せた。
そしてついに、三十を数えるあの日に、私に迎えが訪れたのだ。
「おめでとう。同士よ。ずっと見ていた。君こそ、我らと共に魔の真髄を探求するのに相応しい」
それから、どれほど素晴らしい日々を送ったことか。
だが、それを語ることは止めておこう。
〈魔術師の塔〉における数々の業績と名声を綴るなど、歴史家にでも譲ればよい。
あるいは、酒場で語られる虚飾にまみれたサーガにでも謡われればよいのだ。
僅かな私物を鞄に詰めて、私は使い慣れた古びた杖を携え、塔を去った。
二度と戻ることのない、壮麗な正門を抜ける。
後ろ髪を引かれる思いがないといえば嘘になるが、これも
それよりも――眼前に連なる肉林に、私は慄いていた。
まさか定年を迎えたこの日に、これほどの試練が待ち受けていようとは。
とりどりに着飾った女たちが、あるいは一糸まとわず、道の左右に延々と並び立ち、私に手向けの言葉を、誘いの仕草を向けてくるのである。
文字通り、色の花道。
忘れかけていた肉欲の香りが、私の鼻腔を炙り焦がした。
――だめだ。だめだだめだだめだ!
滾る、滾る、滾る、滾る、滾る!――だがっ!!
きつく、きつく目を閉じる。明鏡止水――
長年培った精神修養の技により、身の内で暴れる大蛇の如き欲望を深く鎮めた。
嬌声が、風に消える。目を開ける。顔を上げた。
女たちの姿は、消え去っていた。
「見事だ。友よ」
遠い過去に聞いた懐かしき声の響きに、私は知らず涙していた。
「あな……たは……」
男がひとり、立っていた。
その皮膚に深淵の知を深く刻み、その目は光と闇の奥を覗いている。
私を塔に導いた男、その人であった。
「来るかね、私と共に。新たな高みの道へと」
はい――ただ一言だけを発し、私は彼の手を取っていた。
私はこうして、新たな職を得たのだ。
賢者。
再び歩み始める。探求の道を。
大賢者へ至る〈道程〉を、私は歩み始めるのだった。